ミスラと出会う


「はあ。俺には売れないというんですか」

 棘のある言葉が聞こえて、思わず足を止める。発生源はたった今去ったばかりの露店あたりだ。そっと振り返ると、店主の男性よりずっと背の高いお客さんが、店を覗き込むように背を丸めていた。

「す、すみません、今日はもう売り切れてしまって……」
「ついさっき別の客に渡していたでしょう。あと一つくらいないんですか」
「ご、ご容赦ください、賢者様の魔法使い様……」

 へえ、例の賢者様の……というかついさっきの別の客って、私じゃん。手元の紙袋に入っているのは、昨日すれ違った見知らぬ人たちが話していた、美味しいと噂のお菓子。残り二つだったからつい買い占めてしまったが、欲張らず一つにすれば良かったかもしれない。
 余程凄まれているのか、怖いことを呟かれているのか、店主はちょっと可哀想になるくらい怯えているようだ。私は少し考えてから、踵を返して二人に近づいた。

「あ、あんたさっきの……」
「すみません、これ、ひとつ……」

 返品します、と続けるつもりだったが、紙袋から取り出した商品を横から奪われた。店主に絡んでいたお客さんは、私から強奪した焼き菓子をまじまじと見つめたあと、不機嫌そうだった口元をやわらげた。

「そうそう、これです。柔らかくて甘い貝。もらってやります」
「え、あ、はい」

 と、つい勢いで返事をしてしまったが、もしかして私からこの人へのプレゼントみたいな形になっていないだろうか。できれば代金回収したかったな……とせせこましいことを考えていると、不意に彼と目が合った。
 癖のついた頭髪は高い位置にあり、目の覚めるような赤色は、いつか見た燃えるような夕景に似ていた。その頭が、脈絡なく目の前に近づく。私よりずっと上背のある人が、だらりと背を曲げて迫る姿は迫力があり、少しだけ上半身がのけぞった。

「……あの?」

 品定めするようなグリーンの虹彩は、徐々に下に滑り最終的に私の胴体を捉える。一体なんだと考える間もほとんどないうちに、彼は色の薄い唇を開いた。

「あなた、マナ石を持っていますね」
「え」

 低く丁寧な声が紡いだ言葉に、背筋がすっと冷えた。
 彼の視線は明らかに私の上着の内ポケットに向かっていて、完全に隠し場所もバレているようだ。これまでにも魔法使いに気配で見つかったことはあったが、これを今すぐ奪おうとするような気配は彼からしない。長い前髪と目の隈も相まってその表情は暗く、彼の真意を覆い隠す。

「……なにか、覚えのある気配がするような……」

 一拍、呼吸が止まった。それから、弾けるように短く吐いて、また吸って、吐いた。なるべく悟られないように、落ち着いて瞬きをする。

「……すみません、ちょっと一緒に向こうに……」
「俺に指図をするんですか?」
「いや、お願いです。難しければ、ここで話します」
「……ま、いいですけど」

 たびたび柄の悪さが漏れつつも、こちらのお願いを飲んでくれることもある。彼は随分と気分屋に見えた。もしくは、マドレーヌを得られたことが余程嬉しかったのだろうか。先程のゆるんだ表情が脳裏をよぎった。
 後ろを着いてきてくれる彼とともに店から離れ、すぐ近くのひと気の少ない通りに移動する。街路樹を囲う煉瓦に腰を掛けると、彼も一人分ほど開けて隣に座ってくれた。
 すらりと長い手足。纏う白衣は清潔感があるけど、黒いシャツや手元のごつごつとしたアクセサリー、あちこちに巻かれた装飾は厳めしさを放っている。彼は重たげな瞳をどろりとこちらに落とした。その双眸はぼんやりとしていて、なんだか眠たげに見えた。

「それで……この人が石になる前を知ってるんですか?」
「さあ、よく思い出せないんですよね。大して強い魔力も感じませんし」
「なんとか思い出せませんか?」
「はあ? 俺に命令してるんですか?」
「お願いです」
「お願い事が多いですね。欲張りな人だな」

