『一緒に休みましょう』


「それで出てきちゃったんですか」
「ああ、彼が反省するまで帰らないつもりだ」

 ホットミルクを啜りながら、ドラルクさんは何故か楽しそうに答えた。ちなみに彼に出したそれは、パックからマグカップに注いだのをレンチンで温めただけだ。対する私のほうも、パックから注いだコーヒーをチンしてミルクを注いだだけ。時短といえば時短だが、ズボラといえばズボラだ。
 つい先ほど些細なことでロナルドさんと喧嘩をしたらしく、ドラルクさんは勢いよく事務所を出てきたという。そしてヴァミマで週刊誌を立ち読みしている間に、ロナルドさんの頭も冷えただろうということで威風堂々事務所に戻ったら、いつも扉脇に掛けられている「どなたでもお気軽にお入りください」の看板が回収されていたらしい。そういえば血の古い吸血鬼は、招かれない家には入れないという縛りが課されていることがあると、ばあちゃんも前に言っていたのを思い出した。
 一時避難所として私の部屋に身を寄せたドラルクさんは、椅子に座ったまま興味津々そうに辺りを見回している。誰かを、それも男の人を部屋に上げたことなんてほとんどなくて、居心地が悪いというほどではないけど、なんだか少しそわそわする。
 ふとドラルクさんの視線が止まった。変なものとか置いてたっけ? と視線の先を辿ると、窓の近くに置いてある観葉植物の鉢があった。

「あれは何の植物だね?」
「ああ、コーヒーの木です。初心者でも育てやすいって聞いて、セルフ新居祝いに」
「ほう。葉艶もなかなか綺麗でいいね」
「ですよね。なんとなく安らぐので気に入ってます。うちの居住者2号です」
「どれ、私をしばらくの間3号にしてみる気は」
「ないですねぇ」

 さらっと即答すれば、予想外だったのかショックだったのか彼は砂になった。同性ならともかく、男性を泊める気はないし、そもそも3号はベッドの上のでかいブルドックのぬいぐるみだ。前にゲーセンで奇跡的に取れたやつ。
 ドラルクさんはマントの下で再生しながら、切り替えるようにまた話し出す。

「それにしても、いい部屋ですな。事務所うちと間取りは似ているがまるで雰囲気が違うね」
「いやあ、お恥ずかしい」
「ここには長く住んでいるのかね?」
「いえ、大学に入ったと同時に。兄が心配性で、腕利きの退治人ハンターさんがすぐ近くにいる物件を探し出して……まさかすぐ真下に事務所とは思いませんでしたけど」

 吸血鬼のホットスポット新横浜に住む以上、ここを呑まないとひとり暮らしはさせてもらえなさそうな勢いだったけど、それならオートロックとかのほうが優先順位が高かったんじゃないだろうか。あえてこんな雑居ビル選ばなくても……と今でも思わないこともない。兄は人間の犯罪よりも吸血鬼の犯罪のほうを危険視していたから、きっとそのためだったんだろう。
 まあでも、おかげでこれまで、吸血鬼騒ぎなんかに関しては大事もなく過ごせてきたわけだから、不満はとくにない。そもそも新横浜は吸血鬼が多い影響で物件はどこも安いから、どこでも良かったっちゃ良かったけど。
 コーヒーをまた一口飲む。落ち着いた時間だった。向かいにいるのが、長い時を過ごしてきた吸血鬼だからだろうか? こうしてドラルクさんと一対一で話すと、なんだか時の流れをゆっくりと感じる気がする。それは存外心地がよくて、終わらせてしまうには少しもったいないけれど、私は今一度口火を切った。

「ドラルクさん、そろそろ帰らなくていいんですか。なんなら私が一緒に行って扉開けますよ」
「いや、いい! それはなんかアレ……園児同士の喧嘩の仲裁に保母さんが出てくる感がある!」
「そうですか」

 一刻も早く追い出そうとかいうわけではないけれども……いや、嘘、時間も時間なので眠い。そろそろ寝たい。それにこういうのは時間が経つほど気まずくなるというものだ。早めに、せめて月が沈む前に仲直りができればいいけど、これはもう少し掛かりそうだな。

「……でも、そもそもロナルドさんって知ってるんですかね。ドラルクさんのその特性」
「ポケモンみたいな表現やめてくれたまえ」
「ジョンくんもいるし、わざわざ意地悪で看板外したりはしないんじゃないかと思って」

 ロナルドさんは、私から見た限りじゃとてもいい人だ。そんなせせこましい、陰湿なことはしないと思う。だけどドラルクさんはまだ腹を立てているのか、私の言葉に賛同することはなかった。

