休日の昼間、賑わう街中。人の通りが多ければ、歩いていて肩同士がぶつかることもあるだろう。それにいちいち丁寧に謝っていればきりがない、と、大抵の大人は暗黙の了解のように会釈、あるいはスルーをする。前者であれば、一瞬互いに顔を合わせ、あっすみませんでした、いえこちらこそ、といったやりとりを言葉の代わりに視線で交わせばそれではいオーケー。無駄ないざこざもなく無事解決。
 例外として一昔前の当り屋なんかが「どこ見て歩いてんだ殺すぞ」などと吐き捨てる場合があるが、あれは大抵の場合向こうがフラフラとどこかを見て歩いているわけだから、彼らは彼ら自身の行動を省み戒め、挙げ句切腹の文化にのっとり己で己に殺すぞと言っているわけである。つまりは相手方の相手方による個人的なやりとりであり、ぶつかられた方は何も関係がないのだ。無視して然るべきなのだ。

「――あっ、すみません」
「あァん? どこ見て歩いてんだてめェ」

 だからこそ、トド松はその女性の行動を見て思わず絶句したのだ。
 彼女がぶつかったのは、まさに「いかにもらしい」男。殺すぞ、と己を戒めるほどの律義さはないようで、ジャラジャラと大量のアクセサリーを身に着け、トップスをめくればパンツが見えるのではないかと思うほどズボンをずり下げた厳つい顔からは、もはや何も期待できまい。そんな奴に、そもそもぶつかった時点で運の尽きだと言えばそうだが、それにしても、わざわざ小さく頭を下げあんなに丁寧に謝りを入れるだなんて。付け入られる隙をあえて見せているようにしか思えなかった。

 周囲が一気にざわつく。男より何回りも小柄なその女性は、事の重大さに未だ気付いていないのか、不思議そうにあたりをきょろきょろ見回した。いや、いやいやいや、さすがに呑気すぎるだろ! 彼女にぶつかった男も、無視すんなやとその華奢な肩を掴んだ。普通の女性であれば、きゃっ! などと小さな悲鳴を上げていただろう。しかし彼女はどれだけ肝が据わっているのか、まるで「はて?」と言いたげに小首をかしげて見せたのだ。

「あの、何か?」
「あァん!? 何かじゃねーだろてめェ、人様にぶつかっておいて謝って済むと思ってんのか!?」
「はい」
「あ……あァ゛!?」
「だって、こんなに混雑してるんですから、多少肩同士がぶつかっても双方に非はありません。ですが、私はそれに加えて謝罪しました。これ以上何を望むというんですか」

 まるで怖いものなしという風に、純粋な声色でつらつらと言葉を重ねる彼女。よくもまあ、あそこまで凄まれてあんなに口が回るものだ。さすがの男も、そのあまりの異質さに上手く反応をとれなくなる。遠巻きに見ていた周囲の人間も、最初は関わるまいとそこを避けていたというのに、今ではもはや奇異の目をそちらに向けていた。その中に、スマートフォンを片手にしたトド松も混ざっていたわけだが。

「……えっと、では、失礼しますね」
「なっ……待てやゴルァ! 散々馬鹿にしやがって……!」

 周囲がどよめいた。肩に乗った手をやんわりと払った彼女が踵を返したところで、男は今度はその腕を掴み強引に引っ張ったのだ。無理やり振り返る形となった彼女の顔に、男の拳が吸い込まれていく―――

「――あがっ!?」

 その拳は寸でのところで逸れ、男は前のめりによろけた。比較的近くで見ていたトド松は、男の後頭部に鋭く当たった己のスマホが地面に落ちていくのを見て、血の気が引くのを感じていた。ああ、一体、何をしているんだ僕は。あんなの関わるべきじゃないと、分かっているはずなのに。
 こうなった今、自分が投げたとバレる前に逃走を図るしかない。スマホの回収はできないが命のほうがよっぽど大事だ。ああ、バイト増やさないと。そんなことを考えながら、トド松は軽やかにステップを踏み周囲のギャラリーに紛れ込む――はずだった。
 ぱちり、と。
 よろけた際に頭の位置が前後上下逆になった男と、ばっちり、がっちり、目が合ってしまったのだ。ふっと、意識が飛びそうになった。

