「おっ、みょうじ。丁度良かった。これ教室まで運んどいてくれるか」
「え」
丁度トイレから自クラスに向かう帰り道。たまたま廊下で会った担任に声を掛けられたかと思えば、返事をする間もなく大量のノートを持たされた。うわ激重い。目測数十冊。おそらくクラスの人数分に違いない。一番上に乗っていたノートの力強い署名は、隣の席の笹川くんのものだった。
こちらの反応など大して窺いもせず、担任は颯爽と去っていく。想定外の貧乏くじに、彼の背中を見ながらクッと奥歯を噛み締める。教室から一番近いトイレが混んでいたから、わざわざ別の所まで来たわけだけど、大人しく並んで待ってれば良かったと後悔する。
しかしまあ、受け取ってしまったものはもうどうしようもなかった。重いがふらつく程でもなかったし、何より急がないと授業に遅れてしまうような時間と現在地点だったため、私は少々駆け足気味で教室へと急いだ。私は早退はまだしも、遅刻だけは絶対にしたくない、むしろするくらいなら欠席するような人間なのだ。注目されるのも、ましてや悪目立ちなんて絶対に御免だ。まあ私のことなんて誰も大して見てないとは思うけど。
廊下にいる人達の合間を縫い、注意されない程度の速度でひたすら走る。そんな調子で水道の前を通った時、悲劇が起きた。──床が、水に濡れていたのだ。
気づいた時にはもう遅く、そこへ引き寄せられるかのように踏み込む私の右足。当然、上履き裏のゴムがこの状況で滑り止めを利かせてくれるはずもなく。あえなくつるりと滑り、体が右斜め後ろへ傾いた。目の前にあったノートの山が、流れるように崩れていくのをどこか他人事のように見ながら、心臓がバウンドするかのような浮遊感が襲い来る。
「危ねっ!!」
どこかで聞いたような男子の声だった。それが誰のものであったか思い出すよりも先に、体の側面に力強い腕が回され、彼は見事私の体を受け止めてくれた。
バサバサと無惨にもノートが床に散っていく中、助けてくれた人物にちらりと視線を向ける。
「ははっ、間一髪ッスね!」
その顔を見て、まず一度その距離の近さに心臓が跳ねた。1キル。次に体に回された、鍛えられた腕から伝わる人の体温に喉が詰まった。2キル。さらに通りがかった、恐らく彼のことが好きなのであろう女の子たちの「嘘何なんで!?」「は!? 誰今の女!?」という悲しみと困惑のヒソヒソ声に、そっと目を瞑った。オーバーキル。
「……あ、ありがとう、山本くん」
「どーいたしまして、みょうじ先輩」
彼──綱吉の友人の山本くんは、キラキラと爽やかな、太陽の権化みたいな笑顔で私に返答した。ウッ、眩しい。イケメンだ。そりゃ女の子たちにモテるわ分かる。
山本くんは、どうにか体勢を立て直した私から手を離すと、自身も姿勢を直す。綱吉がいない時に会うの初めてだなぁなんて考えつつ、今一度彼に礼を述べて、散らばったノートを拾おうとしたところで、頭をガンと殴られたような衝撃があった。
「あっ……ああ!」
「え? どうしたんスか?」
「うわあああ!」
山本くんの問いに答える余裕もなく、慌ててそれに駆け寄る。やばい、やばい、やばい。誰のかわからないが、先の水溜まりで、ノートが一冊沈黙している。名前の面が下になっていて誰のかわからないが、やばい、どうしよう、これはやばい。
「あっちゃあ〜……ビショビショッスね」
「まずい……」
気付いた山本くんも、私のそばに寄ってそれを覗き見ている。私は恐る恐る手を伸ばし、もう取り返しがつかないほどに浸水しているノートを親指人差し指でつまんだ。そして、苦い顔をしている山本くんに見守られながら、ぽたぽたと滴を落としているそれを意を決して裏返した。
「……!!」
「あれ……これ、」
「っ……かったぁ……!」
「買った?」
「良かった!!」
彼の聞き間違いを訂正する己の声色が明るい。それもそのはず、お亡くなりになられた罪無きノートに書かれた名前は「みょうじなまえ」。何を隠そう、ピンポイントで私のものだったのだ。口から鼻から安堵の息が漏れた。
「えっ? 良かったんスか? むしろアンラッキーじゃ」
「や、だって運んでたのは私だし、私のせいで誰かのノート水浸しにしたなんてことになったらもう申し訳なさすぎて自害するしかない……はぁ〜良かった皆のやつ無事で……」
