あれからお登勢さんの厚意で、数度抜いていた食事を頂いた。疲れ果てている私に配慮してくれたのか、すぐに出せるものがこれしかなかったのかはわからないけど、ただの白米に、漬物、それからおすましだけの簡素で胃にやさしそうなものだった。なのに、数日前に奮発して買ったお寿司より、私の世界で友達と食べた高級焼肉より、ずっとずっとあたたかくて美味しくて、漏れそうになった嗚咽を米と一緒に飲み込んだ。
ご飯をご馳走になり、その上寝間着のままで放るのも、というご厚意のもと着物まで貸して貰ってしまった。しかも、着付けまで任せっぱなしで。
偶々ではない、意図的で、その人の意思をもってした、何の見返りも求めないような厚意を、誰かから受けるのは本当に久しぶりだった。身に余る優しさが本当に嬉しくて、同時に、怖かった。
私は何も持っていない。何もできない。何も返すことができないというのに、こうして他人に何かを与えて貰うのが、本当に怖くて、申し訳なくて、みじめで仕方が無かったのだ。
*
私は丸一日眠っていたらしい。お登勢さんに何度目かもわからない礼を告げスナックを後にした私は、とっぷり日の暮れた中、その二階、万事屋の前でインターホンを押しあぐねていた。ああ、やだやだ、心臓が止まりそうだ。
彼らにもまた、礼を言わねばならない。わかっている。人間として、常識的に、わかってはいるのだけど。
"キャラ"に会うのが緊張するとか、喋って、変な態度を取ってしまって、ありもしないはずの好感度が下がって幻滅されてしまうのが嫌……なのももちろんだ。だけど、私はやはり、怯えているのだと思う。あの人に会って、また再び言及されてしまうかもしれないことに。彼と"みょうじなまえ"の関係性が、明らかになってしまうかもしれないことに。本来なら繋がりの無いはずの私と彼に、私の知らない繋がりを、隠された領域にあったそれを、無理やり引っ張り出されてしまうかもしれないことに。
それでも、この戸を叩かなければいけないのは変わらない。命の恩人に、あろうことか無言で去るなんて、恥知らずもいいところだ。いくら心臓に毛が生えてたって、できるはずもない。
ああ、逃げたい。逃げ出したくて、たまらない。だいたい、こんなに満身創痍で身も心もボロボロのくたくた、箸を持つのさえ苦労したくらいだってのに、今日中にこんなに頑張る必要ってあるだろうか? ここまで階段上ってくるまで、あまりの痛みに女子とは思えぬほど顔面歪めたくらいだぞ。今だってびきびき痛くてたまらない。疲労と筋肉痛がこれほどまでに人体に負荷を掛けるレベルで起こるなんて、今まで思ってすらいなかった。もう少し休んで、元気になってから改めて訪問した方がいいのでは? ──まあ、その頃にはきっと、今以上に会いたくなくなってるんだろうけれど。
(……行くしかないか)
ごちゃごちゃ言い訳並べたって、結局それを聞いてくれる人間が自分しかいないんじゃあ意味がない。腹をくくる他なかった。
震える手を伸ばし、ピンポーン、と私の心情とは正反対の軽快な音が鳴り渡る。
今すぐ走り去りたい、身を隠したい衝動に耐えつつ、慣れない着物の下で粟立つ肌を気付かないフリし、ただただ戸が開くのを待った。しばらくして、奥からダン、ダンと怒りを込めたような足音が近付いてくる。
「だァーから家賃ならもうねーって……! ……アリ、あんた」
「えと、あの、こん……にちは……」
……あ、まずい、やらかした。正常な思考のもと彼と対面するなんて頭真っ白になるに決まってんだから、台詞くらい考えておくべきだった。どうしよう、全然言葉出てこない。口も頭も回らない。
相変わらず癖の強い天パを携えた彼は、その気だるそうな瞳で、こちらを見据えている。冷や汗が喉を伝う。気持ち悪い、なんて考える暇もなく、難解パズルのようにこんがらがった思考をどうにか戻そうとする。でも、無理矢理引っ張ってほどこうとしてるものだから、元通りになるわけもなく。
「ババアに言われたのか?」
「……わ、たし、あの、下のお登勢さん? に、貴方に助けて頂いたと、聞いて」
「あーなるほどね。別に礼なんざいらねーよ。俺は俺で依頼こなしてただけだから」
どうにか口を動かし、ギリギリでコミュニケーションをとる。依頼、とは、ペット捜索のことだろう。あの、長谷川さんを介してバカ皇子に依頼されたやつ。しかしそんなこと「私」は知る由もないので、曖昧に頷いて見せた。そしてこのままなんとなく、それじゃあ本当にありがとうございました〜、と帰れる流れだと思っていたのに。
「……ま、とりあえず入れや」
はて、どうしてそうなった!?
