昔からどうしても好きになれないものがある。雨の日だったり、じめっとした空気だったり、サラダに入ってるクルトンだったり。あとは、個性コントロールのできない自分とあの人への気持ちが諦めきれない自分。それでも歳を重ねるごとに好きになれないものが普通なものになって行った。雨の日は可愛いレイングッズを身につければいい。じめっとした空気は除湿をすればいい。サラダに入ってるクルトンは柔らかくなる前に食べてしまえばいい。クルトンは存外美味しい。個性コントロールができないのは特訓をすればいい。そうすれば誰に迷惑をかけることも無い。

それでも、やっぱり彼への気持ちを諦めきれない私だけはいつまでたっても好きにも、普通にもなれないでいた。汚れが目立つ窓の外に目をやれば、仄暗い空から水滴が落ちて来た。ああ、雨だ。今日は天気予報で雨だとは言っていなかったはずなのに。折り畳み傘持ってないや。小さく嘆息して、複数の罫線が引かれたノートに目を向けた。
やっぱり急な雨の日は好きになれそうにもなかった。ごうごうと真上にあるクーラーのモーター音だけがクラスを取り巻いていた。雨が本格的に降って来たのだろうか。窓を叩く音がやけに大きくなっていた。


×××


「うわぁ、すっごい雨やね」

窓の外を見て麗日さんがそう呟いた。ハッとして窓の外を見やれば先ほどよりも格段に強くなった雨が地面を打ち付けていた。これは傘がないと濡れてしまう。ぼんやりと窓の外を見つめていたら、ふと肩が叩かれた。

「なまえちゃん、どうしたん?」

ぱたぱたと目の前で手を振られる。麗日さんの大きな目にきゅっと見つめられた。きっと心配をかけてしまったのだろう。彼女は優しいから。大丈夫だとメモ帳に手早く書いて伝えれば、あまり納得してなさそうな彼女がうんうんと唸りだした。しばらくしてパッと顔を上げた麗日さんに肩を揺らした。

「具合悪かったら無理しないでね、あと雨に濡れちゃ駄目だよ」

まるでわたしの思考を見透かしたかの様に言って「また明日」と手を振って教室から出て行ってしまった。彼女は今日も緑谷さんと帰るのだろうか。軽い足取りが、やけに暗い廊下でも明るく見えた。

暫く止みそうにない雨をずっと教室で見ているのも暇なだけだ。時間を無駄にしている気がして、特に行くあてもなく校舎を移動していた。雨空のせいで電気がついているにもかかわらず廊下は普段の数倍は暗かった。気分まで沈んでしまいそうな、そんな空模様にやっぱりため息しか出てこない。食堂にでも行って、何か飲んで時間を潰そうか。そう思い立って私は食堂へと足を向けた。
ぼんやりとした気持ちで階段を下る。隅に埃が溜まっているのを見つけて、今度掃除当番時に掃除をしようと頭の端で思った。自分の上靴が床のタイルを弾く音だけが踊り場に響く。こつん、と私のじゃない少しだけ重い音が後ろから這い寄った。この音は、知っている。

「みょうじじゃないか、まだ残ってたのか」

やけに「まだ」を強調して言ってきた先生に少しだけムッとする。校舎に残っているのは何も私だけじゃないのに。他の生徒だって残っているのに。私だけなんで「まだ」残ってるなの。残っていちゃいけないのか。なにかまずい事情でもあるのか。子供じみた、癇癪だった。口に出すことはしないけれど、確かに私の不機嫌を感じ取った先生が至極面倒そうに頭を掻いた。

「傘忘れたのか?」

決まり悪そうに呟かれた言葉に小さく頷く。先生はただの一教師として私に接してくれているだけだ。他意はない。そんなこと、痛いくらいにわかっていた。教師と生徒。その言葉が縛る立場の壁は何よりも分厚くて、きっと超えられない。頭では理解できたつもりだったのに。

