クライミングハンダ
最近、部屋のエアコンの効きが悪い気がする。最近というかこの夏に入ってから。一応涼しくはなっているけど、去年はもっとキンッと冷やせていたような気がする。もっと澄んだクリアな美しい冷気に満ち満ちていたような気がする。
もしかして、フィルターにホコリが溜まっているのだろうか? 実家ではいつもお兄ちゃんが率先して掃除してくれてたから、自分でまともにやったことはなかったな。よし、掃除するか。幸い今日は気温も少し低い、絶好の掃除日和だ。
決心が揺らがないうちに、スマホで適当に掃除方法を調べながら、換気のために部屋の窓を開ける。へえへえ、電源プラグ抜いて、パカッと開けて、フィルターにこびりついた汚れを掃除機で吸い取って、水洗い、必要あらば歯ブラシとかで擦り落として乾かして……面倒くさいな。掃除機だけでいっか。
私はマメな性格ではなく、むしろちょっとズボラなほうだった。この間も消費期限が過ぎたもやしが野菜室から出てきたし、まあいけるやろと思ってよく洗って食べたらお腹痛くなったんだけどたまたま別の要因が重なったのだと思っている。そんな私が掃除をしよう! と思えただけでもう百点満点だ。
外したフィルターを置くための新聞紙(私は普段読みそうにないから買ってない。これは大学のキャリアセンターで経済新聞をフリー配布していると聞いて頂戴してきたものだ)を床に敷いて、使い捨てのマスクを着ける。掃除機もヘッドを変えて、脚立はないので踏み台は椅子を使うことにする。
リモコンで電源を切って、エアコン下に移動させた椅子に慎重に足を乗せる。プラグを外して、カバーを開けて、さてフィルターとやらを──と手を伸ばしたところで、ガラッと音がした。
「ん?」
「えっ? ──あ、」
窓から、突然人が現れた。
何言ってんだという感じだが、マジで外から窓が開けられ足を掛けられ……とか思っている間に、私の視界はぐらりと傾いていた。突然の事態に、椅子に立っていたことも忘れて勢いよく振り返ったのがまずかったのだろう。驚いたことも相まって変な場所に足を置き──そこは、座面と空中の境目だった。
身体が倒れていき、全身を浮遊感が駆け巡る。どうにか受け身を、と床に両手を伸ばす。視界の端を、黒いものが駆け抜けた。
「──……っ、」
ガタンとかバサとか色んな音が聞こえた。重力の名残で、身体が変に重い気がする。痛みはない。それどころか、床の硬さも感じない? 反射的に瞑っていた瞳をそっと開けると──
「フウ、間一髪だったな」
マスクをした男性が、私に押し潰されていた。
「……えっ?」
「怪我はないか」
「あ、はい……あれ……」
真下から響く低い声。至近距離でこちらを窺う金色のつり目に、混乱しつつも返事をする。背中に触れていた何かが離れていった。ひとまず横にずれて彼から身体を下ろすと、彼はむくりと上体を起こした。
「足場が不安定な時は気を抜くな」
「それは……すみません、助けてくれてありがとうございます」
椅子から落ちた私を、とっさに抱きかかえて庇ってくれたらしい彼に、地面に座り込んだまま軽く頭を下げる。彼は律儀に「どういたしまして」と頭を下げ返してくれた。さすがに、「貴方が突然不法侵入してきたから驚いたんです」などという恩知らずと負け惜しみのハイブリッドレスポンスは返せなかった。
「あの、そちらは怪我してませんか?」
「問題ない。俺は鍛えているからな」
「そうですか、よかった」
確かにぱっと見のガタイのよさとか、鍛えている人のそれだ。きっぱりと言い放つ彼に、内心ほっと息をついた。私を助けたせいで骨が折れたとかなんとかあったら責任がどうなってしまうのか分かったもんじゃない。
とはいえ、人の家に窓から侵入してきた不審者だ。本当なら、相手の心配事などしている暇があれば逃げるなり通報するなりするべきだろう。それをしなかったのは、ひとえに彼に見覚えがあったから。
オシャレなマスクで口元を隠した彼は、前にこのビルをセロリの国にした、ドラルクさんのお友達だという吸対の人だった。どうやらロナルドさんとも元同級生だったらしく、名前はたしか……そうそう、半田さん。ちなみに、彼はあの後ちゃんとセロリを片付けてくれたらしい。ドラルクさん談。
「ん?」
そうしている間に、どうやら彼も私の顔を思い出したようで、こちらをずいを覗き込んできた。
「ああ、やはりあの時の通行人か。ここの入居者だったのか」
「あ、はい、すみません。ドラルクさんのお友達だとは思わなくて、咄嗟に嘘ついちゃいました」
「いや、構わない。常に危機管理を怠らないのはいいことだ。この新横浜は治安も悪いからな」
突然窓から他人が侵入してくるくらいですからね、とは言わずに黙っておく。うっかり口を滑らせようものなら、隠し持ったセロリで突然刺されるかもしれない。
半田さんが立ち上がったのに合わせて、私もようやく腰を上げる。机の上には少し水が残っていたコップが倒れてしまっていて、先ほど床に敷いておいた新聞紙も散らばっているのに気がついた。彼が窓から一直線に飛んできた時の衝撃によるものだろう。脚力どうなってるんだろ、すごいな。いやそれより何で窓から? まさかビルの壁面よじ登ってきたんですか? ここ四階なんですけど?