 彼は目に見えて苛立っているようには思えないが、終始怠そうにしているその心の内は読み取れない。この人は、あの人にとってどういう人だったのだろう。好意的だろうか。それとも、あまり好きではなかったり、危害を加えるような人だっただろうか。私から見た彼は、ちょっと横暴で口が悪い人だから、今想像を巡らせても偏ってしまいそうだった。
 彼は私の話に飽きたのか、手元のマドレーヌに興味を移していた。包みを開くと、バターが染みてきらきらと輝く表面が現れる。貝をかたどったなめらかな生地は、噂通りとても大きく見えていたけれど、彼の広い手に掴まれているとだいぶ小さく見えた。彼はそのまま口元に近寄せ、がぶりと一気に食らいついた。

「どうですか? 最近人気だって噂で聞いたんですよ」
「んむ……あまくてやわらかいです。やっぱり、ホタテの殻よりこっちですね」
「食べたんですか」
「食べました。美味しくなかったですけど」

 変わった人だな。心の中でだけそう思って、私も残りのマドレーヌを取り出してみる。やっぱり、しっとりと重みがあって贅沢な大きさだ。私の片手にも余る。カロリーは考えないことにしよう。
 ぱくりと一口食べると、銀河麦とバターの風味が鼻から抜けて、甘みに舌が震えて、だけど隠し味にレモンらしい酸味も感じられて、とにかく美味しかった。飲み込むのがもったいない。だけど飲み込まないと話せないので、名残惜しさに耐えて嚥下した。

「すごく美味しいですね、これ」
「ええ、美味しいです。気に入りました」

 あ、この人、こんなふうに笑うんだ。
 やわらかく目元を緩ませた彼から、どこかミステリアスだったベールが剥がれ落ちていく。幼くさえ見えたその笑顔は、彼を先程までよりずっと近い位置に感じさせた。

「午前中で売り切れることも多いらしいんですよ。早い時間なら買える確率高いと思います」
「そうですか。おかわりください」
「えっもう食べたんですか……いやこれ私のなんでそんな見られても困るんですけど」
「あなた口が小さいので手伝ってやりますよ」
「そんなことないです、全然いけます……あああ分かった割ります割ります」

 余程気に入ったのか、彼はマドレーヌを持った私の腕を掴むと、かじり取るつもりか顔を寄せてきた。妥協して残りを割ると、またも大きな一口であっという間に食べてしまう。これ以上残りを取られないように、私は巻きでマドレーヌに食いついた。ちょっと水を挟みたかったけど、そんな余裕もない。

「あ、」

 突然、隣から一文字落ちた。かと思えば、彼の長い腕がぬるりとこちらに伸びてくる。慌てて最後の一欠片を自分の口に押し込んだが、彼の目標はマドレーヌではなかったらしい。後ろ髪をぐいと引っ張られ、体が彼の方に傾いた。

「この引きずりそうな髪、この色……あなた、前に北の国で会った魔女の娘かなにかですか。名前は確か、──…」

 色素の薄い唇が紡ぐ名前にの懐かしさに、は、と息が詰まる。

「……ま、孫です。血は繋がってないけど……」
「ああ、確かに顔は似てない気がします。髪だけ真似ですか」
「うえ」

 髪の毛から手を離されたかと思えば、今度は顔を片手で掴まれ、両頬が押される。この人、手が大きい上に力も強いものだから、このまま潰されるんじゃないかと少しハラハラした。流石にそんなことされないとは思うけど。
 私の顔をまじまじと見つめた彼は、それから手を離して、視線を足元へ投げ捨てた。

「ふうん……あの女、石になっていたんですね……。そうか、身内が人間だから、石を食べてもらうこともできないのか」

 わずかに翳りを感じるような声色だった、気がする。ただの私の願望かもしれない。それでも、その根底にあるのが祖母に対する哀惜や同情のような、そういうものだったら良いなと思う。

「……祖母と友達だったんですか?」
「はあ? 誰が友達ですか。弱い魔女と仲良くつるんだ覚えなんてありませんよ。向こうが鬱陶しく絡んできただけです」
「あ、そっすか……」

 そっけない返答に、ちょっと肩を落とす思いだった。だけどなんとなく、もう何十年だか何百年だかも前に会ったっきりであろう祖母のことを覚えていてくれたことが嬉しくて、二人の仲が悪いものではなければいいなと思う。

