ネロと出会った夜
音を立てぬよう、静かにノブを下ろす。慣れた作業だった。魔法を使うまでもない。試しにそっと押し込むと、その戸は簡単に開いてしまった。
「……《アドノディス・オムニス》」
中の布団に伏せている人物を視認してすぐ、小声で呪文を唱えた。少しだけ眠りが深くなる魔法だ。体に害はないし、空が白けたら次第に目も覚める。これで抜き足の必要はなくなったけど、長年染み付いた癖はなかなか抜けるものではなく、足音を殺して歩くほうがむしろ楽だった。
(使ってねえんだもんな……)
鍵のない個室だ。出会ったばかりの他人と同じ屋根の下。もちろん、こちらには子どもに手を出すような趣味はないが、向こうさんは心配なところもあるだろう。重い荷物でも置いておけと用意した箱は、内開きの部屋の端に置かれたままだった。
うっかりしたのか、余程俺なんかを信用してくれているのか。どのみち、危機感のない人間だ。俺みたいな悪い魔法使いの下で働いて、信用するなんて……まあ、俺が上手く取り繕えてる証左なのかもしれないが、そうでなくとも、出会って間もない大人の異性を、そうやすやすと信用するものではないだろう。
彼女自身からは、魔力の気配はしない。だが、代わりに魔法使いの祝福と、それと同じ気質のマナ石の気配がずっとしていた。強い魔法ではないが、軽率に手を出せばしっぺ返しくらいは食らうだろう。
(それでも、大きな脅威には成り得ない)
彼女は元々、野宿する気満々だったらしい。雇い人がそれじゃあ店にも悪い噂が立ちかねないからと、ずっと持て余していたこの部屋を慌てて魔法で綺麗にした。そこに急遽用意した布団で、彼女は安定した呼吸をしていた。近づいて見ると、リラックスしているのがよく分かる。いや、すげえな。俺は今はもう、慣れない場所でこんなに肩の力抜いて寝られねぇかも。
彼女の背負っていた大きなバックパックは、今朝まで埃まみれだった寝床のそばで、口が大きく開いたままだった。不用心だな。まあ、閉まっていたところで、開けるんだけど。
くすねるわけじゃない。今日限りの縁ならともかく、しばらくはうちの店員だ。拗らせるような真似はしない。
ただ、最低限、彼女が本当に信頼できる人間か、危険なものを所持したり、危険なことを考えてはいないか、確認する必要があった。雇い人の義務じゃない。そんなプライバシーの侵害があってたまるか。
彼女は人間で、俺は魔法使いだ。いざとなればいくらでも制圧できる。
それでも、もし。俺が魔法使いだと気づいてしまったら。本当は魔法使いを否定的に思っていたら。俺を貶めようとしたり、噂を立てられたら。仕事に支障をきたすし、最悪の場合はまた移転する羽目になる。それは避けたかった。
バックパックの中は、旅人なだけあってか、色んなものが所狭しと詰め込まれていた。中でも目立つのは、大きめのスケッチブックと、折り畳まれた木枠──イーゼルだろうか。画材らしきものも見える。彼女は旅をしながら、絵を描いて売っていたに違いない。
(……どんな絵描いてんだろうな)
スケッチブックをめくろうか一瞬迷って、やめた。彼女を深く知る必要なんてない。彼女は、今だけ付き合いのある他人だ。いずれこの店を去る旅人だ。
手垢をつけないように魔法で鞄を探る。必要最低限の日用品の他には、ケースに保管された珍しい魔法植物なんかもあった。使いやすいように加工されている。毒消しの効果を持つものや、中には見たことのない種類もあった。別の国に生息するものだろう。彼女はそれなりに魔法に造詣が深いのかもしれない。
その他、多少のサバイバル道具を除いて、妙なものは特になかった。ひとつ気になったのは、財布らしいものが見つからなかったことだ。彼女は無一文らしかったが、それでも小銭入れくらいはあっていいはずだ。
もしかして、食う物にも困っていたのは、財布を無くしたか盗まれたかしていたのかもしれない。こうやって俺に物色を許してるくらいだから、想像は付きやすかった。
例のマナ石は、バックパックには入っていなかった。近すぎて分かりにくかったが、彼女自身が肌見離さず持っているのだろう。
(腑に落ちねえな)
マナ石は価値が高い。売っぱらえばそれなりの額に変わるはずだ。なのに、例えネズミを食うことになっても、それを手放せなかったのか。
多くの魔法使いは、マナ石を欲しがるものだ。俺も例外じゃない。人間が持っているなら尚更、魔法使いに狙われることもあっただろう。それでもなお、大事に隠し持っているのは、コレクター的な強いこだわりか、もしくはこの魔法使いあるいは魔法生物がマナ石になる前は、彼女にとっての──
(……、)
彼女がもし、俺を害ねようとするような人間だったら。もしかしたら、こっそりかっぱらう算段を立てていたかもしれない。悪人相手につい手が出たって、痛む心はない。
『いやぁ……まあ、他人のせいにするの、普通に良くないし……』
だけど、彼女は多分、そんな人間じゃない。それはきっと、彼女があの日、居もしない魔法使いのせいにしなかった時からわかっていた。
それでも、安心できなくて、こうして盗人みたいな真似までした。結局のところ、俺は怖かったんだ。誰かと同じ場所で同じことをして、同じ時間を共有することになるなんて、本当に久しぶりだったから。今朝、つい勢いづいて彼女を受け入れてしまったことを、本当は三十分刻みくらいに後悔していた。
俺がうっかり、ほんの少しでも彼女に心を許してしまって、その後に裏切られるような真似をされたら、俺は必ず、傷ついてしまう。それからまた、諦めて、嫌悪して、喉を通すのもしんどい苦味を味わうことになる。想像するだけで嫌だった。傷つきたくなかった。傷つくことも、俺を傷つけようとする誰かがそばにいることも、怖かった。
だけど、今日一日話した彼女からは、気軽なあたたかさが感じられた。朝飯用にさっと焼いたトーストなんかに、少し似ていると思った。素直で、軽くて柔らかくて、それでいてマイペース。そんなやつに、ここまで警戒するのもきっと、馬鹿馬鹿しい。
「……悪かったな。おやすみ、旅人さん」
いずれ俺との短い縁が切れた後、彼女は俺の知らないところで、特段苦しんだり辛い目に遭ったりもせずに、普通に、それなりに楽しく過ごせていたらいい。少しの贖罪も込めて、偽りなく、そう願う。
バックパックの中を元の形に戻して、そっと立ち上がる。己の痕跡を全て消して、部屋をくぐり抜け、俺は扉を閉めた。