雨が降った。
 じめじめ、しとしとと嫌な季節だ。髪の毛も広がるし、スカート裾も靴下も濡れるし、蒸し暑い。農家にでもならない限り、私が雨を好きなれることなんてないような気さえする。
 はやく梅雨明けしないかなぁ、なんて考えながら、傘を持たないほうの手で纏まらない毛先をいじっていると、後ろから派手な水音と女の子の小さな悲鳴が聞こえてきた。続けて耳に入ってくるのは、雨の音にも掻き消されないくらいの大きな舌打ち。

(うそでしょ……)

 嫌な予感を覚えつつもそっと振り返り、傘越しに音のした方を見た。そこには濡れた地面に手をついて、不自然に座り込んでいる女の子。そしてその子をいかにも不機嫌そうな顔で一瞥した男が、大股で去っていくのが見えた。
 大方、すれ違い様にぶつかった二人のうち、女の子の方がその衝撃で倒れてしまったのだろうと推測できる。だがどう考えても男のほうに非がありそうだし、舌打ちしたいのは彼女のほうだろう。まったくこれだから、嫌になる。謝りもせず、手を差し伸べることもなく、怒りをぶつけて逃げるなんでどういう了見だ。一体何様のつもりなんだ。
 でも一番嫌になるのは、そう言ってやることもできない、咄嗟に「大丈夫ですか?」って助けにもいけない自分のへっぴり腰だ。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう)

 通行人はみんな、彼女に一瞬目を向けるもそのまま通り過ぎてばかりだ。私だってそれに紛れて今すぐこの場を去ることは可能だった。知り合いでもないんだから、私がここで動く義理なんて本当はない。
 だけど、傘もささずに地面にへたりこんで、雨に打たれている人を見て見ぬふりなんてしていいわけがないんだ。そもそも、靴裏がアスファルトにぴったり張り付いて離れない時点で、私の答えなんて決まっていた。
 私は意を決して彼女に近づき、傘を彼女のほうへと傾けた。端から垂れる水滴がその人に当たらないように、自分を完全に傘の防御域から外したため、顔から少しずつ雨に濡れていき煩わしかった。

「あ、あの……大丈夫? ですか?」
「……」

 返事はない。けれど彼女の生気を失ったようにぼんやりとしていた瞳は、少なからず驚きを見せた。
 近くに来てみて分かったが、この人、かなり顔色が悪いし唇が紫色だ。纏ったセーラー服も水を吸って色が濃くなっている。この調子では鞄の中身も大惨事に違いない。
 きっと結構な時間、この雨の中にいたんだろう。不思議な子……とすら言っていいのかわからない。別段急いでいるようにも見えないし、傘を忘れたのであればどこかで雨宿りするなり、買うなり借りるなりできたのではないだろうか? この最悪な天候の中、傘なしで外を出歩くのは少しチャレンジャーすぎるような……。

「……あ、あの、大丈夫ですか? 立てますか? それともどっか怪我とか……?」
「……」

 未だにだんまりな彼女に色々な質問を並べるが、すべてスルーされる。だが結構声は張ったと思うし、雨音でかき消された、なんてことはないはず。さっき彼女の小さな悲鳴が聞こえたし、声が出ない……というわけでもないだろう。もしかして、彼女は私と喋る気が無い? ありがた迷惑だったのだろうか?

(ど……どうしよう、どうしよう、この空気……!)

 焦る私。どんどん濡れていく背中。差し出したままの傘。固まったままの女の子。止まない雨。
 私は考えた。この数秒で考えに考え抜いて──傘を持たないほうの手で、無遠慮にも彼女の腕を掴み、軽く引っ張った。

「とっ……りあえず、立ちません? か?」

 精一杯の笑みを見せたつもりだったが、かなりひきつってイビツな顔になってしまう。それでも彼女は、驚きながらも、私の腕を引っ張るようにしてようやく立ち上がってくれた。軽く揺れたそのスカートから、水が跳ねる。彼女の冷たい体温が、手を通じて全身に伝わり思わず身がすくんだ。