「……祖母のことは嫌いでしたか?」

 思い切って聞いてみた。はいとか言われたらちょっとへこむな。だけどそれは杞憂だったようで「……別に、嫌いではなかったですけど」と淡々とした声が返ってきた。

「好きでもないですけどね。これは炙ると美味しかったとか、今日はこんな夢を見たとか、くだらない話ばかりしに来てました」
「……」
「仲良くはできなくても、みんなが少しずつ理解し合える世界が見たいだとか……生ぬるい夢物語を語っていた気がします。でも、相手取るのも馬鹿馬鹿しくなるくらい攻撃性がなくて、呑気で、それで逃げ足だけは速いもので、どこでも逃げ延びてるような奴でしたよ」
「……そう、ですか」
「何度か会って話した程度なのに……よくもまあ、北のミスラを捕まえて友人だなんてほざいたものです。ああ、なんか腹が立ってきたな」

 彼は呆れたように息を吐いた。北のミスラ。どこかで聞いたことがある。旅の道中で出会った魔法使いが、確かそんな名前を口にしていたことがあったっけ。北のミスラかぁ、国を背負った異名かっけーな。
 祖母の夢見た世界は、気軽で、楽しくて、現実とは程遠くて、いつだって時代から弾かれていたという。だから誰彼構わずその夢を口にしていたわけじゃない。それに、そんなふうにどうでもいい話をしていたなら、彼にとっては友達じゃなかったとしても、祖母にとってはきっと友達だった。
 私は服の内ポケットを探り、指先に当たったものを取り出す。祖母の手製の大きなお守りには、彼の言うようにマナ石が入っていた。

「それ……そいつの魔道具でしょう。見覚えがある気がします。それで? その中のマナ石を俺にくれるんですか?」
「はい」

 短く返した。彼はその返答を予想していなかったようで、眠そうな瞳を一瞬大きく開いた。
 なんとなく、彼はもし私が渋っても、祖母の石を奪って食べるつもりだったんじゃないかと感じていた。その言動から、彼はいわゆる石食いを弔いとしても行う人のようだったから。それに北のミスラなんていうくらいだし、祖母がお守りに掛けていた隠蔽と守護の魔法も易々と突破して気配を拾っていたし、多分マナ石を食べて力を得ることをたくさんしてきている。
 奇妙な静寂はほんの少しだけ続いた。少し離れた喧騒が聞こえやすくなった頃、ミスラさんは再び口を開いた。

「まあ、それならもらってやります。人間のあなたが持っていても宝の持ち腐れでしょうし」

 彼のことは知らない。ちょっと横柄で、マドレーヌが好きで、意外と笑顔が幼いことしか私は知らない。だけど、何だかんだ言いつつもやっぱり友達に食べてもらおうかなと笑っていた祖母は、どんな友達がいたのかも大して教えてくれないまま逝ってしまった。あの人の願いを叶えられるのは私じゃなくて、ようやく会えたこの人だ。
 お守りの紐を解いて、中身を一つ取り出す。不思議な色に輝く鉱石は、あの人の面影も映さない。これは、あの人だったもので、あの人ではない。たとえ手放したって、私の中の記憶や思い出が消えることはない。見納めをして、石を差し出し、それからお守りもそのまま渡した。

「……どうぞ」
「どうも」

 このお守りは、ミスラさんの言うように祖母の魔道具だった。魔法によって、このサイズ以上にものが入る。祖母のマナ石は、拾えた分すべてこの中に入っていた。
 私の手には少し大きい石は、彼の広い手の中ではとても小さく見えて、マドレーヌの時と同じだと思った。彼はそのまま石を見つめて、少しばかり目を細めて、それから食らいつく──かと思えば、お守りの中にしまった。

「貝の余韻が消えたらもったいないので、後で食うことにします」
「あ、そっすか……」

 無意識に力の入っていた奥歯を緩める。見届けることが、私にとって良いか悪いかはいまいち分からなかったから、逆に良かったのかもしれないけれど。でも、ここで別れるなら魔道具だけは返してほしいと思う。
 会話が途切れた。元々、祖母の友達というだけで私とは友達ではない。旅を続けてそれなりに経っているから、会話の引き出しならまあまああるけど、今は引き出す気持ちにもあまりなれなかった。

「……あ、そうだ。さっき店主さんが、賢者様の魔法使いって言ってましたけど……」
「はあ、そうですけど」
「あの、今回の戦い、とても大変だったと聞きました。守ってくれてありがとうございます」
「俺は別に大変じゃなかったですけどね」