「突然すまなかったな。ひとつ階を違えた」
こちらの心を読んだように、半田さんは私に向き合って謝罪した。読んだからといって的確な答えではないところが一周回って面白い気がしてきた。
「下の階に用事があったんですか? 今日もドラルクさんに会いに?」
「いや、ロナルドの机の引き出しにこのおたまじゃくしの大群風シートを仕込みにきた」
「いやなんで? いや、理由は別にいいんですけどせめて玄関から入りませんか? 危ないですよ」
「バカめ! わざわざロナルドが不在の時を狙って来たのだ。扉は施錠されているだろう」
「警察の方が不法侵入していいんですか……」
「問題ない! 俺は吸対として
いや問題なくはないじゃないですか。しかも私服であるあたり、職務上って言い訳も立たないし。というか、夏場はエアコンつけっぱで窓も鍵閉めてる可能性があるのでは? そう思ったが、面倒なことになってもアレなので黙っておく。
半田さんはぐるりと部屋を見回した。人を招く予定などなかった分ちょっと散らかっているので、あまり見てほしくないが……彼はまずここが土足禁止であることに気がついたらしく(同じビルでも、ロナルドさんの事務所は土足だけどうちは違った)スニーカーを脱いで手に持った。それから、カバーが開いたまま放置していたエアコンを見て、マスクで覆われた顎に手を添えた。
「なるほど、エアコンフィルターの掃除をしていたのか」
「あ、はい。これからですけど」
「フム。俺が突然入ってきたがために驚いて足を踏み外したのだろう。詫びと言ってはなんだが、代わりに俺が掃除をしよう」
「えっ、ご自覚……いや、いいんですか?」
「構わん。何故なら俺は今日は非番だからな!」
何故か自信満々に告げられ、じゃあお願いします、と頷いてしまう。半田さんが玄関に靴を置きに行っている間に、私は水の広がったテーブルをタオルで拭いた。ジュースじゃなくて良かった。
*
半田さんはとても掃除が丁寧で上手かった。掃除機はもちろん、私が面倒くさがってすっ飛ばそうとしていた水洗いなどの行程もこなしてくれたし、フィルターだけでなく本体のほうも触れる範囲はピカピカにしてくれた。エアコン掃除には慣れているらしく、キビキビとした後ろ姿はプロのようで頼もしかった。もちろん、相応の時間は掛かったので、お詫びとは言っていたがむしろこっちがもらいすぎてしまった気さえした。
「半田さん、ありがとうございました。とても助かりました」
「気にするな。あ、そこのフィルターは完全に乾かしてから付けろ。カビなどの原因になるからな」
「分かりました」
彼はこの後もまだ時間があるらしかったので、今はお礼にお茶とお菓子を出していた。とはいえズボラ大学生の独り暮らし。そう都合よく高尚なものなどないので、飲み物のほうはペットボトルの緑茶と紙パックのコーヒーの二択だった。ちなみに半田さんが選んだのは前者。あとは昨日スーパーで値引きしてたカットスイカ(一口サイズにブロックカットされているやつ)を、うちで一番綺麗なガラスの器に移して出した。
彼はいつもマスクをしていたから何か外せない理由でもあるのかという懸念もあったが、とくにためらいなく外していたので安心した。長い犬歯にフォークが当たるのか、少しだけ食べにくそうにしていたけど、普通に美味しそうに食べてくれたので良かった。
しばらくエアコンを切りっぱなしの部屋はそこそこ室温が上がってきていて、扇風機を付けていても快適とは言えなかった。もしかしたら、引き留めずに早く帰ってもらったほうが、失礼が無かったのかもしれない。だが今さらなので黙っておく。半田さんはとくに何も言わず、涼しげな顔でいたのが幸いだった。
私は自分のほうのカップに口を付ける。少し火照った体に、よく冷えたコーヒーがちょうど良かった。
「俺もこのビルにはしばしば出入りしていたが、よくも今まで一度しか出会わなかったものだな」
「不思議な力が作用してたんでしょうねえ」
「貴様はロナルドの友人か? 何にせよ、ご近所付き合いがあるならヤツの痴態を目撃することも多々あるだろう」
「いやあ、そ……ウーン」
「何かあったら俺に報告するといい。これは俺のRINEのIDだ」
「あ、どうも」
それ、ロナルドさんにちょっかいを掛けたい半田さんが得するだけでは? と思ったが黙以下略。適当に笑って流して、RINEを交換した。
それからしばらくぽつぽつと会話が続いた。半田さんはお喋りといえばお喋りだったが、切り出したほとんどはロナルドさんという共通の話題だった。私に気を遣ってくれているのか、それともよほどロナルドさんに固執しているのか、ただほかに思い付かないだけなのかは判然としなかった。
ただ、中には本人からは絶対聞かせてくれないであろう昔のエピソードもあって、ちょっと得したような気分になったのは本人には内緒だ。バレたらロナルドさんぶっ倒れそうだ。
「──さて、ドラルクが帰ってきたようだな。ならばロナルドも一緒か」
「え、分かるんですか?」
「俺はダンピールなのだ」
「ああ、なるほど」
だから
「さて、俺はそろそろ失礼するとしよう。お茶とスイカ、ご馳走さまでした」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
椅子から立ち上がって軽く頭を下げた半田さんに、こちらも合わせて頭を下げる。半田さんはセロリ奇行の印象が強すぎて、これまで何かあるたびにセロリで攻撃してくるのではと勝手に身構えていたけど、思いのほか彼は礼儀正しくて、普通に常識のある人に思えてきた。私は玄関まで彼を見送り、食器を溜めないようにさっさと洗い、フィルターの乾き具合を確認し、窓から入り込んだ涼しめの風を浴びてからようやく「いや常識のある人は窓から人んちに侵入しないな」と自分の感覚が麻痺していたことに気がついた。