ネロと出会う


 ──お腹が空いた。
 それはもう空いていた。最後にカロリーを摂ってから丸一日以上は経過している。だけど私の絵は、通りすがりの物好きが時折依頼してくれる程度で、基本的には売れない。そもそも、立派な画家を志すほどの高尚な気持ちがあるわけでもなかった。食い扶持を稼ぐためだし、何しろ大した才能もない。他に、たまに運良く謝礼金をもらえるようなこともしていたけど、あれこそ絵が買われるより低頻度だ。
 飢えた声が胃から上がる。だけど携帯食はもうないし、お金もびた一文残っていないし、というか財布ごと無いし、無い袖は触れない。最悪、売れば高値がつくであろうものも持っていたけれど、それは本当に最終手段だ。
 ここが出身国だったら、誰かが見兼ねて声を掛けてくれたかもしれないけど、そんな他力本願は図々しいし、そもそもこの街は慎重な色合いが強く、旅人に気軽に話しかける文化自体ないように見えた。
 うだうだしていても仕方がない。今日もまた日雇いバイトの募集なんかを探して、見知らぬ街を歩き歩く。道中、ふわっと漂う懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。昔ばあちゃんが作ってくれたような、身近で家庭的で、でもなんかそれよりもオシャレな匂い。どこかの民家からだろうか。この地域の家庭料理は私の国とは違うだろうけれど、どこも同じような温かみある香りを放っているんだなぁ。
 そんなことを考えていると、ますます空腹が際立ってきた。そろそろ限界だ。

 「……、」

 ふと思い立って、道の端の側溝に寄り膝を折った。右へ左へ、目視で観察。いるかな、ネズミ。滅菌に関しては特別な植物を持ってるから衛生面は問題ないけど、気が進まないな。それに捕まえたとして、こんな都会で火なんか焚いたらすぐに通報される気がする。でも生食はできないし……。

「なあ、あんた大丈夫か」

 うんうんと唸っていると、ふいにささやかな声が降り注いだ。振り返り見上げると、背景の曇天よりもずっと空らしい髪をした青年が、どこかぎこちない顔でこちらを見ていた。







「しばらく食ってないんだろ? ほら、スープからゆっくり入れな。まだ開店前だし、慌てなくていい」

 眼の前に置かれたスープカップから、ふわりと湯気が立つ。みじん切りの野菜と、薄く切られたベーコンが、酸味のありそうな赤いスープ彩りよく浮かんでいた。セットで出されたスプーンに手が伸びそうになって、何とかこらえる。

「……あの〜、私今ちょっとはした金もないもんで……」
「いいよ、俺の法律違反を黙っててくれりゃそれで」

 直球に代金を支払えない旨伝えると、返ってきたのは気の良い返事だった。この店に連れられる道中でこっそり教えてもらったのだが、あの道は初対面の人に声を掛けることが法典で禁止されているらしかった。国や地域によってさまざまな決まり事があるが、この辺りは殊更細かな法律が多いようだ。
 しかしまあ、彼がそう言ってくれるのであれば、素直に好意に甘えたいと思う。元はといえば、彼の法律違反も私を気にかけてくれて起こったことなので、交換条件のように飲める立場でもなかったが、器に入れてもらったものを断るのも失礼だし、普通に空腹すぎて一寸先は死だった。
 手を合わせていただきます、と呟き、磨かれたカトラリーに手を伸ばす。一口分を口に注ぎ込むと、体が芯から温まる気がした。少しの崩れもなく柔らかく煮えた具材を咀嚼していく。

「……おいしい」
「そうか、それは良かった」
「めちゃくちゃおいしいです、こんなにおいしいスープ初めて飲みました……生き返る〜……」
「はは、そんな風に言ってもらえると、料理人冥利に尽きるよ」