私の立場で言うのもなんだが、彼は依頼ついでに私を助けてくれたのだ。だから、そこまで私が恩義を感じることもないと、そういう口ぶりだったはず。それなのに、何故、私を己のテリトリーに招き入れようとする? とりあえず、も何もないだろうに!
とは、まさかこの人に反論できるはずもなく、しぶしぶと彼の後ろに続く。ああ、私、きっと私の世界のファンの中で、唯一無二の、生万事屋の敷居をまたいだ人間になってしまった。
人様の家の匂いというのはなかなか嗅ぎなれない。しかもそれが、彼の家となっちゃあ、落ち着いていられるはずもなく。しかも、着物なんて成人式の時に振袖を着たっきりだったし、浴衣だってもう何年も着てない。ああ、苦しい。心身ともに苦しい。あの、私にとっての仮住まいに、早く帰りた……あ、もう壊れちゃってるんだった。
そんなに距離のないはずの玄関から客間までが、やけに長く感じた。きっと彼は、私はこんな思いをしているなんて、露ほどにも思っていないに違いない。何せ彼、作中でかなりのフラグを立てているというのに、恐らく好き好きがオープンなさっちゃんの好意くらいにしか気づけていないのだから。
と、彼の広い背中を見て、ふと気づく。あれ、そういえば新八は?
「あー、そうだ、眼鏡ならもう帰ったぞ。もし個別に礼がしてェってんならまた明日出直してくれや。まあお前助けたの全部俺だけどな」
心臓が、せり上がり器官を無理やり通って、口から落っこちるかと思った。訊いたわけでもなかったのに、恐ろしいほどのタイミングの良さに、こいつエスパーなんてスキルあったっけ? と思わず疑ってしまう。
いや、それよりも、やけに語尾を強調しながら、どこかしたり顔でこちらを振り向く彼は、明らかにおかしかった。なんだその、表情と言葉は。たった二度(でにいすでの邂逅を憶えているのなら、今回合わせて三度だが)しか会ってないの人間への態度としては、あまりになれなれしかった。しかし、彼という人間が、そこまで常識知らずだった記憶はない。少なくとも、万事屋という胡散臭い商売を一人で立ち行かせることができるくらいには、大人の対応ができた……はず。
じゃあ、やっぱり彼は、みょうじなまえという人間を、知っている?
ここへきて、いよいよ疑惑が確信に変わる。それならば、今私が部屋を通され、ソファに座ることをそれとなく促されているのは、それについて話すため? 第三者もいない、完全に彼の懐の中で、私の抵抗する術を奪ったうえで追及しようとしている?
──嫌だ、どうしよう、逃げたい、逃げなければ、どうにかして、ここから、彼の追及から……
「そんで、お前さ──」
「あの!」
ほとんど、彼の言葉に被せるようにして、私は叫んだ。ソファの横で未だ立ったまま、半分肩で息をしながら。お茶を運び、自身も椅子に腰を下ろしていた彼は驚いて、気だるげな眼を丸くしていた。
彼に会話の主導権を握らせてはならなかった。彼に先に、口を開かせるわけにはいかなかった。
「"お兄さん"、私、依頼してもいいですか」
そう告げれは、彼はそれが想定外だったように、ぴたりと私を見たまま動きを止めてしまったのだ。この調子だ。彼のペースに飲まれてはいけない。彼を、こちらのペースに巻き込むのだ。
私だって曲がりなりにも二十数年生きてきた、立派とは言い難くもそれなりに経験を積んできた大人だ。いくら疲れていようと、多少の考える脳みそは残っていた。この即席極まりない策が功を奏すかはわからないが、どのみち"それ"は放置しておけない問題でもあったから、私には勝負に出る他なかったのだ。
back
topへ |