安心と嬉しさが込み上げる。すごい。運が良すぎる。なんてツイてる日なんだ。今日占い1位だったっけ? まあいいや、ありがたい、ありがたい。そんな調子で喜んでいると、隣からふっと息の漏れる音がして、見れば山本くんが口元を押さえていた。女子とはなんだか些細な仕草も違うなぁ、なんて余計な感想が浮かんだ。
「えっと……?」
「いや、みょうじ先輩面白れーなーって」
「え? いやいや、」
まっさかぁと笑って否定しようとした時。キーン、コーン……と恐怖の音が鳴り響いた。身の毛がぞわりと逆立って、腹の底が、冷水が注がれたみたいに冷たくなる。くらり、目眩さえしたような気がした。
「──……」
「あちゃ、チャイム鳴っちゃいましたね……あれ? みょうじ先輩? 大丈夫ッスか?」
「……私次の授業休もうかな」
「はははっなんでそうなるんスか」
山本くんは冗談と受け取ったようで笑っていたが、私は本気だった。マジだった。きっと、他の人からしたらくだらないって一蹴されるのだろうけど、私にとっては本当に大問題だった。本当に、遅れて教室に入るということが恐怖で仕方がないのだ。すべての視線が、冷たくこちらに向くような気がして。「あ、みょうじさん遅刻したんだ……」と認識されるのが怖くて。皆そこまで私のことなんて見てないのに。遅刻だって犯罪ほどの悪いことでもないし、そもそも悪気があって遅れたわけでもないのに。シンとした教室の沈黙を破って入るのが、嫌で嫌で仕方がなくて。
いいなぁ、山本くんはきっと「すんませーん遅れました!」なんて笑いながら教室に入れるタイプの人だ。周りもちょっと笑いながら、先生もきっと「コラッ早く席につけ」って軽く言って、すぐに教室は安定した空気に戻るに違いない。すごいなぁ、羨ましいなぁ。
「みょうじ先輩? 大丈夫ッスか?」
「……あ、だ、大丈夫大丈夫!」
「顔色悪いッスけど……」
ああ、情けない。たったこれしきのことで、こんなにびくびくするなんて、本当に恥ずかしい。後輩にこんな姿見られたくない、不安を気取られたくない。
「ほらほら、山本くんも早く教室戻って。ごめんね、私のせいで遅刻させちゃって」
「や、別に先輩のせいじゃないッスよ。あ、拾うの手伝います」
「いいから! ほらっ、戻った戻った! 今度ジュースかなんか奢るね!」
水濡れノートを持ってない方の手で、ぐいぐいと彼の広い背中を押す。強引に帰らせようとすれば、山本は少し困ったように眉をしかめながらも、「あざっす、じゃあ、また」と苦笑いで自クラスのほうに向かって歩き出した。
山本くんの背から視線を外して、死したマイノートを一度床の乾いたところに置いてから散らばったノートを拾い始める。耳の奥の、チャイムの余韻が消えない。ああ、どうしよう、どうしよう。遅れて入るの嫌だなぁ。本当にサボってしまおうか。でも、この大量のノートを抱えたままトイレで一時間過ごすのも、保健室に行くのも憚られる。本当にどうしよう、もうこれ全部ほっぽって家に帰りたい……無かったことにしたい……。
すべて拾い集めるも、立ち上がる気力もなく、膝にノートの束を抱えてしゃがみこんだまま。俯いて、身を守るように背中を丸める。こんなんじゃ防御力はゼロだし、第一敵もいないけど。私にとっては完全詰みであるこの状況に、どう太刀打ちすればいいかわからなかった。
ふと、上履きが擦れる音が近付いてくる。やば、どかなきゃ。というか声かけられたらどうしよう。そんなことを考えながら慌てて立ち上がろうとするより早く、背中に暖かいなにかが触れた。
「先輩、もしかして具合悪いんじゃないスか?」
「や、まもとくん」
先に教室に戻ったはずの山本くんが、隣にいる。なんてことだろう、彼は私の様子が気になって引き返してくれたらしかった。
彼は私の隣にしゃがみこんで、心配そうに眉を下げてこちらを覗きこんでいる。申し訳なさで居たたまれない。ごめん、体は物凄く健康なんです。そして、ありがたいけど勘弁してほしい。今、労るように背中をさすられたりしたら、うっかり泣きそうになる。いや、本当、絶対泣かないけど。
山本くんは少し考えてから、なんの抵抗もなく私の額に大きな手のひらを当てる。ウッ年下相手とはいえ流石にちょっと恥ずかしい。男の子の手だからだろうか、少し硬くてかさついてる気がした。「熱はないみたいッスね……」そうだよごめんね本当に具合は悪くなくて!
