ミスラにおはよう


 ぽたり。雨が降ったのかと思った。だけど今日はからりとした匂いと、木漏れ日が心地よかったはずで、そこで彼の頬が濡れたのは、天気のせいではないとようやく気付いた。

「あ、」

 瑞々しいエメラルドが、薄く開かれるや否やこちらを訝しげに見つめた。あらゆる言葉が全て飛んで、「……おはようございます」と絞り出すと、まだ呂律の回り切っていない甘やかな声で「おはようございます」と丁寧に返ってきた。彼はそのまま何度か瞬きをして、私の膝の上で身じろぎをしながら再び口を開く。

「あなた、何故泣いているんです?」
「……あなたが全然起きないもんだから、ビビっちゃったんですよ」

 目元を袖で拭いながら答える。ミスラさんは自分で聞いておきながら、そこまで興味がないように「はあ」と吐息のように返事をした。
 太腿からふわふわの頭が離れ、足の血が慌ただしく巡っていく。ビリビリと痺れが残る足を崩していると、ミスラさんの体に掛けておいた私の上着を、バサリと返された。少しだけ彼の体温が残されていて、彼がちゃんとあたたかいことに、安心した。

「オズさんに挑んだんですか」
「癪ですけど、失神すれば眠れると思って……というかこの魔力、あなたフィガロを呼びましたね。お陰で寝入りどころか寝起きも最悪ですよ」
「いやぁ、だって身体が酷い状態だったから……」

 中庭に倒れる彼を見つけた時、有り体に言えば、はらわたなんかが見えているようなおぞましい光景だった。本気で心臓に悪かったし、なんなら衝撃のあまり記憶もちょっと無い。
 かろうじてフィガロさんを呼んで治療してもらったものの、ミスラさんは全然起きる気配もなかった。身体が寝不足分を取り戻そうとしているのだろうとか、蓄積されたダメージの回復途中だとか、フィガロさんが私を落ち着かせるようなことを色々言ってくれたけれど、とても静かな呼吸で、死んだように眠るミスラさんの姿を見るのは、あまり生きた心地がしなかった。フィガロさんは、下手に部屋に運んで起こしてしまったら怒らせるからと言って治療しかしなかったけれど、私は例えミスラさんが怒るとしても、早く起きてほしかった。
 上体を起こしたミスラさんは、汚れや破損まみれの服を魔法で修復しながら、何かを考えるように視線を上の方に投げていた。木々の隙間から射し込む陽が、彼の髪を炎のようにように染め上げていた。

「あなたって」
「はい」
「普段あれほど図々しく肝が据わっているのに、俺が起きないだけで泣くほど、俺が好きなんですか?」
「……」

 本気で不思議そうに尋ねるミスラさんに、他意がないことは分かる。彼はいつだって言葉の素直な人だった。その感情を言語化するほどの言葉を持たない時もあったけど、彼の発する言葉はいつも何の捻りや含みもなくて、信頼できた。だから、なるべく私も素直な言葉で返したいと思っている。本当になるべく、だけど。

「私は……身近な人との別れは、すごく悲しいです。できるだけ先延ばしにしたい。だからミスラさんにも、できればあまり無茶しないでほしいです」
「ふうん。人間らしい強欲な考えですね」
「え?」
「あなたたちが、俺たちより先に死ぬのは許されて、その反対は嫌がるんですか」

 ミスラさんの淡々とした声だけがやけに浮いていた。私はいずれ見送ってもらえる安堵の中を、無意識に生きていたのだと、言われてからようやく気付いた。
 彼は今、何を想っているのだろう。言葉以上に物言いたげな瞳は、どんな感情をなぞっているのだろう。それに、彼自身は気づいているのだろうか。

「……ま、俺があなたより先に死ぬことは、万に一つもあり得ませんけどね。置いていかれるのは、いつだって俺ですから」

 私が何も返せずにいるうちに、ミスラさんはそう続けた。なんてことないような温度で告げられたそれは、同じ時を生き続けた者にしかわからない、途方もない孤独を纏っているように感じられた。
 魔法使いと比べたら、人間の寿命はとても短い。特に彼は、千年以上を生きてきた魔法使いだ。今までに幾度、誰かとのお別れをしてきたのだろう。彼は他者との深い交わりは決して多く無かったというけれど、それでもお別れというのは、時に心を掻きむしるほど、きっと寂しい。
 彼は私が死んだら、ほんの少しでも寂しいと感じてくれるのだろうか。もしそうだったら、それはとても嬉しくて、そして仕様のないほど悲しいと思った。
 おもむろに立ち上がったミスラさんは、もう魔法舎の方に戻るつもりらしかった。遠ざかる白い裾を、引き止める理由も手立ても私にはない。だけど離れていく後ろ姿に、上手く言い表せないものが喉からこみ上げて、私は代わりに彼の名を呼んだ。

「なんですか」

 律儀に止まって振り返ってくれるところがやさしく思えた。ゆっくりとした丁寧な仕草は、たまに安心感を与えてくれた。私がのそのそ立ち上がるまで、無言で待ってくれていた。彼の好きなところは、存外、多く挙げられる気がした。

「さっきは誤魔化したけど、私ミスラさんのこと結構好きですよ」

 彼が取り立てて驚いたり、照れたり、変にからかったりせず、ごく自然体で受け止めてくれる人だと分かっていた。これは私が彼に示せる信頼の一つだった。
 赤い髪と白い裾が、風を含んでやわらかく揺れている。彼は相変わらずどろりとした表情で、だけど口元だけは微かに笑みを含んでいた。

「俺に好意を示すなら、千年変わらない愛情をください」
「……千年どころか、百年すら生きられないって分かってるでしょう」
「千年生きてみればいいじゃないですか」

 あまりに気軽に言うものだから、「じゃあ、ちょっくら頑張ってみます」と気軽に返したら、ミスラさんはなんだか嬉しそうに、無邪気に笑った。その幼い笑顔も、誰にも害されることがなければいいと思う程度には、私は好きだった。