そいつはあの雨の日にたちまち現れた、魔法使いみたいな奴だった。
*
突然の雨だった。朝はあんなに晴れていたというのに、今では傘を差さずに帰路を駆け抜けるには、些か無理があるほどの強い雨が地面を叩いている。確かに学校を出た時からやけに空が暗いと思ってはいたが、家につくまでに自分が引っ掛かるなんて考えてもみなかった。
十座は仕方なく、近くにあったバス停の屋根の下に逃げ込んでいた。少しの間止むか弱まるかを待って、駄目そうだったら諦めて濡れながら帰ろう。幸い自分は人より体格が良く丈夫であったから、多分風邪を引くこともないだろう。
そんなことを考えながら、濡れて額に張り付いた前髪を掻き分ける。ランドセルの横の隙間から雨が入り込んで、教科書類が濡れているかもしれなかったが、どうでもよく思えた。そういえば、弟の九門は傘を持っているだろうか。一瞬心配になったが、この時間だともう家に帰っているだろうし、そもそも母親が幼稚園まで迎えに行っていることを思い出して安心した。
ぱしゃん、と水の跳ねる音がした。
左に視線を向ける。赤いランドセルを濡らした女子が、二、三人分の間を空けていつの間にか同じ屋根の下にいた。雨粒に濡れてキラキラとしている髪を、気にするように手で弄っている。その濡れた顔はさして怯えている様子も、苛立った様子もない。彼女はスカートのポケットから薄紫のタオルハンカチを取り出すと、雨に打たれた手や腕をぽんぽんと軽く叩いていた。
「…………」
少し考えて、十座は右肩のベルトを握ると顔を俯かせたまま歩き出した。しかし一歩、二歩と進んだところで、彼は今一度足を止めた。
「雨宿りしないの? 風邪引いちゃうよ」
掴まれた腕から、濡れた布越しに他人の熱が伝わる。彼女の行動にも驚いたが、それ以上に小さくてやわらかな手のひらだと思った。九門の手と少し似ている気がした。彼女はさも不思議そうに、少しだけおかしそうに笑っていて、十座の体は魔法にかかったかのように屋根の下へと戻っていった。
変な女だ、と思った。
自分が周りに怖がられているという自覚はあった。他の奴らより頭一つ分飛び出た図体は勿論、無口で無表情で、鋭い目つき。それは治せるものでもなくて、そうしているうちにいつの間にか周囲との間に壁ができていた。それを乗り越えるどころか、壁越しに声を掛けてくる人すらいなかったのに。彼女は易々と、まるでなんてことないかのように十座の腕を掴んだ。
彼女は笑みを湛えたまま、うつ向きがちの十座の顔を覗きこむように少し屈んで見上げてくる。自分とはまるで違う大きな瞳と、視線がかち合った。
「二年のヒョードーくんでしょ?」
大して驚きもしなかった。自分があまりよくない目立ち方をしているのが、他学年にも伝わっていることはなんとなく知っていた。そして彼女の言い方は、恐らく彼女が他学年であることを示していた。
「皆が言ってた。二年のヒョードーには近付くなって。だから怖い子なのかなって思ってたんだけど……」
語調が弱まる。彼女の顔から笑顔が薄れるのを見て、十座は苦々しく視線を背けた。しかし、ぐいっと遠慮なく視界に入ってきたその顔は、次の瞬間弾けるように破顔した。
「ぜんぜん怖くないじゃあん」
ケラケラと、可笑しそうに肩を揺らす彼女。心底楽しそうなその様子に唖然とした。軽やかな笑い声が雨音に負けずに鼓膜を揺らす。曇天の下は暗いはずであったのに、一人分の存在が増えたせいだろうか、先程よりも明るく感じられた。
本当に、変な女だ。
その変な女が一頻り笑って満足したかと思えば、今度はその手をこちらへと差し出した。
「わたし三年のみょうじなまえ。よろしくね」
──よろしく? よろしくって、なんだ?