 けろりと言ってのけるミスラさんは、やはりとても強い人なのだろう。祖母は、北の魔法使いは魔力が強い傾向にあると言っていた。それに、北のミスラだし。
 それでも、世界の命運がたった数人、数十人ほどの肩に掛かっている。それはとてつもない重責だろう。いくら言葉を尽くそうと感謝しきれるものではないし、本当なら四六時中お付の人とかつけて敬うべきじゃないだろうかと思う。彼や、彼の仲間たちの待遇がどれほどのものかは知らないけれど、決して悪いものじゃなければ良いなと、種族間の溝が深いこの世界で願う。
 街の至るところに、厄災の爪痕が残されていた。不可解な事件も、この中央の都では頻発しているとあちこちで耳に入っている。その中でも、先日の塔の崩壊騒ぎは一等大きく感じた。そしてその原因を、私は偶然目にしていた。

「……ミスラさんは、大きな鳥の怪物をご存じですか?」
「なんですか、それ」
「例の塔の崩壊の件、その鳥の仕業で。実はこの間泊まった宿屋から偶然見ていて、一応記録として描いてみたんですけど……」

 背負っていたバックパックから愛用のスケッチブックを取り出し、該当のページを彼に見せる。彼は気まぐれな猫のように、するりと顔を近づけて覗き込んだ。

「見たこともありませんね。ああでも、あの双子なら知っているかも」
「双子? そしたら、参考になるかは分からないんですけど、というかもう知ってるかもしれないんですけど、良かったらこの絵をその人たちに……」
「嫌です。面倒なので、自分で伝えてください」
「いや、お会いする手段が……」
「《アルシム》」

 聞き慣れない単語が空間を揺らした。
 黒く塗った爪が宙に描いた四角は、まばゆい光を放ち実態を持つ。無から突如現れた巨大な扉は、不思議の力の存在をまざまざと見せつけていた。声を出す間もないうちに、浮遊感が頭から足先までぞわりと駆け抜けて、気がつけば私は荷物とともに赤い地面の上に転がっていた。

「痛った……え、何」

 何ここ、どこ。
 床に手をついて上体を起こす。イメージの中の王宮のような、輝かしい什器。オシャレなシャンデリア。埃一つない綺麗な絨毯。どうやら、先ほどとはまったく違う場所に転移したらしい。すごいな、これが空間移動魔法か、始めて経験した。いやいやそんな呑気な感想を抱いている場合じゃない。だって扉ももうないし、なんかミスラさんもいないし、これじゃどう見ても私は──

「誰だ」

 全身と、それから頭に鈍い衝撃。バックパックを背負っていない背中に、直接重い塊が襲いかかった。顔だけなんとか横に向けているが、うつ伏せのまま頭を床に押さえつけられて、チカチカする視界に耐えることしかできない。

「何者だ。目的を言え。さもなくばおまえの頭と胴体が別れることになるぞ」

 なにか低い声で囁かれる。だけど妙に聞き取りにくい。ぐらぐらする頭にそのまま思考を奪われ、目の前が真っ黒に塗りつぶされた。







「お、起きたか!」

 薄ぼんやりした視界に、見知らぬ笑顔が映った。思考がまとまらないながらも、ここが見知らぬ部屋で、私はベッドに仰向けになっていることが分かる。

「シノが手荒な真似をしたようで悪かった。さっき帰ってきたミスラから聞いたんだ。あんたを空間移動で魔法舎に飛ばしたって。こちらの誤解で、乱暴をしてしまって本当にすまない」
「……あ、はい」
「俺はカイン。賢者の魔法使いだ。ここは魔法舎の空き部屋。あんたは? 中央の塔の崩壊に関して、なにか俺たちに伝えたいことがあったんだろう? ミスラが詳細は忘れましたってどっかに行っちまったから、詳しくは聞けてなくてな」

 明るくてよく喋る人だと思った。だんだんとクリアになってくる頭で、記憶を辿る。そうだ、ミスラさんに急に別の場所に飛ばされて、それから恐らく不法侵入の不審者として誰かに捕らえられて……頭が酷く重かったから、多分、あの時に頭を打ったのだろう。あまりよく覚えていなかった。
 布団に手をついてゆっくりと上体を起こす。カインと名乗った男性は、人好きのする笑みを浮かべたままこちらの具合を確認してくれた。お言葉に甘えて、もう少しここで休ませてもらうことにした。