「じゃあ職員室から傘持ってくるから。それで帰れ。もう暗――おい、」

職員室から。そんな言葉は聞きたくなかった。わからない。自分が何を言いたいのか、何を思っているのか。何がしたいのか。なんで泣いているのか。なんでこんなに心臓が痛いのか。

――どうして、こんなにも辛い気持ちを諦めきれないのか。

「……はぁ、こっち来い」

小さく囁かれ、一度だけ腕を引かれた。迷惑を掛けてしまった。その事実だけが、心臓の裏を鋭く刺す。いっそのこと刺し殺してくれた方がいいのに。この気持ちごと。


×××


「なんで泣いてたんだ」

少しだけ埃っぽい空き教室に入ってはや十分が経とうとしていた。いつまでたっても無言の私にしびれを切らした様に先生がそう呟いた。ふるふると首を横に振ってなんでも無いのだと伝えればやっぱりまたため息をつかれた。

「傘、」

ぽつりと私が声を出す。心臓が千切れそうだった。

「かして、ください。かえります」

ゆっくり、一言ひとこと言えばきっと個性は暴発しない。そうわかっているのに。やっぱりこれで誰かを傷つけてしまったらと考えるだけで悍ましかった。

「そんな顔してる女子生徒、帰らせられるわけねェだろ」
「じゃあ、いいです。このまま、かえります」

とにかく早くここから逃げ出したかった。想い人の前で前触れもなく泣いてしまった上、迷惑を掛けている。たまらなく恥ずかしくなって、うつむいて逃げ出す様にして踵を返した。

「お前は何がしたいんだ」

教室のドアに手をかけたところで、ぐんっと体が後ろに引っ張られた。巻きついているのは相澤先生の捕縛武器だ。少しだけ抵抗してみるけれどそんな程度じゃこれには叶うわけもない。大人しくして、また私は先生と向き合った。思いの外、近いその距離に息を呑んだ。充血した目に見つめられて、逸らすことも目を合わせることも出来ずにぎゅ、と目を瞑った。

「おまえなぁ……」

呆れたように息を押し出した相澤先生。ぐ、と近くなったような雰囲気に思わず目を開けてしまう。予想よりも近くにあった顔にぎょっと目を剥いた。

「そんな顔で出てかれても迷惑なんだよ」

迷惑。たしかに、彼の言葉で紡がれたその単語がまるで私を刺し殺すみたいで痛かった。苦しくて、息ができなくなりそうだった。この感覚は、多分溺死に近い。昔、プールの授業で足を攣ったことがあったけれどその時のような感じだ。息を吸おうと思っても、水が入ってくる。苦しくて口を開いては絶え間なく入り込んでくる苦い気持ちに、目を瞑りたくなるような鈍痛。あたまがいたい。のどがいたい。膝が震える。必死で泣かないように唇を噛み締めた。無駄な抵抗心だ。泣いたらダメだとどこか冷静な頭の隅の理性がストップをかけた。

「お前が俺のことを好いていようとなんだっていい。けどな、あからさまな態度は合理的じゃない。妙な噂が立ったら困るのはお前なんだぞ」

正しい言葉が、何度もなんども私を殴った。耳を塞ぎたくなるような正論だった。気づいたら緩んでいた捕縛武器を振りほどいて、教室から弾かれたように出て行っていた。途中何度か人にぶつかったけれどうまく謝れていたのかさえわからなかった。ぐるぐると渦を巻く黒いものが喉元までせり上がってきて、三階の踊り場で嘔吐するような体勢で涙を流した。目を焼き尽くすような雫なのに、頬を伝う時は驚くほど冷たくて思わず笑った。

なにもないのなら、最初から期待なんかしないでいればよかったのに。
こんなにも心臓がちぎれるくらい痛い思いなんて捨てれてしまえれば楽なのに。

暗く光った窓の外は視界の一切を白く染め上げていた。


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