「なまえねーちゃん!」
沢田綱吉という幼馴染がいる。私より一つ年下の彼は、あどけない声でよく私を呼んでくれた。なまえねーちゃん、なまえねーちゃん、と私を慕ってくれる彼は本当に優しい子で愛おしくて、大切な存在だった。たくさん遊んでたくさんお喋りした。家が隣同士で、母親同士の仲も良かったため、たくさんお出掛けもしたし、お泊り会だって何度もやった。夏には一緒にプールに行き、冬は毎年のようにどちらかの家の庭で雪だるまやかまくらを作って遊んだ。転んで泥だらけになってしまった彼の手を引いて、一緒に家まで帰った。迷子になってしまった彼を必死に探し回って、ようやく見つけたと思ったらぐしゃぐしゃの顔で泣きつかれた。
私を本当の姉のように慕ってくれる彼のことを、私も大好きだったのだ。
*
「おれはなまえねーちゃっ……あ、あんな女嫌いだっつーの!」
その言葉が私の耳を鋭く貫いたのは、たまたまその教室の前を通り過ぎた時だった。
いま思えば、それは道理だったのだ。小学生生活も後半に差し掛かろう多感な時期に、クラスの男の子が一人の女子と殊更仲良くしていれば。排他的な面を強く持つ小学生は、どうするのか。答えは簡単だ。揶揄うなり何なり、標的にするのだ。それも、彼は何の出来もどうにも今一つで、よく私に泣きついてくるような、よわいけど誰より心優しい子だったから。
大丈夫。わかってるよ。綱吉が表面上は何を言ったって、本当はどう考えてるのかくらい十分わかるくらいには、今までずっと一緒に生きてきたのだ。それこそ、彼が生まれた時からずっと。だから、たまたま扉の窓越しに合ってしまった目が、驚愕と後悔をぎゅっと凝縮させたように、酷く哀しそうにこちらを見ていた時、本当はそう言ってあげたかったのだ。大丈夫だから、わかってるから、貴方は何も気にしなくていいんだよって。
*
「あ、」
「あっ……」
その日は私の一つ下の学年、つまり綱吉にとっての入学式の翌日だった。玄関先で鉢合わせした彼と私は、互いに石のように硬直する。その中でも、思考だけは辛うじて回っていた。
あの頃からすっかり会わなくなってしまった彼は、記憶の中の彼より随分と背丈も伸び、顔立ちもどこか大人っぽくなっていた。まだ着心地の悪そうな制服を、それでも当たり前に纏っている彼に、どうしてか寂しさを憶えてしまう。
合った視線を互いに気まずくなって逸らす。しかし、目的地は同じなのにわざわざバラバラに行こうと提案するほうがもっと気まずいし、自然とそういう流れに持っていくことも至難の技だ。つまり、私たちは何を言うこともなく、なんとなく、少し離れた隣を並んで歩き出した。
綱吉はちらちらと控えめにこちらを窺ってくる。私はなけなしの威厳を守るために、あるいは彼を、自分を、少しでも落ち着かせようとして、さも何でもありませんよ風に澄ました顔で前を向いていた。
「……ねえ、綱吉。もう道は覚えた?」
「えっ、あ、う、うん。まあ、迷子になるような遠いところじゃ、ないしね」
「そっかぁ……。うん、そうだよね。大きくなったんだもんね」
そう噛みしめるように言って、再確認した。もうあの頃とは違うんだもんなあ。あんなに小さく、あどけなく、笑ったり泣いたりコロコロと表情を変えていた彼は、小さい子にはまだ難しいような少し大人びた表情をしていた。本当に、大きくなったなあ。
「なまえ、」
唐突に私の名前を呼んだ綱吉は、何か言いたそうに口をはくはくと動かしている。やっぱり、もうねーちゃん呼びなんて恥ずかしいかぁ、なんて思いつつその大きな瞳を見返す。私は彼より年上だとはいえやっぱりまだ子どもだから、こういう時どういう反応をするのが模範解答なのか分からなかったけれど、それでも精一杯、大丈夫だよと言うように優しく微笑みかけた。それを見た綱吉は、意を決したように口を開く。
「……あの、さ……オレ……」
「…………」
「本当は、なまえのこと、嫌いなんかじゃなかったんだ……オレ、本当は、」
「―――もう、いつの話してるの」
その言葉を遮るように、ふわふわの頭にそっと手を乗せれば、小さく震える口がきゅっと閉じられた。うるんだ瞳が揺れる。大丈夫だよ。わかってるよ。今にも雫の零れ落ちそうな、丸くやさしいその瞳だけで、もう十分伝わってるよ。
「綱吉、何かあったら、いつでも頼っていいんだからね」
「……うんっ、」
「勉強も、わからなかったら教えるから」
ほら、ティッシュは? と尋ねれば、忘れた……と返ってきたので、スカートのポケットに入っていたそれを丸々と手渡した。
「え、で、でもなまえのが……」
「大丈夫、予備の予備まであるから」
「多っ!」
端的で鋭いツッコミに、思わず笑いがこぼれる。それにつられるように綱吉も吹き出し、二人で喉を震わせながら、隣に並んで学校へ向かった。
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