「あっ先輩そこ危ないです!」
どこからともなく姿を現したなまえちゃんが、僕の目の前に駆けてきたかと思うと唐突にその姿を消した。
一瞬何が起きたのか分からず、ただ唖然とするだけだったが、彼女の「いったあー…!!」という声がこだまして耳に入った時全てを理解した。どうやら不運として知られているこの僕が、今まさに目の前の落とし穴を踏み抜かんとしていたらしい。それをなまえちゃんが止めようとし、勢い余って自ら穴に落ちてしまったのだろう。そう、僕の代わりに。
「なまえちゃん!!だ、大丈夫!?」
「大丈夫ですご心配なくー…」
慌てて落とし穴を覗きこむと、苦笑しながらこちらに手を振る彼女の姿があった。ああ、なんてことだ。女の子、それもよりにもよってなまえちゃんを僕の不運なんかに巻き込んでしまうとは。「すまない!」と「大丈夫!?」を何度も繰り返しつつ、彼女を引き上げる為に手を差し伸べた。
「今引き上げるから!さ、捕まって!」
「えっ?い、いや、大丈夫です、自力で上がりますので」
「え?でも、一人で上がれる深さじゃないし…」
「いえ本当に大丈夫ですから!だって善法寺先輩は、」
「えっ――うわあっ!!」
「ぐはァっ!!」
自分の不運が常人レベルではないことは重々承知していたが、今はそんなことを考えている余裕なんてなかったのだ。ああ、僕はなんて馬鹿なんだろう。バランスを崩した僕が、穴に落ちることなんて少し考えればすぐ分かる事じゃないか。ああ、馬鹿馬鹿、僕の馬鹿。
「……本当先輩って不運ですねぇ」
「ううっ、すまない……怪我してないかい?なまえちゃん」
「ピンピンしてます。まあタフなのが取り柄ですから…」
そう半笑いでため息を吐いたが、どうやら彼女自身は本当に怪我一つないらしい。僕なんて蛸壷に落ちただけで足を挫くのに。どんどん自分の情けなさが浮き彫りになっていく。ああ、恥ずかしい。穴があったら入りた……あ、もう入ってた。
「……あ!?そういえば重いよね!?ごめんね!?今すぐどくから…!!」
「ちょ、無駄に動かれるほうが苦しっ……ウゴッ!出る!昼飯出る!腹!腹に手!!」
「あああすまない!!」
あたふたとどんどん行動に余裕がなくなっていく。そんな僕を知ってか知らずか、なまえちゃんは誰かが通ったら縄ばしご持ってきて貰いましょう、と早々に自力での脱出を諦めた。
つまり、なまえちゃんとの密着度が非常に高いこの状態のまま、僕はしばらくいなければならないことになる。
(参ったなあ……)
幸い穴の中のは暗く、顔色を窺うのは困難だった。しかし、こうもくっついた状態で、忙しなく脈打つ心臓に彼女が気付かないでいてくれるのか。
そんな僕に追い打ちをかけるかのように、なまえちゃんは僕の頬に手を伸ばすと「泥付いてます」と指で拭った。途端にカッと顔に血液が集まる。ああ、彼女は気付いているのだろうか。君の一挙一動やちょっとした一言が、僕の心を激しく揺さぶっていることを。
(駄目だ、なんか良い匂いする……)
ほんのり甘いような匂いが鼻孔をくすぐり、なまえちゃんを一人占めしているような優越感が沸き起こる。今改めて考えると、これは不運なんかじゃなくて純然たる幸運だったのではないだろうか。普段は食堂と保健室くらいでしか会えないのだから、なおさら。勿論なまえちゃんからしてみれば、これは純度100%の不運だろうけど。
ちらりとなまえちゃんを盗み見る。彼女は暇そうに自分の髪の毛を弄っていた。どうやらこんなに意識しているのは僕だけらしい。知ってはいたけど、何だか虚しくなった。
もしかせずとも、僕は男とすら認識されていないのではないか?もしくは女々しい男だと思われているのか。
何にせよ、こんな誰の手も届かない狭い場所で、男と二人っきりだというのに、それでもなまえちゃんはぼんやりとマイペースを貫き通している。僕は危機感を持つに値しない男だと思い知らされることと同義だった。信用されていると言えばそうなのだろうけど。でも、だけど、
きっと、この時の僕はどうにかしていたに違いない。
「……?善法寺せんぱ、」
彼女の顔の横の内壁に手を付いて、彼女と目を合わせる。暗闇でもその目がよく澄んでいると分かった。なんて、贔屓目なだけかもしれないけれど、それでも僕にはそのきょとんとした黒い瞳がとても美しく見えた。そんなことを考えながら、ゆっくりと、その目をもっとちゃんと見ようとするように顔を近づけ──
(――……いやいや無理無理無理!!)