「て……めェ、」

 あ、あ。やばい。
 全身が震え、冷たくなっていく。体勢を整えた男はトド松をゆらりと見据えると、ゆっくり、怒気の籠った足取りで、こちらへ近づいてくる。
 どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。このままじゃあ、確実に殴られる。不運なことにトド松は、赤い兄のような喧嘩の強さも、緑の兄のような逃げ足の速さも、黄色の兄のような突飛な身体能力も持ち合わせていない。つまり、ここから逃げ切る術は、ない。
 足が動かない。眩暈がする。じわりと嫌な汗が首を濡らしていく。声が出ない。ああ、馬鹿だ。なんて愚かなんだ、自分は。どうして、どうして僕はあんな――そんなことを考えていたって、何の解決策にもならないことはわかっていたのだけれど。
 思考が纏まらないうちに、男はトド松の前まで距離を詰めた。その厳つい拳をぎゅっと固め、それは大きな動作でトド松へと接近してくる――かに、思えた。

 「ふんっ!」

 どすり、と。鈍い音が聞こえたかと思うと、男は右から左へよろめいて地面に倒れていく。目の前にいた男の代わりに、そこにはサラサラの髪の毛を優雅に揺らした、先ほどの女性。あたりが一瞬で静まり返る。
 男に全身全霊のタックルを決めたその女性。彼女は、男の低い呻きが聞こえるや否や、トド松の手を取り、男と周りの視線から逃げるように駆け出したのだった。







「ゼエッ、ハアッ、!」
「はっ、はっ……!」

 二人分の息切れが、人気のない道に響く。全力で街中を走り抜けたトド松と女性は、先ほどの場からかなり離れた地点まで移動していた。
 膝に両手をつき、乱れた息をなんとか整える。こんなにも長距離を走ったのは、高校の時の持久走以来だろうか。ともかく、心臓がはちきれそうで、喉も鉄の味で不愉快極まりなかった。

「はあっ……あの、これ、貴方のですよね」

 トド松よりいくらか早く回復した女性は、ポケットに無造作に突っ込んでいたものを取り出し、彼に差し出した。汗をぬぐいながらそれを確認すると、トド松は思わず目を見開く。

「あ……僕のスマホ……拾ってくれてたんだ」
「おかげさまで助かりました、ありがとうございます」
「いやいやそんな! むしろ僕の方が助かったよ! 本当ありがとう!」

 慌てて手と首を振る。嘘ではない。確かに、自分も彼女を助ける形にはなったが、彼女がいなければ確実にあの男に殴られていただろう。彼女の機転と勇敢さがあったからこそ、今二人こうして傷一つ無く喋っていられるのだ。
 トド松の言葉に、彼女は「じゃあ、お互い様ですね」と穏やかな笑みを見せた。改めてその顔を正面から見て、トド松は思わず息を呑んだ。
(えっ……この子すごい可愛くない……?)
 指通りのよさそうな髪の毛は、よく手入れされているように見えた。白い肌も清楚な服装も、彼女の上品さを際立てている。美人といえば、幼馴染みのあの子も相当するが、これは彼女とはまた違ったタイプの可愛さだ。
 ―――悲しきことに未だ童貞を拗らせている、金なし職なし女なしの暗黒大魔界クソ闇地獄カーストの住人である自分のこと。幾重にも美化フィルターが掛かっている可能性は我ながら否めない。しかしそれでも、トド松はあわよくば「お近づきになりたい」と思うほどには、彼女には女性らしい魅力があった。

 だから、彼女が「それじゃあ、本当にありがとうございました」と頭を下げ、去ろうとするのを見て、思わずその腕を掴んでしまったのだ。

「あっ……」
「えっと……?」
「……あの、良かったらなんだけど、この後時間あるかな? よければ助けてくれたお礼がしたくて」

 うっかり停止してしまいそうな思考回路を無理やり回し、出した言葉は典型的なナンパ台詞だった。お礼がしたいから付き合ってくれないか、だなんて。そんなのOKするはずがない……トド松は頭を抱えたい衝動をどうにか堪えつつ、彼女の反応をこわごわと待った。

