「テメー調子に乗ってんじゃねえぞ」
男の靴が僕の腹に突き刺さる。これで三度目。痣になっていなければいいけど。程度によっては、銭湯へ行くのを憚られるからなあ。なんて、呑気に考えた。
原因はどうやら、僕がこの男の彼女と仲良くお喋りしていたところにあるらしかった。つまるところ、彼女に僕のほうが良いからとフラれたらしい。ぶっちゃけ言ってしまえば、僕は持ち前の女子力から恋愛対象というよりは同性の友達感覚で女子に接せられることが多かった。今回も、その延長線のような気がする。だからつまり僕がきみの彼女を取ったわけじゃなくて、きみみたいな粗暴な野郎よりかは僕のほうがマシだったというだけだろう。それなのに、どうして僕がこんな目に遭わなければならないんだ。そもそも、きみの彼女にだって落ち度あるわけだし。そんなにぽんぽん乗り換えてさあ。やっぱり付き合うなら、一途で清純派な女の子が良いな。これって望みが高いのかなあ。そうだよね。じゃなければ僕はとっくに童貞を卒業しているに違いない。下手に理想ばかり並べるから、この世には「彼女欲しい」「彼氏欲しい」とのたうち回る男女がごまんといるにも関わらずなかなかカップルが成立しないんだ。そう、僕たち童貞に必要なのは妥協することなのだ。
半ば現実逃避のように思考を飛ばしていると、無抵抗の僕に飽きたのか気が晴れたのか、男は何か捨て台詞を吐いて立ち去った。ああ、ようやくどっか言ってくれた。何が悲しくて貴重な放課後を野郎と過ごさなければならないんだ。反吐が出そうだった。
さて、早いところ僕も退散しよう。そう思い足に力を込めるがなかなか立ち上がれない。思ったより腹へのダメージが大きかったみたいだった。ずきずきと鈍い痛みを訴えている。うーん、困ったなあ。保健室は遠いし、そもそもそんなことをすれば話が大きくならないとも限らない。それは面倒だ。
さてどうしたものかと首を捻っていると、じゃり、と控えめに土を踏む音が耳に届いた。
「……松野くん?」
小さく呟かれた僕の名字。首だけ動かしてそちらを見れば、そこには大きく目を見開いたクラスメイトの女子が立っていた。
「みょうじさん」
「喧嘩?」青ざめて訊ねてくるみょうじさんを「ちょっとね」とだけ言って躱す。別に言ったところでどうにかなるわけでもないし。まあ、同情を買って心配して貰えるかもしれないけれど、それは男としてちょっと情けないからね。
大丈夫だよ、気にしないでと彼女に笑いかける。しかしみょうじさんは、僕の前まで歩み寄るとしゃがんで視線を合わせてきた。
「だ…大丈夫?立てる?保健室行く?」
「え、いや、だから本当大丈夫だよ。ごめんね、変なところ見せちゃって」
「大丈夫じゃないよ。松野くん、多分自分で思ってるより顔色悪いし」
「え、そ、そう?」
「鏡見る?」
「…いや、それは大丈夫、ありがとう」
みょうじさんの申し出を丁重にお断りし、僕は改めて自分の様子を思い出す。うん、たしかにこれは酷い。土の上に座り込んでしまっているから制服は汚れているし、髪もボサついているに違いない。顔も一発殴られたから、腫れているのかも。ああ、いやだなあ。僕のキュートなルックスが台無しじゃないか、どうしてくれるんだあの野郎。今度仕返しに、前に女友達から聞いたあいつの粗相を垂れ流してやろう。そうすりゃ、そのうち尾ひれがついて収集がつかない事になる。はあ、女の子というのは、どうしてこんなに噂が好きなんだろうね…わかるよ、僕も好き。