「えっと……」

 彼女はあまり主体性を持っていないようだった。ここまできてなお、自ら話してくれることはない。私も私で、初対面の人と話すのはあまり得意ではなかったから、再び沈黙が訪れてしまう。誤魔化すように肩に掛けた鞄の紐を握れば、ふとあるものの存在を思い出した。

「そ、そうだ……これ!」
「えっ……」

 鞄から取り出したそれ──いつも鞄に忍ばせている折り畳み傘を、かしゃりと開いてから押し付けるように突き出す。彼女の大きな目と、ようやく視線がかち合った。ついでに、一応二度目ではあるが、その声をしっかりと近くで聞いたのは初めてで、その透き通るような瑞々しさに驚く。これが小説なんかの表現でよくあるような「鈴を振るような声」なんだろうかと心のどこかで思いながら、私はその白い手に半ば無理矢理傘を持たせた。

「その、わ、私はこっちの長い傘あるので、使ってください!」
「……!?」

 朝から長傘を持っていく時ですら、無駄に鞄に入れっぱなしの折り畳み傘が、まさかこんなところで功を奏するとは。己の心配性、もといズボラさに感謝しながら、私はとうとうこの空気に耐えかねて踵を返した。

「そ、それじゃ私はもう行くので、か、風邪には気を付けて!」
「ま………待って!」
「えっ!?」

 突然の大声に、大袈裟に肩が震えた。おそるおそる振り返ると、ちゃんと傘の下で雨を凌いでくれている彼女が、先程まで血色の酷かった顔をどこか赤くしているのがわかった。

「あ……あの」
「えっと……あ、あの、傘はあのアレ、さ、差し上げます。よ、余計なお世話でしたらあのそのアレ、そこのゴミ捨て場にでも、」
「その……あ……、」
「……あ?」
「あ…………あ……」

 だんだんと尻すぼみしていく彼女の声に、本日何度目かもわからない「どうしよう」が頭を支配した。私も貴方も、いやとくに貴方は、早く帰って着替えるなりお風呂に入るなりしないと、本当に風邪を引いてしまう。
 彼女は一体どうしたというのだ。──いや、このシチュエーションで「あ」から始まる言葉なんて、限られていた。だからこそ、無下にはできないしこちらから何? と催促することもできないのだ。もう立場も何もしっちゃかめっちゃかだけど、私は内気なクラスメイトが頑張って授業内で発言しようとする時みたいに、「がんばって!」と心の中で訴えるしかなかった。
 そうしてようやく彼女の、多くの人にとっては普通でも、彼女にとっては大きな勇気が形を成す。

「あ……りがとう、ござい、ます……!」
「……ど、どういたしまして!」

 二人とも、ちゃんとお礼が言えて偉いですね、なんて脳内でイマジナリー保母さんが微笑んだ。
 突然叫んだ彼女の顔は、ますます赤みを帯びていく。さっきまでの顔色の悪さが、本当に嘘のようだった。しかしその朱に染まった顔はどんどん俯いていき、その際前髪からぼたぼたと水滴が垂れていく。そういえば、何か拭くものを渡すほうが気が利いていたなとそこで気がついた。
 「これ、よかったら……顔とかも拭いたほうが」私は鞄の底から予備のタオルハンカチを取り出して、彼女に差しだした。それに気が付いた彼女は、顔を上げてどこか潤んでいるようにすら見える瞳でこちらを見た。

「顔……」
「う、うん……」
「……」
「……え、や、あの、私じゃなくて貴方の……」
「えっ……!?」

 そしてハンカチをおもむろに受け取ったと思えば、なんとびっくり私の頬にそれを当てた。本当に、本当にびっくりした。あまりに予想外だった。しかし彼女もなかなかに混乱していたのだろう、私の言動の意図をようやく汲み取るや否や、顔の紅潮は最高潮……いや、ダジャレじゃなくて。とにもかくにも、羞恥に苛まれたように口は震え、目も酷く泳いでいた。
 再度私たちの間に訪れる沈黙。それに先に負けたのは、彼女のほうだった。彼女は左手にハンカチを、鞄を掛けた右手に傘を持ったまま、突然背を向けて駆け出した。私はその背中が曲がり角に入り見えなくなるまで、動くことができなかった。


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