「さて、無理強いをするわけにはいかないしね。別のところを当たるとするよ。ミルクありがとう、ご馳走さま」
「いえ」

 ホットミルクを飲み干したドラルクさんが腰を上げる。口振りからして、やはりまだ事務所に帰るつもりはないらしい。
 大人の人同士の諍いだ。年下の私が下手に首を突っ込むことはないのだろう、けど。

「ドラルクさん。ジョンくんはもちろんですけど、ロナルドさんもきっと心配してますよ」
「どうだろうねえ。連載初期の頃は散々私を追い出そうとしていたくらいだから彼は」
「いやあ、ロナルドさん、ドラルクさんがいないともう・・、寂しいんじゃないですかね」
「もう?」
「だって、せっかく紡がれた縁なんですから」

 そうはっきりと言葉を放つと、他人事とはいえ、二人が離れてしまうのがますます寂しい気がした。
 知らなければ知らないままでいられただろう。だけど、知ってしまえば、知らない頃にはきっと戻れない。一度つながった縁を、ここで切ってしまうなんて、それはなんだかとても惜しいと、私にはそう思えてならなかった。

「……エン君は、全く吸血鬼を怖れないんだね」

 私の言葉を受けたドラルクさんは、少し間を含んだ様子で、嬉しそうなのか、別の感情なのか、窺いにくい微笑を浮かべる。脈絡のない台詞は、どこに掛かっているのだろう。分からないままに、私は投げ掛けられた言葉を咀嚼して、それから私がこれまで抱え続けてきたそれを示す。

「……確かに吸血鬼は強い能力を持ってたり、主食だって人の血だったりしますけど……吸血鬼ってだけで怖いと思ったことはないです」

 強がりも忖度もない、嘘偽りのない本心だ。ドラルクさんに初めて出会った時も、吸血鬼に対する恐怖なんてちっとも抱かなかった。いや、彼がすぐ死ぬザコだからとかそういうんじゃなくて。

「そりゃあ、怖いことをする吸血鬼は怖いけど、怖いことをする人間だって怖いし、どちらも同じ。だから種族に関わらず、その相手をちゃんと見て知って判断しろって、ばあちゃんの教えで」

 ばあちゃんが私に刻んだ教えは、今でもずっと私の中で息づいている。歳を重ねれば重ねるほど、ばあちゃんの言うことは本当にその通りだと思った。

「種族の違いだけで、身構えてしまうことって、やっぱり今の時代もまだあるとは思うんですけど……」

 世の価値観や考え方は、一瞬でひっくり返ることはない。だけど少しずつでも、いい方向に向かっていたらいいと、そう思う。博愛主義だとか世界に向けた大義みたいな大層なものではないけど、少なくとも私にとって、私の周りで、そうなればいい。

「私は吸血鬼とも、こうして向かい合ってのんびりコーヒーでも飲めるような、そんなふうになれたら一番楽しいと思ってるんです」

 肩の力を抜いて、共にゆっくりと温かい飲み物でも飲んで語らい合えるような、そんな平穏を作れたら、それはきっととても良いものだ。大方の吸血鬼が飲むのはコーヒーではないけど、それはさておきだ。
 ドラルクさんは、しばしの間呆気にとられたようにぱちぱちと瞬きをしていた。そのうち、ほっそりとした相好がやわらかく崩れていく。手袋を嵌めた彼の手が、向かいの私の頭に伸びた。

「エン君は本当にいい子だねぇ」
「……いやあそんな……子ども扱いされても、一応、成人してるんですよ」
「私から見たらまだまだ赤ん坊のようなものさ」
「そりゃあ、私の十倍生きてりゃそうなるかもしれませんけど……」

 とても繊細な手つきで、頭を丁寧に撫でられる。なんだかくすぐったいのは、頭か胸の内か。耐えかねて、小さな声でぽつりと呟く。

「……慣れなくて、恥ずかしいです」

 撫でられるのは慣れているはずだけど、マリアさんやシーニャさんにされるのだっていいけど、ドラルクさんにこうされるのはなんだか少し照れてしまった。初対面時、手の甲に唇を落とされたことまで芋づる式に思い出してしまい、さらに視線のやり場がわからなくなる。いいこいいこ、だなんて、もうとっくに、される年頃じゃあないのに。
 私が溢した声を聞いたドラルクさんは、ぱちぱちと瞳を瞬かせたあと、それはそれは愉快げに高笑いし出した。

「君は本当に素直で可愛いねぇ!」
「勘弁してください……」