「どういうことですか、校長」

 地を這うような低い声で、相澤消太は唸った。
 どろりと重そうな瞼からは、充血気味の険しい瞳が覗く。全身真っ黒の服装やら重々しい癖毛、手入れの雑な髭がその禍々しさを助長させていた。彼が受け持つ生徒たちであれば一瞬で口をつぐむであろうその形相にも、しかし目の前の相手、根津校長は一切動じない。それどころか、その動物特有のへの字口を軽快に滑らせていく。

「まあ確かに前例もないし、大変急な話で申し訳ないけど、もう決まっちゃったからねぇ〜」

 それは極めて軽い語調だった。この異例の事態を、根津はさして気にしていないように見受けられる。だがしかし、相澤はそんな答えを求めているわけではなかった。合理性を愛する彼にとって、回りくどいことは神経を逆撫でする。
 証明写真のついた、手元の資料にふたたび目を落とす。その"個性"と、備考欄に続く文言を視線でなぞり、相澤は深く深くため息を吐いた。

 これが、たった一日前の話だ。

 ──コンコン、コン。軽い音が職員室に響いた。それからたっぷり十秒の時間が空いた後、再びコンコン、と二回ノック音が鳴り、今度は間を空けず戸が開く。自席で待ち構えていた相澤は、くるりと椅子を半回転させて扉の方を見やった。

「……」

 姿を現したのは、見慣れない女子生徒だった。──否、昨日お目にかかり、そしてたった今も、平面上で確認したばかりのその顔だ。
 小さく切り取られた写真の上では、まるで人を突き放すような険しい表情をしていた。だがそこに立つ彼女は、随分と大人しい印象だと相澤は感じ取る。
 ぱちり。気の強そうな瞳と視線がかち合う。──彼女は、みるみるうちにその目を丸くした。何かに驚いているようにも見える。その真意を探る前に、奥から現れた根津がぴょこんと彼女の前に立った。

「やあやあ、待ってたよ」

 何かに囚われるように呆然としていた彼女は、小さな校長の存在にようやく我に返る。彼女は視線を落とすと、少しだけ戸惑うように身じろぎながら、足元に置いていた真新しい鞄を拾って室内へと入った。

「僕が校長の根津さ。よろしくね。それでこっちの彼が、君のクラスの担任の相澤消太先生」

 淀みなく説明していく根津。相澤は流れで軽く会釈するが、不覚なことに先生として掛ける言葉が咄嗟に出てこなかった。
 彼女は両名に対して、深々と頭を下げる。随分と丁寧でしなやかな仕草だった。その礼儀正しい動き『だけ』なら、それなりに好印象ではあるのだが。
 しかし、職員室に入る際に「失礼します」さえも言えないとは──随分と『難儀』な生徒がやってきたものだと、相澤は今一度、首もとに巻いた捕縛武器の下で人知れずため息を落とした。







「……はいそんなわけで、今日からA組に転入生がやってきました」
「クソ心踊る王道イベントキタァァァァ!!」

 そう叫んだのは誰だったか。期待と興奮と驚きが混ざった声に掻き消され、たちまち教室が喧騒に飲まれていく。爆音とも取れるそれを、相澤は圧倒的威圧感の籠められた睨みひとつで制止した。

「君たちより一週間出だしが遅れてるから、色々と教えてあげるように」
「せんせー何でもっと早く教えてくれなかったの?」
「色々事情があったんだよ」
「というか時期半端じゃないですか?」
「大人の事情があったんだよ」

 鋭く質問してくる葉隠や耳郎を適当にかわし、彼は隣に立つ転入生を見る。本人ですら予想していなかったであろうこの転校に、彼女自身も動揺しているのか、それとも元々愛想の一つも持ち合わせていないのか。彼女は出会ってからずっと俯いてばかりで、その表情もほとんど変化が見られない。やれやれと目を伏せながら、相澤は彼女に自己紹介を促した。

「……」

 彼女はしばし逡巡した後、くるりと振り返り背後の黒板に向き合った。隅に固められたチョーク群から、少し迷って二番目に長いそれを手に取ると、コツコツと乾いた音を立てて文字を綴っていく。彼女の手の動きに、ほとんどの生徒の視線が集まった。
 音が積み重なるにつれて、教室内の緊張感もどこか高まっていく。

「みょうじ……なまえちゃん?」

 そう呟いたのは、一部だけ伸ばした髪を揺らす麗日お茶子だ。整然とした読みやすい文字だと麗日は思った。だけでなく、書くスピードもやけに速いのが印象的だった。
 フルネームを書き綴った彼女は、しかしどういうわけか、なお手を止めることはない。さらにその下に数文字、区切って次の行に数文字、書き連ねていく。最後の一画を払ったところで、チョークをカツンと置いて、振り返ったみょうじはクラスメイトに頭を下げた。

『みょうじなまえです よろしくお願いします』
「えっ……え?」

 困惑する一同を代表するように、声を漏らす麗日。教室一体に狼狽が伝染していく。これは、どういうことだろうか? たくさんの視線を受ける転入生──みょうじは、頭を上げてもなお、その引き結んだ唇を動かすことはない。

「えーそういうわけで……」

 彼らの疑問に答えるように、ようやく相澤が口を開いた。高まった緊張が、均衡が、崩される。

「──みょうじさんは『個性』の都合上、きみたちとは筆談で会話しますので、そのつもりでよろしく」

 告げられた予想し得ない事実に、クラスメイトたちはしばし言葉を失う他なかった。


「それからこれでA組は合計21名、つまり奇数になった。ペアワークに著しく支障を来す。合理性に欠くね」
「先生初っぱなからとどめ刺すのはやめてやってください!」

 ザックリ突き刺さる鋭利な正論に、みょうじは滝の汗を流し上鳴は吼える。


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