どの学年どのクラスにも、問題児と呼べる生徒は大抵いるものだ。それは手のつけようがない暴れん坊であったり、他者との協調をしない者、次から次へと問題を持ち込んでくるトラブルメーカーなど、さまざまではあったが、とにかく教師が手を焼くという点では共通していた。とくにこの学校は、その恵まれた才を基軸に、個性──今の場合は全人口の約八割が持つ特異体質のことではなく、性格上の個性のことを指す──を思い思いに形成してきた者も多い。
つまるところ、この学校には優秀な者も多い一方、問題児とされる生徒も多く抱えているのだった。よって雄英高校の教師には、その個々が持つ特徴を潰すことも、また無為に野放しにすることもなく、導いていくことが求められた。
「……」
「……ハァ」
相澤消太は深くため息を吐いた。これまで数々の問題児を指導してしたが、こんなパターンは初めてだった。目の前の女子生徒は、『またも』なにか言いたげにこちらを伺い、胸元でメモ帳を握る手に力を籠めている。曲がった眉が何を示しているのかは、一向にわからない。
「オイ……言いたいことがあるなら言え」
その声は我ながら、随分冷たいものだと感じた。とは言っても普段とそう変わりはしない声色で、ただ普段より低く、鋭利さを感じるような声だったと思う。
肩を揺らした女子生徒はどこか驚いているようではあったが、しかし怯えている様子はない。大抵の生徒はこの視線を、声を受けて、焦ったり震えたりするものだったから、ほんの僅かに意外であると相澤は頭の隅で考えていた。
みょうじなまえ。通常筆記試験と実技試験をパスした者のみが入学できるこの雄英高校に、転入という形で通学することになった異例の生徒。彼女の『個性』はマイクロ波──使いようによってはいくらでも工夫できる強力な『個性』であったが、その分大きなハンデも背負っていた。
『みょうじなまえです よろしくお願いします』
転入初日、黒板にそう書き連ねた彼女。常にメモ帳とノック式のボールペンを所持しており、日常生活における『会話』は、すべてそれによって行われていた。
生まれつき『個性』によるハンデを背負っているものは少なからずいる。例えば青山優雅は、先天的に個性と身体にずれがあり、サポートアイテムを利用しなければ殺傷性の高いレーザーが漏れてしまうというディスアドバンテージがあった。
彼女、みょうじもその類のようで、発声と同時にマイクロ波が混ざってしまうという難儀な性質であった。マイクロ波は電子レンジにも利用されるもので、水分子を振動させることで加熱する。その帯域やエネルギー量などの条件にもよるが、人間や物質に当てて無害なものではない。彼女が『数年間』、家でも固く口を閉ざし続けているらしいという事実があれば、その『個性』によるハンデがいかに危険であるか──有体に言えば、過去になにか、喋ることで大きな事故を起こしてしまったのだろうということが、すぐにでもわかった。
「はっきり言いたいことも言わずウジウジと……実に合理性に欠くね」
それでも彼女は、筆談でコミュニケーションをとることができるはずだった。……しかし、職員室で初対面したその瞬間。そこから教室に向かうまでの時間。休み時間、授業終わり、帰りの挨拶時……そして、廊下で偶然すれ違った、今。彼女は何度も、相澤に向かって閉じた唇を震わせていた。だが何か用かと促しても、メモ帳を取ることもせずに視線を逸らし、逃げる。そんなことがこの数日で何度も起こっていた。
事あるごとに、何か言いたげな顔をして。そのことをこちらに悟らせながらも、肝心の口は割らない。神経を逆撫でる、というほどの行動ではなかったが、相澤に怪訝な気持ちを抱かせるには充分すぎた。
どのような『個性』の人間も不便なく過ごせるように、雄英の施設は一つ一つが大きい。天井は高く、扉も大きな作りになっていた。次の授業が始まるまであと数分もなく、彼らのいる廊下はすでにひと気が無い。相澤の声だけが、広い廊下に静かに溶け込んだ。
「……喋るのが嫌ならこうしてあげよう」
痺れを切らした、とも言うのかもしれない。資料には目を通していても、出会ってたった数日の彼女のことはまだ、理解が及ばない。だからこの行動が、みょうじにとってどのような意味を持っていたのかは相澤にはわからなかった。
ぶわり、癖のついた黒髪が、生え際から逆立っていく。質量感のあるそれは、重力に逆らって波打った。首元に巻いた捕縛武器も、風を受けたように広がっている。
みょうじは鋭い瞳をみるみるうちに大きく見開く。斜め上から見下ろす充血した目を、時が止まったようにじっと見つめていた。
「ほうらこれなら大丈夫、怖くない……言え」
抹消。他人の個性を一時的に無効化する。それが相澤の『個性』であり、校長の根津がみょうじを一年B組ではなくA組に割り当てた大きな理由でもあった。
いつだったか、黒い装束、黒い髪のもと赤く光る目を、真っ暗闇の中で夜目を光らせる獣のような不気味さがあると揶揄されたことがある。その瞳に絡めとられ、『個性』も使えなくなったとあれば、視線だけで支配されているとも同義であると。眼前で固まっている彼女も、恐らくそんな心地でいるのだろう。無闇に怯えさせることは本意ではないが、こうでもしないと彼女は言いたいことも言えないと思った。それは実に非合理的だ。
みょうじはぱちぱちと二度ほど瞬きをした後、小さく鼻で息を吸うと、ぎゅっと結んでいた唇から空気を吐き出した。再び口から酸素を吸うと、まるで魔法にかけられたように、今までのことが嘘のように、するりとその言葉を吐き出したのだ。
「……好きです」
ぱちり。
『個性』発動のため見開いていた瞳を、瞬きした音だった。
ばさり。
重力に逆らっていた黒髪が、勢いよく落ちていく音だった。
「……え?」
随分と間抜けな声が出たとは思う。教師生活を早数年続けているが、生徒にこれほど気の抜けた、素の声を聞かせた記憶もそうない。こちらを見上げる少女の瞳は真摯で、無垢で、嘘偽りのない色をしていた。
小さく、思っていたよりは高くなく、だがどこか透明感を含んだような、けれど少しだけ掠れたような声が紡いだ四文字が、相澤の耳から脳内へと滑り込み、頭の中を支配する。即効性の毒かなにかのように一瞬で巡りきって、相澤の思考を一度断ち切った。たった四文字、されど四文字。相手を本当に支配したのは、相澤の目ではなく彼女の声。
長年声を封じ込めていたみょうじなまえにとって、相澤消太……抹消ヒーロー・イレイザーヘッドの瞳の赤は、夜に揺らめく不気味な光などではなく、暗闇に差し込んだ救いの光だったのだ。
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