自分と今後会う機会があるとでもいうのだろうか。男子と女子。怖がられている人間と普通の奴。ましてや他学年同士。
それでも、なまえと名乗る彼女は握手を求めた。幼稚園でもわざわざしたかもわからないその挨拶の仕方は、彼女の異質さを際立たせる。しかし友好的に接してくる彼女を無下にもできなかった。向けられたその白い手に、十座は迷って──体感的には、本当にかなり長い時間迷って──ようやく観念したように手を伸ばした。
なまえはその手を迷いなく握ると、何がそんなに楽しいのかますます笑みを深める。十座が困惑していると、手のひらにごろりと違和感があることに気がついた。
「?」
なまえが手を離し、十座は己の手のひらに視線を落とす。ころん、紫色の包みに入ったあめ玉が、そこに転がっていた。先ほどまでは絶対に無かったし、差し出された手にもこんなものは握られていなかったのに。手品だろうか。魔法みたいに突然現れたあめ玉に、十座は細く鋭い目を丸くした。
「あめは好き?」
にこにこと笑った顔は、否定されると思っていないのか、それとも否定されようが何だろうが気にしないのか。その色はいまいち読めなかったが、少なくともただ張り付けただけの笑みではないことくらいわかっていた。彼女は最初からずっと、何故だか本当に楽しそうだった。わからない。わからなくて、困惑の波が止まない。
なまえは十座の返事を待たずに、また新たなあめ玉をポケットから取り出して包みを破った。同じ紫のそれを口に含み、「先生には内緒にしてね」とほっぺたを膨らましながら口に人差し指を当てる。確かに自分の小学校ではお菓子の持ち込みは禁止であったが、先生に告げ口する気などハナから無かったし、先生ですら自分をどこか遠巻きにしていることを十座はわかってもいた。
「……嫌いじゃない」
素直に返事ができず、声もいつにも増して低いものが出てしまう。またやってしまった、そんなことを思ったが、なまえは「そっか、良かった」とまた朗らかに笑った。彼女の顔から、嬉しそうな笑みが消えることはない。
十座は貰ったあめ玉の包みを破って、それを口に運んだ。舌の上で転がすと、甘いブドウ味がする。好きな味だった。
「やまないねぇ」
「……そうだな」
他学年と接する機会など今までなかったが、俗に言う「先輩」であるからには敬語を使ったほうが良かったのだろうか。しかし彼女は気にする様子もなかったから、十座もそのままでいることにした。
ざあざあ。雨は弱まることを知らず降り続ける。空気も蒸し暑かった。けれど十座は、何故か嫌な気はしなかった。止まない雨に腹を立てることもなかった。口の中のあめ玉が溶け切った頃、なまえはまた口を開いた。
「ヒョードーくん家どっちのほう? 私あっち」
「……俺も」
「ほんと? じゃあさ、途中まで一緒に帰ろうよ。私ね〜なるべく屋根の下通れる道知ってるの。だからもし止まなくても安心だね」
「いや……いい」
「大丈夫だよ〜からかわれたら私がぶっ飛ばしてあげる!」
「ぶっ……」
「あはは、なぁんちゃって!」
「……いや、そうじゃなくて……俺といると……」
「私のこと心配してくれてるんでしょ」
途切れた言葉を、彼女はやや斜めに受け取った。しかし十座は、彼女の言葉によって結局自分がそうであったことを自覚した。そうだ、遠巻きにされてる俺と一緒にいれば、アンタだって周りから変に思われてしまうかもしれない。だから、一緒に帰るなんてしないほうがいいと、そう思った。
「ありがとう。ヒョードーくんやさしいなぁ」
嬉しそうな笑みに、予想もしなかった言葉。十座は返事をすることができなかった。
やさしい、なんて、他人に言われたことがあっただろうか。
弟の九門は自分をいつも好いてくれて、過大評価してくれていたが、血のつながりすらない赤の他人に、しかも出会ってたった数分しか経ってない人間に、そんなことを言われたのは初めてだった。心臓が変に浮いたような、変な心地だ。
「でも大丈夫だよ。ヒョードーくん、そんなに影響力ないよ。だから怖がらなくていいよ」
馬鹿にしているのか、安心させようとしているのか。おかげで喉が変にぐ、と詰まった。だけど本当に、それが嫌だとか腹立たしいとか、そんな気持ちが湧いているわけではなかった。
彼女の言葉はどれもあまりにも真っ直ぐだった。人に気持ちを伝えるのが苦手な十座には、そのすべてがとても輝いているように思えた。
「あ、少し弱まってきたね。今なら走って帰れるかなぁ」
「……そうかもな」
「じゃあさ、競争しようよ! 私に勝てたらもう一個あめ玉あげる!」
「なっ……待っ……そもそもゴールどこだよ!?」
自由気ままに走り出したなまえに、十座も反射的に屋根の下から飛び出してその赤いランドセルを追った。久々に怒鳴ってしまったが、前方の彼女はまるで気にすることなく笑っている。まだ声変わりなんて遠いものの、周りより低い声を大きくしてしまうと、見た目と相まって怖がられることばかりだったのに。本当に、変な奴だ。そしてよく喋る奴だ。よく動く奴だ。十座は、自分のペースがどんどん崩されていくのを感じた。
小さな背中を走って、走って、追いかける。小雨が顔に当たるが煩わしさは感じなかったが、体温が上がって少しだけ額に汗が滲んだ。
運動神経には自信があったが、スタートダッシュが遅れた分なかなか追いつけず、十座は必死に足を動かした。そうして彼女が赤信号に引っかかったところで、ようやくその華奢な肩を後ろから掴んだ。
「はあっ、はあっ……! はぁーっ、はははは、あ〜追いつかれちゃった!」
「ハァ……ハァ……アンタな、ゴールも指定せず競争する奴があるか」
「あれ? 確かに」
「……フッ、なんなんだよ、一体」
あまりにも間の抜けたその顔にそう呟けば、なまえは一瞬目を見張った後にまた笑った。何がそんなに嬉しいのか、未だにわからないけれど、その顔は今日一番の嬉しそうな笑みだった。
なまえはポケットに手を入れると、握り拳を取り出した。それからぐぐぐ、と力を籠め、ぱっと開く。真ん中三本の指先に、例のあめ玉が挟まれる形で二つ現れた。彼女はそれをまた十座に手渡す。
「……ありがとう」
今度は、とても素直に返事ができた。どうして二個もくれたのかはわからなかったが、十座はそれを九門と食べようと思って二つともポケットに仕舞い込んだ。
「青だね。帰ろっか」
「……ああ」
信号が変わって、二人は今度は並んで歩き出す。隣というには少し離れていたが、赤の他人と言うには近い距離だった。依然として小雨はぱらぱらとまばらに降っていたが、雲間からは細く光が差し込んでいて、雨粒を煌めかせていた。
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