「あの、紛らわしい真似をしてしまってすみません」
「気にするなよ。ミスラは気まぐれで突拍子もないから、きっとあんたの意図しない巻き込まれ方をしたんだろう? それにシノも勢い余っちまったみたいで……あんたを刺客かと思ったんだろう」
「誰だってそう思いますよ、本当にすみません。その人は何も悪くないし、むしろ警備はしっかりしてるほうが良いので」
「はは、ありがとう」
「そうだ、私の荷物どこにありますか?」
「ああ、そこに置かせてもらった」

 彼が指したベッド脇のチェストには、愛用のバックパックと閉じたスケッチブックが置かれていた。お礼を言ってスケッチブックのほうを手に取り、例のページを示した。

「それで、あの、単なる旅人の戯言なんて信憑性薄いと思うんですけど……」
「そんなことは関係ないさ。聞かせてくれ」
「もしかしたらご存じかもしれないんですけど……例の中央の塔を、こういう大きな鳥が崩しているのを見たんです」

 言いつつ、段々自信がなくなってきた。あれ夢だったらどうしよう。あんな大きな鳥、今日日見るものじゃない。だけどカインさんの様子が明らかに変わる。

「この鳥か!?」
「あ……はい。見てすぐ描き留めたので、大体こんな感じで合ってると思います」
「分かった。この件は双子先生が詳しいから、彼らに渡しておくよ。大切な手がかりをありがとう」

 また双子だ。ミスラさんも言っていたが、どうやらここには識者の双子がいるらしい。私はページを破ってカインさんに託した。

「時間は大丈夫か? あんたが気絶している間に、もう日も落ちちまったんだ。どこか遠くから飛ばされたんだとしたら、あとでどうにかミスラに頼んでもう一回……」
「ああ、気にしないでください。今夜の宿も決めてなかったので」
「なら、詫びも兼ねて今晩はここに泊まっていったらどうだ? あんたは魔法使いのことも怖がってないようだし。良ければだけど」
「いいんですか? 正直助かります」
「構わないさ! ただ、すごく申し訳ないんだが、今ちょっとみんなピリピリしててな……人間のあんたに、変に突っかかってくる奴もいるかもしれないんだ」
「ああ、全然大丈夫ですよ。了解です」
「そうか。本当は気の良い奴らばかりなんだが、なにかあれば俺が間に入るからいつでも呼んでくれ」
「ありがとうございます」

 それから二、三会話を交わし、彼は絵を渡してくるからと一度退室した。
 なし崩しに泊まることになってしまったけど、そんなに適当に進めてしまって大丈夫なのだろうか。叙任式も延期だか中止だかになってしまったと聞くし、かなり張り詰めた空気になっていそうだ。無闇に部屋を出ないほうが良いかもしれない。
 寝起きで少し強張った体を伸ばしていると、すぐに扉が開く。なにか伝え忘れだろうか──出入り口を見やると、そこに立っていたのはカインさんではなかった。

「あ……ミスラさん」
「どうも、こんばんは」
「こんばんは」

 穏やかな挨拶につられて返す。この人、会話は丁寧なんだよなぁ。方向性は乱暴だけど。
 体感ではさっきぶり、しばらく眠っていたらしいから実際は数時間ぶりだった。ミスラさんは相変わらず長い足であっという間にベッドとの距離を詰めた。その顔は、少し不愉快そうに歪められていた。

「これ、返します」
「え?」

 突きつけられたのは、祖母のマナ石を入れていたお守りだった。その場で食べてもらって回収しようと思ってたお守りがずっと気掛かりだったから、返しにきてくれたのはとても助かる。そう思ったが、受け取って中身を覗くと、入れておいたマナ石はそのままになっている。彼の言葉の意を咀嚼して、にわかに焦りが走った。

「……い、要らないってことですか?」
「なんていうか……すごくまずそうで食べにくかったんですよね」
「マナ石って味の良し悪しあるんですか?」
「そういうのじゃなくて……強く拒まれている感じがします。あなた、長い期間、ものすごく手放し難く思ってるんじゃないですか?」
「え、そうなんですか?」
「強い執着は呪いにも転じます。そんなもの俺に寄越さないでくださいよ」