「えっと、時間はあるんですけど……でも、私も助けて頂いたので、本当にお互い様かと……」
「いやいや! そんなことないって! 僕のは本当にたまたまスマホが的中しただけで……でもキミは女の子なのに、それでも体を張って僕を助けてくれたでしょ? そこまでしてもらったのに、お礼の一つもできないなんて僕が辛いんだよ! ね!?」

 トド松は何としても、彼女との縁を結びたかった。こんなに穏やかで礼儀正しくて可愛らしく、さらには隙だらけの「良い女」、早々逃すわけにはいかない。もはや目が血走っているような気さえするが、そんなことに構ってる暇などなかった。

「……では、お言葉に甘えて」

 ―――トド松の熱意が通じたか。それとも、そのあまりの必死さが同情心を誘ったのかはわからない。だがその返事に、トド松は内心号泣しながらガッツポーズをとっていた。よくやった自分。グッジョブ。ハラショー。スタンディングオベーション。

 さて、ここからが本番だ。せっかくのチャンスを無駄にするわけにはいかない。トド松は記憶を総動員させ、この場所から比較的近く、かつリーズナブルでオシャレなカフェの存在を脳内から探し当てた。

「ありがとう、嬉しいよ! それじゃあ、この辺に僕のおすすめのカフェが――」
「それでは、是非私のおすすめのお店にご案内させて下さい! さあ、こっちです」
「えっ? ちょっ待っ、」

 ――想定外だった。まさか台詞をかぶせてくるとは。トド松の口から出たカフェという単語が聞こえていなかったのか、わざとなのかは定かではないが、彼女は嬉しそうに彼の腕を引いて颯爽と歩き出す。いや、女の子の小さく柔そうな手で掴まれる、という貴重な経験をしているのだから――先ほどの逃走劇でも掴まれてはいたのだが、何分命の危険を感じていたため、トド松がそのことを思い出すことは無かった――それはそれでラッキーであるのだが。それにしたって、先程までとは一転、彼女の纏う雰囲気が朗らかで快活なものに様変わりしている。

 少々困惑しながらも、彼女に腕を引かれるままに歩みを進める。しばらくして、彼女は「ここです」と足を止めた。その店に掲げられた看板を見て、その後彼女の顔を見て、トド松はしばし逡巡したのち、口を開く。

「……ここ?」
「はい」

 トド松は再び、店の看板を見上げる。……うん、ラーメン屋。まごうことなきラーメン屋だ。どこからどう見たって、正真正銘のラーメン屋だった。
 予想外どころではない。予想の遥か斜め上をジェット機で爆走している気分だ。
 嬉々として店の戸を開ける彼女に、困惑しながらも続く。いやいや、落ち着け松野トド松。あれだろう、きっと友人や家族に連れられ、何度か来たことがある程度の――

「おっなまえちゃんいらっしゃい!」
「こんにちは。いつものお願いします」
「あいよっ!」

 ――バリバリの常連だった。名前まで覚えられている。しかもいつもので通じちゃってるよ。なんだ、なんなんだこの子は。

「あ、そういえばまだ名乗って無かったですね。私、みょうじなまえです」
「えっあっ、僕は松野トド松。よろしくね、みょうじさん」

 適当な席に付きながら自己紹介する女性――改め、なまえに、トド松は動揺を悟られないようになんとか笑みを取り繕って名乗った。
 それからなまえは一言二言何か言っていたような気がするが、駄目だ。親父たちの下品な声や、ラーメンの匂いがあまりに気になって、それどころじゃない。別段ラーメン屋を嫌悪しているわけではないのだが、どうしたってなまえとのミスマッチ感が拭えず、事態を呑み込むことができなかった。なんとかメニューに目を通し、適当なラーメンを注文しながらも、トド松の頭はハテナでいっぱいであった。

