――あれ、なんで私こんなことになっているの。
伸びて来た手をどこか第三者視点で眺めながら、私は目を閉じることすら忘れていた。乱暴に押し付けられた唇が感触を楽しむようにして私のを何度もなんども貪った。上唇を食まれ、下唇を噛まれ、擽ったさと背中を這い上がる妙な疼きに耐えきれず唇を薄く開ける。ぐにぐにとその隙間を押し広げるようにして、相澤先生の舌が割り入ってきた。びくりと揺れる肩も、引ける腰も全部を押さえ込むようにして相澤先生が私を掻き抱いた。にがさない、と言われているみたいで全身が歓喜した。むず痒いような、なんだか酸っぱいものを食べた時みたいに口の端がむずむずした。暫く、彼の舌が私の口内を蹂躙するのを小さな声をあげながら感じていた。ぷは、と離れた唇が薄く濡れていてやけに色っぽくて心臓がうるさくなる。
瞼を一回ゆっくりと下ろしたら、溜まっていた涙が耐えきれず頬を伝った。それを指の腹で優しく拭われる。少しだけカサついた、男の人らしい無骨な指。
ちいさく、ばつが悪そうに「悪い」と呟かれた。何に対しての謝罪か。先ほどのキスか、はたまた今まで全部なのか。その後もなにか、口を開閉させている姿があったけれど都合の悪いことは聞きたくない私は見えない手で耳を塞いでいた。そうするが当然のように、涙をなんども流しながら。
「みょうじ、」
溢れる涙を拭おうと、相澤先生の手が伸びて来た。彼は優しいから、いっそのこと私のことを手酷く扱ってくれればいいのに。イレイザーヘッドでもない、私の元担任教師でもないただ一人の相澤消太という人物は良くも悪くも優しすぎなのだ。ひっついている声帯をなんとか震わせ、嗚咽交じりに名前を呼んだ。
「あい、っざわ、せんせ」
ガランとした部屋には時計の秒針が時を刻む音と私の嗚咽、お互いの呼吸音だけが私たちを取り巻いていた。しんとした空気が肌を刺すようで痛かった。どうするのが最適解なのか。合理的を愛する彼が納得する非合理はなんなのだろうか。きっと彼は優しいから。私のことを傷つけないような合理的手段をいくつも頭の中で考えているのだろう。そのたび、なんども記憶の屑篭に投げ入れて頭を悩ませている。
元教え子、元担任教師。今までの関係に「元」が付いただけで私たちは何ら変わりのない生活を営んで来た。それでも私が彼のことを諦め切れないでいたのは、今まで私を嫌なくらい明るく照らしていた所謂「世間様の目」が無くなったからで。
「みょうじ」
もう一度、私の名前を舌の上でしっかり転がすみたいに呟いた相澤先生の目を見上げた。充血していて、うっすら涙の膜が張っている大好きな目。
「悪かった、どうかしてた」
忘れてくれ、と矢継ぎ早に告げられた謝罪には合理性のかけらもなくって。先日見たテレビのワイドショーが言っていた「女は度胸だ。たまには押して押して押しまくるのもいいだろう」と。正真正銘、ファーストキスだったのだ。初めてのキスはレモンの味だとか、甘酸っぱいだとか幻想を抱いていたけれど突然やって来たファーストキスはレモンでもイチゴでもなくって、愛おしい彼の飲んでいるコーヒーの味だった。先ほどの感覚を思い出し、背筋がぞわりとした。
「今日はもう帰れ」
なんでそんな一世一代の告白みたいに、辛そうな顔をして言うんですか。泣きたいのはこちらです。どうしてあなたが泣きそうな顔をしてるんですか。声をあげて泣き出したいのは私の方なのに。歓喜と、悲哀との二律背反をうまくうけいれることができず、顔を背けた。
わがままを言う子供のように、ふいと顔を背ける。なんだか妙にむしゃくしゃした。勝手にキスをしておいて、悪いと謝罪された。俗に言う魔がさしたというやつなのだろうか。私如きにさされる魔なんてあってたまるか。
「いやです」
しっかりと一音一音丁寧に彼にまっすぐ伝わるように目を見て言った。相澤先生が小さく目を見開いた。けれどすぐに乾燥に耐え切れなくなったのかきゅ、と眉根を寄せるようにして目を細める。その一挙手一投足でさえ愛おしい。お気に入りのワンピースのごと、つい先日相澤先生からもらったネックレスを握った。
「忘れろとか、悪かったとか、帰れとかぜんぶ、聞けません」
だから、と言葉を続けるのが怖くなる。嫌われてしまったらどうしよう。
「わ、たしは、忘れません。いくら相澤さんのお願いでも聞きません。聞きたく、ないです」
「お前、」
「でも、相澤さんは忘れたいのなら忘れて下さい、また明日から、ふつうに接せられるようにがんばります、迷惑かけてすみませんでした」
だんだん自分が何を言いたいのか何を言っているのかがわからなくなって、小さく頭を下げた。もうこの場から、逃げてしまおう。その方がきっと私にとって、相澤先生にとっても良いから。
「、さようなら」
この言葉は酷く冷たいなとやけに冷静な頭の隅で思っていた。「また明日」でも「また今度」でもなくさようなら。まるで今生の別れのような色を持つそれにまた涙が出て来そうになった。
「みょうじ、待て」
しゅるりと伸びて来た相澤先生の腕が立ち上がって歩き出していた私のお腹あたりに巻き付いた。そのままぐっと後ろに引き寄せられる。ふわりと相澤先生の匂いに包まれてやっぱり目頭がつんとした。
「悪かった」
もう一度、謝罪をした先生の腕に自分の手を重ねた。手のひらの大きさも色も何もかもが違っていた。
「お前のこととなると、どうにも合理性に欠ける」
「…………はい」
「この歳になって惚れただのなんだのは非合理的だ。俺はプロヒーローだ」
なんだかんだと私の頭上で言う相澤先生が少しだけ可愛くて、小さく笑みをこぼした。
「笑うな。お前にはもっとふさわしい奴がいるってわかっているが、どうしてもお前の隣に立ってこの先歩いて行くのは俺が良い。お前が立っていられなくなった時、隣で支えてやりたい」
優しく、鼓膜を震わせる相澤先生の告白に堪え切れなくなった涙がぼろぼろと頬を伝って彼の腕に落ちた。
「泣かせてばっかだな」
「せんせいのせいです」
「それもそうか。なぁ、なまえ」
くるりと正面から抱き合わされ、額に唇を落とされる。眉を下げ、目尻にシワを寄せながら相澤先生が微笑んだ。
「随分と遅くなったな。好きだ」
明確な愛の言葉を言われ、頬に一気に血が上った。私もです。そう言いたかったのに、私の言葉はもう一度降ってきた唇の間に吸い込まれて、消えて言った。
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