ミスラの手を拭く
「ミスラさん」
小洒落た照明が、油に濡れた指先を光らせる。突然手首を掴まれた彼は、どろどろとした重い瞳をこちらに滑らせた。振り放されないのは、やさしさではなく面倒くささからだろう。
「なんですか」
「そのまま触ったら髪が汚れちゃいますよ。拭いたほうが」
「……それ、賢者様にも言われました。何か意味があるんですか? 別にどうだってよくないですか?」
「うーん……」
肉をすっかり剥ぎ取られたフライドチキンの残骸を見やる。考えるまでもなく油まみれだ。これは皿の上にあるから輝くのであって、髪の毛についても良いことはない。だけどミスラさんはちょっとガサツというか、無頓着というか、ワイルドなところがあった。
「チキンの気分じゃ無い時にチキンの香りが掠めたらなんか嫌じゃないですか?」
「どうせ魔法で綺麗にできるので」
「ささっと拭いたほうがきっと繊細な調節も要らなくて楽ですよ」
「ふうん……じゃあ、はい」
「はい?」
油まみれの手を差し出される。よもや私に拭けということだろうか。一瞬、色んな言葉が頭をよぎったが、じっとこちらを見つめるミスラさんの目が、秒を刻むごとに少ない寛容さをさらに失っている気がしたので、黙って皿の傍らにある未使用のナフキンを手に取った。
「……黒いマニキュアかっこいいですね」
「はあ、そうですか。まあ、そうでしょうね」
逆の手で彼の手のひらあたりを固定しつつ、人差し指から拭っていく。ミスラさんは身長も高いから指もすらりと長くて、私よりも関節ひとつ分以上は大きな手に見えた。シルバーのアクセサリーと、真っ黒な爪がよく似合っていた。
「……なんか、魔法のほうが手っ取り早くないですか」
「それはすみません」
「あなたの手が赤ん坊みたいに小さいから捗らないんですよ」
「そこまで小さくないですよ」
「あなたいくつですか」
「二十代です」
「赤ん坊じゃないですか……え、それじゃあフローレス兄弟はもっと赤ん坊じゃないですか」
眠たげな眼をびっくりしたように丸めたミスラさんは、もう四桁ほど生きているらしいと聞く。確かに、彼と比べたら私たちくらいの年齢は赤ん坊も同然なのかもしれない。だけどミスラさんは、時折言動や振る舞いに幼さが覗くから、「1000歳になっても子どもっぽさを持ってていいんだなあ」となんだか安心したりもしていた。
「俺は赤ん坊に命運を握られてるんですか。気がおかしくなりそう……」
「大変そうですね……はい、拭けましたよ」
「はあ……どうも」
言って、ミスラさんはようやく頭を掻いてから、別の皿のチキンに手を伸ばした。私の苦労は五秒でリセットされた。