 そしてトド松は、さらなる事態に驚愕することになる。
 しばらくしてやってきた、なまえの注文したラーメン。男ですら両手で抱えるのに苦労しそうなほど巨大な、もうもうと湯気の立つ、野菜等の具材が最早小高い山となっている、それ。
 なんだこれは。

「はぁ、美味しそう……すみません、冷めてしまったら勿体ないので、お先に失礼しますね」
「エッアッ、ウン」

 ――トド松は、兄弟の中でもとくに見てくれを気にする。人としてのプライドもそうであるが、何より金なしニートと絡んでくれる女の子はまずいない。だからこそ、バイト先でも学歴を詐称し、慶応生などとうそぶいていたのだ。すべては、女の子の……合コンのお誘いのために。
 だというのに、目の前の彼女は一体なんだというのだ。
 とくに彼女のような若い女性であれば、普通だったら男を連れて油臭いラーメン屋など立ち寄らないだろう。一人だって早々行けないに違いない。あろうことか、男が頼むようなこんなにガツ盛りのラーメンを選ぶなど、わけがわからなかった。嫌味などではなく、本当に、今までの経験すべてを総ざらいした上で、理解ができなかった。
 幼馴染みのあの子も少し変わっているし、ボディブローをかましたり思ったことを包み隠さず口にしたり魚愛を拗らせているところはあるけれど、それでも人目は一応気にする。美意識だって高い。
 それなのに、この子は。この子は一体。なんなんだ。

「ああ、美味しい……体が温まる……美味しさが染みわたる……」

 でれっ、と。幸せそうなとろけた笑みを見せながら、ラーメンをすするなまえ。
 ……彼女は、なんとなく一つ上の破天荒な兄に少し似ている気がした。他の誰に聞いても、どこが、と返される気さえしたが、とにかくトド松にはそう思えたのだ。
 何か着飾ることもなく、思うがまま、素直に好きなように、のびのびと生きる彼女が、ほんの少し、羨ましく思えた。

「おらっ、兄ちゃん。しょうゆラーメン一丁!」

 しばらくして、眼前にドンと置かれた、先ほど注文したラーメン。隣のなまえがすするそれより、一回り小さく、小高い具材の山もない。
 本当は、先ほど全力で走ったこともあり、かなりの空腹感を覚えていた。しかし、女性がいる手前、あまりに大盛りてんこ盛りのラーメンを頼むのも、どこか下品な気がして気が引けていた。だからこそ、そこそこ小ぶりに見えたこのスタンダードなラーメンを頼んだのだ。

「……すみません、やっぱりこれ、大盛りにできますか!」
「おっ兄ちゃんいい食いっぷりだねェ! いいよいいよ任せろ!」

 威勢よく告げれば、店主からこれまた威勢よく了承の言葉が返ってきた。なんだかもう、彼女の前で猫を被るのがばかばかしく思えてきた。そして、負けられなかった。こんな華奢で可愛らしい女性より、食べる量が少ないなんて。男としてのプライドが許さなかった。

「松野さんも、たくさんお食べになるんですね。ここのラーメンは本当に美味しいので、胃袋の許す限りどんどん食べてください!」
「うん、そうさせてもらうよ」

 にこり、丁寧な笑みを返せば、なまえは嬉しそうに顔を綻ばせたのちに、すぐラーメンをすする作業に戻った。
 絶対に、負けてなるものか。それは、胃袋の容量に対する対抗心だけではなかった。彼女の、人目を気にしない素直さが。着飾ることなく、楽しそうな彼女が羨ましかった。
 そして、それはつまり自分の目も、全くもって気にされていないということで。

(そして……絶対に、落としてやる!)

 自分に惚れさせるとまではいかずとも、異性としての意識を向けさせてやる。人目を気にしない彼女に、僕の目を気にさせてやる。
 こんな無知そうで、どこか危なっかしくて、抜けてる女の子すらどうこうできないようじゃ、僕は一生新品から卒業できないぞ!

 トド松の邪な決意など露知らず、それどころか彼には目もくれず、なまえはただただ目の前のラーメンを美味しそうにすすり続けていた。


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