さっきまでの勢いはどこへ行ったやら。僕は慌てて手を離し、忍者の名に恥じない機敏な動きで後退した。しかしもちろん背後は行き止まりなわけで、清々しいほど思いきり頭を打ち付けた。不運だ。後頭部を両手で押さえながら俯く。恐らく、今の僕の顔は茹で蛸の如く真っ赤だろう。ああ、いよいよバレていても何ら可笑しくはない。というかむしろ、不審者か変態を見る目で見られているに違いない。僕は絶望感に苛まれながら、恐る恐るなまえちゃんの様子を窺った。
……しかし、彼女は笑いを堪えていた。しかも、肩の震えが尋常ではない。
え?今の一連の僕の行動にそんなにツボにハマるようなことあったっけ?あれ?え?え?
困惑する僕を他所に、なまえちゃんは一頻り笑いが収まると僕を見た。
「先輩って本当可愛いお方ですね」
「ヘェッ!?か、かわ、かわい……!?」
「顔近づけるだけで照れちゃうところとか、先輩が私を好きなこと、私が気付いてないと思ってることとか、その上私が先輩になんの興味も持ってないと思ってることとか」
「えっちょっ待っ……待って!待って!!」
饒舌に語りだす彼女を大声で制止する。待ってくれ、思考が追い付かない。今彼女は何て言った?え?嘘だ。嘘だと言ってくれ。まさか、そんな、僕のなまえちゃんに対する気持ちが、あろうことか本人にバレていた?
「あら、その反応はやっぱり、二つ目が強すぎて三つ目にお話ししたこと頭に入ってきてませんね?」
「えっ!?なななななに、なにが、」
「……先輩が落ちそうになった時、」
「えっいや別にぼぼぼぼくは君に落ちそうにだなんてそんな全然まったく」
「いや落とし穴の話ですけど」
「(死にたい)」
「私結構遠くにいたのに、わざわざ全力疾走して穴に落ちたんですよ。先輩がまた不運で捻挫だのなんだのするのも防げるし、あわよくば、私の手を引いてくれるであろう先輩が不運により私の上に落ちてきてくれないかなーと」
「え、え、……え?」
「ここまで言ってもあまりピンと来ていないご様子で……やっぱり先輩鈍感ですねぇ」
なまえちゃんは悪戯っぽく笑うと、突然無理な体勢にも関わらず僕の胸ぐらを掴み上げた。あ、まさか、殴られるのでは。そりゃこれだけ巻き込めば怒るか。しかし彼女はふっと目を細めると、今度は吃驚するほど妖艶な笑みを見せ、僕の頬に口を付けた。
僕の頬に、口を付けた。
僕の、頬に、口付けした。
「…………!!?」
「私がこうする理由、わかりませんか?」
「!!?!??」
「流石にもうお気づきになられましたかね?」
「!!??!??!?!??!?」
「せんぱ………あ、」
「倒れた…」というなまえちゃんの台詞が辛うじて聞こえた所で、僕の意識は彼方へ吹き飛んだ。
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