 ミスラさんは至極面倒くさそうに頭を掻いた。
 まったく想定外だ。でもこのだだ広い世界で、人間の足でのろのろ旅を続けて、またすぐに祖母の友達に出会える確証はない。今までだって会えなかったわけだし。無理やり口に突っ込んだら殺されるかなぁ。殺されそう。さすがにやらないけど。
 だけど、そんなことを言われるくらい、私は祖母のマナ石を手放し難く思っていたのだろうか。そんなつもりはなかったはずだ。だってこれを祖母の友達に渡すのは、旅を続ける理由のひとつでもあったのに。祖母だって、石はただの魔力の残滓の塊だ、そこに自分の魂はないと、けろりと言っていた。だから、これでいいって。思っていた、はず、なんだけど。

「人間の執着は粘着質でしつこいですからね……魔法でも強引に落とせますけどなかなか面倒です」
「そんな油汚れみたいな」
「まあ、そもそも呪いなんて腹の中で溶かせますけど……気分が乗らなくなったので、また食べ頃になったら食べます」
「そんな旬の果物みたいな」

 でも、それはつまり待っててくれるということだろうか。私がこれを容易く手放せるようになるまで。そんな、私に都合の良い話があっていいのだろうか。

「俺の気が完全に逸れないうちに、とっとと執着を消してください。ま、どのみちあなたが死ねば簡単に取り払えるようになりますけど」
「えっそれは今すぐ殺すぞ的な……」
「殺されたいんですか?」
「いやまったく全然……あの、いいんですか」

 ミスラさんは変わらず淡々とした様子だった。そっと腕を組む仕草は上品で、言葉とのちぐはぐさが妙な印象を与え続けた。

「はあ、別に……その程度のマナ石、今すぐ食いたいほど唆られるものでもありませんし……どうせ人間なんてすぐに死ぬんでしょう。百年とか」
「まあ……もっと短いかな……」
「ふうん、そうなんですか。あ、言っておきますけどもう俺のものなんですから、他の誰かにやったり、なくしたりしたら、あなたを殺します」
「それはめちゃくちゃ困りますけど……そしたら、隠蔽の魔法、強く掛け直してもらうことってできますか? ミスラさん、多分すごく強い魔法使いなんですよね」
「ふふん、そうですよ。俺が最強です……《アルシム》」

 お守りを差し出す。祖母の魔法に、ミスラさんの魔法が重なった。
 マナ石を求める手から私の力だけで護り切るのも、きっと限界がある。これまでは運が良かっただけだ。それもあって、早く祖母の友達を探さないとなぁと思っていた。一番の理由は、祖母をあまり待たせたくなかったからだけど。

「まあ、俺たち魔法使いにとって百年なんて瞬きの間ですからね」
「……そっかぁ」

 私の気持ちにまるで呼応するように告げたミスラさんに、小さく返事をして、それから祖母のお守りを両手で包むように持つ。いつも、少し怖い時にこうやっていた。例えば《大いなる厄災》が近づいた時とか。今年の厄災は本当に強かったみたいで、被害も酷くて、今この中央の国にも爪痕が深く残っているけれど。これがあれば、祖母が守ってくれるような気がしている。

「あの……ミスラさん、ありがとうございます」

 ミスラさんは怪訝そうに眉根を寄せた。ともすれば不機嫌そうにも見えたけど、構わず続ける。

「やさしくしてくれて、ありがとうございます」
「……はあ? 脳味噌イカれてるんですか。やさしくしてやった覚えなんてありませんけど」
「でも、私はそう感じて、嬉しかったんです。だからありがとうございます」

 有形にこだわる必要なんてないと思っていたし、実際そうだった。たとえ喪ったって、記憶や気持ちまで消えるわけではない。
 だけど、それでも、やっぱり私にとってはずっと祖母と旅をしてきたつもりで、あの石を大切にしてきた。私にとって、とても大切なものだったのだと、いざ手放しかけてようやくわかった。
 ミスラさんは妙な表情になって、眉をしかめて、それから所在無げな手で怠そうに首を掻いた。

「ところであなた、誰ですか」
「今さらですか」

 改めて名を名乗るも、「はあ、そうですか」と相変わらず気の抜けた返事だった。こりゃすぐに忘れられそうだな。

「ところで私あちこち旅してるので、上手いことあなたに渡しに行けるか分からないんですけど」
「俺を誰だと思っているんですか。世界中どこへだってあなたのもとに駆けつけて、奪い取ってやりますよ」

 何それ超かっこいいな。言ってること賊だけど。