ああ、情けなさすぎて死にたくなってきた。後輩にこんなことで心配なんかかけて、情けない、申し訳ない。変わりたい。こんな些末な、くだらないことに悩まないような、しっかりしたかっこいい人になりたい。
「……ありがとう、ちょっと重くて、立つのが億劫だっただけだよ」
そうだ。こんなことでうだうだしてたら、一生しっかりした人になんてなれない。自分騙して、大丈夫って思って、勢いつけてやればきっと大丈夫。何より、後輩に余計な心配はもう掛けたくない。
私は足に力を込めて立ち上がると、「大丈夫」を主張するように笑みを作った。それを見た山本くんも、呼応するように笑顔を見せてくれる。
「そッスか! なら良かったッス。じゃ、行きましょ」
「え?」
「後輩はこういう時にこき使うもんッスよ」
山本くんは、ノートの山から半分……いや、三分の二くらいをひょいと取って、そのまま歩き出した。私は慌てて、少なくなったノート群を小脇に抱え直し、空いた手で水浸しのノートを拾って彼の横につく。
「……ごめんね、ありがとう。助かる」
「へへっ気にしないでください。ツナのねーちゃんみたいな人に頼られるの嬉しいんで」
そう言う山本くんは、ちっとも迷惑そうではない。どこか楽しそうで、本当に気の良い笑みだ。山本くん、優しいなあ。綱吉にこんな素敵な友だちができて、本当に嬉しいし、良かったって思う。
「先生に何か言われたら、二年のみょうじに手伝わされてた! って言っちゃってね」
「ははっ、了解ッス。そういやみょうじ先輩、そのノートどうするんスか?」
「んー……まあ、乾かして、新しいノートに書き写そうかなぁ。この授業ノート提出あるし」
「はぁ〜……お疲れさまです」
「このまま使ってもいいっちゃいいんだけどね、一回濡れるとベキベキになっちゃうし」
「あ〜っわかります! 小学生の頃、傘忘れて帰ったらランドセルの脇から浸水してて、年度変わるまでベッコベコの教科書使ってました」
「あっははは! それは大変だったね」
しんとした廊下を二人でお喋りしながら並んで歩く。一歩ずつ進む度に教室が近付いてくるけど、先程の不安はそこまでなかった。隣に山本くんがいるおかげに違いない。すごいなぁ、山本くんは。
ほどなくして、自クラスの前にたどり着く。中では授業中なので、小声で「ありがとね、手伝ってくれて。本当に助かりました」とお礼を述べた。それから左指の数本を水濡れノートを挟むのに割き、残った指と反対の手で上手いことノートの束を抱えて見せる。そこに山本くんが、運んでくれた残りのノートをゆっくり乗せた。
「困った時はお互い様ッスよ、先輩」
「うん。それじゃあ、またね」
「ッス!」
山本くんは長い足で踵を返して、軽い足取りで自分の教室に向かう。私は私で、一度深呼吸してから扉に向き合った。第一声は「すみません、先生に頼まれ事して遅れました」だ。大丈夫大丈夫、普段の真面目貯金があるから、きっと深く突っ込まれることなんてない。そして意を決して扉を開けようと思って──
「……やばっ両手空いてない!」
うっかり大きめの声で呟いてしまい、それを聞いた先生が怪訝そうな顔で扉を開けてやっぱり死にたくなったけど、一拍あけて先生と数人の生徒が笑ってくれて、すんなり教室に入れたので、まあ、結果オーライということで。
back
topへ |