 青年は初めて、穏やかそうに笑った。
 彼が営んでいるというこの店は、小さめの飲食店だった。落ち着いた色合いの店内は洗練されていて、いかにも都会らしいけれど、オレンジの照明からはささやかな温かみも感じた。まだ開店前らしく、客は私一人。今日のモーニング用に作ったというスープを一番乗りした贅沢を味わっていると、彼はできたてのオムレツと焼いたパンも振る舞ってくれた。
 オムレツには具材がゴロゴロと混ざっていて食べごたえがありそうだった。冷めないうちにと、黄金色のまるい山を崩しながらもちらりと彼を見やる。彼はカウンターの奥で仕込みを続けていた。ドア近くに畳まれた看板に示されたオープン時間まで、そんなに長くない。本来なら忙しい時間帯だったはずだ。
 やさしい人だな。
 彼が先程言った法律違反だって、元はといえば蹲っている私が具合を悪くしているんじゃないかと気遣ってくれたものなのだから、私は感謝こそすれ、通報なんて真似するわけもなかった。自分に得なんてないのに、見過ごさずにいてくれた彼の恩情で、私はネズミを食らわずに済んだのだ。

「……昨日、実はあんたを見掛けたんだ。役所の人間に捕まってたろ」

 不意に作業の手を止めた彼に、ああ、と相槌を打つ。
 昨夜ここからそう遠くない場所で、『この時間は歩行者のみ通行OK』の道を歩いていたら役所の人に捕まった。あそこは危険な道で、私が見た標識は馬車などの歩行者以外はOK、の意だったらしい。どうりでなんか人いないなと思った。こういったミスがないように、お金に余裕のある旅人は法律に詳しいガイドを雇うらしいが、私は金をケチったためにこんなことになった。

「『それとも君が見た時は別の標識だったか?』」
「え?」
「『たまにあるんだ、悪戯で』……あんなに丸わかりの助け舟出してもらってんのに。馬鹿正直に首振って罰金取られてるんだから、世話ないよ」
「いやぁ……まあ、他人のせいにするの、普通に良くないし……」

 役所の人は、要するに「魔法使いの仕業だ!」とうそぶく逃げ道を作ってくれたのだろう。架空の魔法使いに罪をなすりつけ、器用に逃げおおせている人も少なくないということだ。架空の人は捕まえられない。誰もお咎めを受けない。合理的だと思う。だけどそれはやっぱり、腑に落ちない。割と本気で血迷いかけたのも事実だけど。
 実は、ある経緯で財布を失ったばかりだったのだが、財布以外にも直接鞄にお金を仕込んでいて幸いだった。危うくこんなことで長旅を終えるところだった。まあ、残りの小銭も一昨日の食糧に変わって一文無しになってしまったのだが、あとは上がるだけだし何とかならぁ。

「……そっか」

 青年が小さく返した頃には、私の視線と口はパンに食いついていて、彼がどんな表情をしているかは分からなかった。久方ぶりの小麦の味が、喉が震えるほどおいしかった。

「あんたは、魔法使い嫌いではなさそうだな」
「ん……まあ、普通です。ケースバイケース?」

 今度は、食べる手を止めて彼の顔を見てみる。青年は、小さく口を開いたままこちらを凝視していた。
 この国は異端もとい少数を避ける傾向があるらしく、おそらく魔法使いはあまり歓迎されていない。罪のなすりつけにも利用されてしまうくらいだ。だから、もしかしたら店から追い出されるかもしれないな、なんて思っていると「それって?」と続きを促された。

「いやあ……魔法使いでも、人間でも動物でもなんでも、怖い人は怖いしやさしい人はやさしいじゃないですか」
「……」
「一概に言えないし、大枠を指して好きとか嫌いはない、と思います。たぶん」

 魔法だってそうだ。すべてがキラキラした素敵なものでもないし、人を貶める悪辣なものでもない。楽しい魔法は魅力的だと思うし、誰かを傷つけるものは忌避感がある。

「……あんたは、少し生きづらいかもな」
「そうですかね? かなり自由気ままに生きてるつもりですが」

 最後の一口を放り込み、名残惜しく噛み締めて飲み下す。ごちそうさまでしたと手を合わせて料理長に告げると、彼は何故だが淋しげに笑みを深めた。

「あの、何かお礼させてください。本当に助かったので。手伝いとか……」
「いいよ。あんた、俺を命の恩人とでも感じてくれてんのかもしんねえけど、そんなことはないだろ」
「そんなことありますよ」
「いや、俺が通りかからなくたって、あんたはどうにか強かに生き延びそうに見えるよ」

