夢を見た。
使い古した自分の布団の中で目を覚まし、暖かい朝日に包まれていた。ほのかな甘い香りにつられてリビングへ行けば、母がいつもの少し焦げたようなちょっと不格好なスクランブルエッグを作っていた。おはよう、と声をかけたら、おはよう、あとでゴミ出しておいてね、と返ってきた。
友達からのLINEは私で止まっていて、眠い頭のまま返信を打った。手帳を確認したら、今日は漫画の発売日だったから、あとで買いに行こうと思った。
トーストしたパンにジャムを塗り、小麦の風味とフルーツの甘さを感じながら食べた。スクランブルエッグは、やっぱり少し焼きすぎていたけど、素朴で美味しかった。
母とたまに一言二言会話を交わしながら、朝ごはんを食べ終えた。一人暮らしを始めてから、誰かと朝食をとるなんて本当に久しぶりだった。ぽんとスマホの画面に浮かんだ友人からの返信を眺めながら、その心地よさに身を委ねていた。
それはそれは、幸せな夢だった。やわらかい夢だった。あたたかい夢だった。甘美な夢だった。酷く甘ったるい、麻薬のような夢だった。
*
知らないにおいに包まれていた。どこか私という存在を、この空間において浮き彫りにさせるような、私を異物とするようなにおいで、あまり好きじゃなかった。
少しずつ覚醒してきた頭でまず考えたのは、ここはどこだろうということだった。知らない布団に包まれ、知らない天井に見下ろされていた。
私は一先ず起きようと、寝返りを打つようにして体を横にし敷き布団に手を置いた。しかし、あまりの手足の痛みと、腹筋背筋その他諸々全ての筋肉が悲鳴をあげるものだから、すぐにどすりと倒れこんでしまった。
「ちょ……え……」
思わず出た声は寝起きのせいか掠れていて、私は二、三度咳払いをした。その度に腹筋に響いてとにかく痛かった。なんだ、これ、筋肉痛?
それでもなんとか上体を起こし、あたりを見回した。知らない部屋だ。私が着ている白い簡素な寝間着も、当然のように覚えがない。だって私は、着方なんてわからないし、"この世界"に来てから着物なんて着たことが──
……ああ、そう、そうだった。
疲れているせいだろうか。最近はもうあまり思わなくなったのに。がっくりと肩を落としたくなるような、夢であってほしかったと思うような、逃げ出したいような、そんな気持ちに支配された。
ここは、私のいるべき世界じゃない。
残念で仕方がなくて、瞼を閉じた瞬間、赤紫の化け物が暗闇に浮かんできた。じわりと汗が浮き上がり、心臓が早鐘を打つ。弾けるように慌てて目を開いたが、浮かんだ残像がどうにも頭から消えてくれないし、ぶるぶると小刻みに手が震え、背筋が寒くて寒くて寒くて仕方がない。
違う、大丈夫、落ち着け、もうあの化け物はいないから、大丈夫だから、だから落ち着いて。
「……はっ…はっ…、」
うるさく騒ぎ立てる心臓を押さえながら、自分の身を掻き抱くように両手で抱きしめながら、大丈夫、大丈夫だと何度も心の中で唱えた。
私は、助かった。なんとか生きたのだ。もう何の心配もいらない。本当に、良かった。だって、よりにもよってタコの餌エンドなんて、古今東西こんな爆笑もんの死に方した人間がいるだろうか。いや、いない。ね、ほら、良かった。良かったじゃん。ははは。
「良かった、良かった……もう大丈夫、大丈夫……」
半ば言い聞かせるように、何度も何度も唱える。唱え続けながら、私は少しずつ記憶を辿った。化け物、人のあたたかさ、叫び声、ツッコミ、意思の強い声、血の雨、空を舞うムツゴロー星人。それから、再び人のあたたかさ。
朧気ながらも、私は覚えている。すべて見ていた。あの人が、あれを倒すまで。
やはりどうしたって気絶なんて楽な道を選ばせてはくれないものだから、背中の体温も、扉を開ける音も、おばあさんの声も、微かな力を振り絞りながら入ったお風呂の温かさも。全部、曇って濁って不明瞭だけど、覚えていた。
だから一先ず私には、しなければいけないことがある。この世界は受け身になっていては駄目だと学んだから、私が今目を覚ましたというのなら、もう寝転がってるわけにはいかないのだ。
たっぷりの時間をかけてどうにか立ち上がる。苦痛に顔は酷く歪み、足もフラフラだが、それでも踏ん張って戸の方へ向かった。
早く、謝らなくちゃ。
扉を開け、最初に感じたのは煙草のにおい。それから、いくつものソファとテーブルと、カウンター。その内側に、紫煙をくゆらせる影がひとつ。私に気がついたのか、彼女はゆるりと振り返った。
「あァ、起きたかィ」
茶髪を綺麗に結い上げたその人──お登勢さんは、何度もテレビ越しに聞いたその声で、私の鼓膜を震わせた。やっぱりどうしたって、自分と同じ次元にいるのにその人はお登勢さんで。実写版、とかそういうものではなく、本当にその人本人で。何度やっても慣れないこの感覚に、言い様の無いもどかしさを覚えていた。
「銀時から聞いたよ。災難だったねェアンタ」
「え……あ、」
「ああそうそう、銀時ってなァあの銀髪天パの目が死んでる野郎さ。ほとんど気絶しかけみたいなアンタを、ここまで運んだんだ。後で礼しておきな。此処の上に住みついてやがるから」
「あ……はい」
一方的に捲し立てたお登勢さんは、私に気を遣ってくれていたのかもしれない。未だ混乱しているかもしれない私に、余計なことを考えさせないようにしていたのかもしれない。「そうだ、飯でも食うかい」と背中を見せ炊飯器に手を伸ばす彼女に、あの、と声をかけた。
「この度は本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
腰を折り深々と頭を下げる。あんな血塗れでボロボロの状態であろうことか飲食店の玄関をくぐり、お風呂も着替えも布団も貸して貰った。ほとんど記憶もないのだけれど、喋ることすら辛い状態で、彼女に謝罪を入れたとは到底思えない。これだけ良くして貰ったというのに、不躾にもほどがある。申し訳なくて、仕方がなかった。
しばらく頭を下げたまま、様子を伺う。返事がない。何か変なことをしてしまったのだろうかと心配になったところで、フーッと長く息を吐き出す音が聞こえた。煙を吐き出したのかと思ったが、顔を上げて見てみるにそれは溜め息だったらしい。向けられた呆れまじりの苦笑の意図がわからず、困惑する私に彼女は言い放つ。
「アンタねェ、こういう時は感謝を述べるもんだよ」
思わず潤んだ瞳を隠すように、再び頭を下げた。
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