 それは過大評価ではないだろうか。確かに、こんな道中で脱落する気もさらさらなかったけど、限りなく減らされていた選択肢にひとつ、道を増やしてくれたのは紛れもなく彼だ。

「そしたら、バイトとかって募集してませんか? 今ちょっと、短期の働き口を探してて」
「あー……悪いね、そう繁盛してるわけでもないから人手は足りてるんだ」
「そうですか……分かりました」

 あるいはチャンスがあるかと少し食い下がってみたけど、いい返事はなかった。恩人に無理強いもできないし、バイトもお礼も諦めたほうが良さそうだ。もし私にもっと才能があれば、お礼に絵を描きますと強気に出られたのだろうけど、頼まれてもいない私の絵の価値が、彼にもらった親切に釣り合うようにも思えなかった。

「あんたは、これからどうするんだ」

 せめて食器を運ぼうと席を立つと、また、ぎこちなく声を掛けられた。最初に声を掛けられた時と、似ているように思った。
 受け入れられないけど、放っておくこともできない。彼が纏うやさしさは、適当に生きてる私より余程、彼を生きづらそうにしているように見えた。それを捨てることもできず、時折こうして他人に分けて、生きているのだろうか。
 知らない私に、縁もゆかりも無かった私に、打算なしにやさしさを切り分けてくれるこの人が。あまり嫌な思いをしたりせずに、楽しい日々を送れていたらいいなと、心の何処かで静かに思う。

「……まあ、なんとか食いつなぎますよ。店主さんの言う通り、今までもそうしてきたので」
「そうか……」
「ちょっと人には言えないことですけどね」

 特に、ネズミを仕留めて食うなんて、都会生まれ都会住みの人にはきっと刺激が強すぎる話だろう。軽い冗談くらいのつもりで笑って見せたが、思いがけず彼は顔を険しくした。

「……やめときな。あんたはまだ若い。いくらでも引き返せる」
「え……?」
「ンなもんの味をしめちまったら、なかなか体から抜けなくなるぜ」

 もしかして、彼も経験があるのだろうか。そして案外美味しいのだろうか。一瞬そんなことを考えたが、彼のやけに真剣そうな声色や妙な気迫に、あっこれ絶対鼠食の話じゃないなと悟った。しかし弁解するより早く、少しカウンターに身を乗り出して彼は話を続けてしまう。

「前言撤回。どうしても行く宛がないってんなら、大した額なんて出せやしないが、うちでしばらく雇うから。だからそんなことはもうやめろ」
「いや、あの」
「ああ、そうだな……さっきは足りてるなんて言ったが……悪いね、どうにも人付き合いが下手くそで消極的なんだ。つい、嘘ついちまった」
「あの! すみません、私ネズミの話で……」
「えっネズ……えっ?」
「……」
「……」

 彼は思い違いに気がついたらしい。数秒硬直した後、サッと自分の口を押さえて青ざめた。「自分はどこまで話したか」と言いたげな様子に、思わず居た堪れなくなる。

「……あの〜、バイトの件、気を遣って頂いてありがとうございます。あの全然撤回してもらって大丈夫なので、本当気にしないでください」
「……いや、いい、いいよ。撤回はしない。二言はないよ」
「いやぁ、そんな無理しないで……」
「でもあんた、困ってんだろ? まあこれも何かの縁だ。上げて落とすような真似もしたくないし、何より仕事を手伝ってくれるってんなら、本当は助かるよ。ありがたいことに、最近は少し売上が良くて忙しいんだ」
「……そうですか?」

 彼は、一度言ったことを取り下げることへの罪悪感に苛まれているように見えた。本当に、真面目でやさしい人だと思う。そこにつけ込むのもなんだか申し訳なくて、本来ならこちらから徹底して断るべきなのだろうとわかってはいたけれど、今の私は渡りに船を逃せるほどの猛者でもなかった。

「それじゃあ……お言葉に甘えて」
「ああ。よろしく頼むよ」

 蒼髪の青年はネロといった。
 挨拶を交わして私も名乗ったが、ネロさんは「よろしくな、旅人さん」と、ひとつ線を引くように私の名前は呼ばなかった。