ふう、と息をつくと、目の前に白い手が下りてきた。僕なんかよりずっと小さくて、やわっこそうな、女の子の手。いつまでたっても立ち上がろうとしない僕を見かねて、手を貸してくれたということなんだろう。ただ、その手を取るまでに少しばかり時間が掛かってしまったのは仕方がない。僕はクズな兄たちのせい(と、思いたい)で、彼女が全然できないし、できたとしても数日ともたない。いくら僕が女の子と仲が良いとは言えど、付き合ってなければそうそうスキンシップなんて図るものでもなく。手をつなぐ…といっても引っ張り上げる為の一瞬だけど、それに少なからずも動揺しないわけがなかったのだ。
それでも、童貞力カンストなうちの三男と一緒にされては困るし、そもそもチョロ松兄さんと僕じゃ全然違うし、なるべく不自然な間が空かないうちに有り難くその手を掴ませてもらった。見た目通り小さくて想像通りやわらかくて、なんで野郎の手と女の子の手はこんなにも違うのだろうと不思議なくらいだった。ただ迂闊なことに、先程地面に手をついて汚れてしまっていたことをすっかり忘れていた。それでもみょうじさんは、嫌な顔一つしなかった。あ、この子近年稀に見るいい子だ。ちなみに僕は人を見る目はなかなかにあると思っているから、彼女が見返りやらを求めていい人ぶってるなんてことは無いのは分かった。
「よっ……と。ありがとねみょうじさん。今日はツイてないって思ったけど、こうやってみょうじさんに心配して貰えるなんて嬉しいなあ」
「あっはは、なにそれ〜」
「えっ笑うとこ?」
「心配と言えば、他の松野くんたちも心配しちゃうね」
「え、なんで?」
「え?」
「え?」
僕たちの間に、妙に気まずい沈黙が訪れた。お互いに困惑したように固まる。木々が風に揺れる音や、遠くから聞こえる生徒たちの声がやけに鮮明に耳に入り込んできた。あ、こんなにまじまじと見るのは初めてだけど、みょうじさんって全然化粧っ気がないんだ。でも、まったく容姿に気を遣ってないわけではなさそうだ。髪の毛もちゃんと整っているし、そういえばさっき差し伸べられた手も、綺麗なを爪をしていた。勿論、マニキュアも塗っていなかったけど。そんな風にふわふわと場違いなことを考えていると、みょうじさんが先に口を開いた。
「……他の松野くんたちに言わないの?」
「え?いや、だって、興味ないかなあと思って」
「ええ……そうかなー」
「そうかな」?え、それこそ「そうかな」だよ。だって、あの兄さんたちだよ?たかが兄弟一人が怪我したところで、興味なんて示さないでしょ。そんなこと言っても、みょうじさんがあの曲者揃いの兄さんたちを深く理解できているとは思えないから、心の中でだけ。
「私姉じゃないから分からないけど、私だったら、弟とか妹が怪我したら言ってほしいと思うよ」
「そっかぁ」
「もし、松野くんに弟か妹がいたらどうよ?」
「うーん…………あはは、分からないかな。僕はどう足掻いたって末っ子だから」
「そっかあ、そういうもんかあ……」
また、あまり居心地の良くない沈黙が起こる。うーん、僕は話すのが得意だし我ながら気も回せると自負しているから、こうやってどうしようもない気まずい時間が訪れるなんて滅多にないんだけど…と思っていたら、すぐにまた、みょうじさんのほうが先に沈黙を破ってきた。
「あのさ、ごめんね」
脈絡なく唐突に謝られ、戸惑った。はて、彼女は何について謝っているのか。さっきの会話についてか。いや、とくに謝られる要素なんてなかった気がする。それじゃあ、よくありそうな「私がもっと早くここを通れば、先生を呼べたからそんなに怪我することも無かったかもしれないのに」とかだろうか。もしそうだったら、少し、綺麗事染みているというか、押しつけがましい親切心だと思った。彼女の手を借りておいて何だけど。だって、僕が暴力を振られていたことに、みょうじさんは一ミリも関係がないのだから。謝ることなど一つもないのだ。そこで自分を落としてそんなこと言われたら、僕はそんなことないよとか、むしろありがとうねとか、そう言うしかなくなるじゃないか。いや、別に言うけどね。
しかし、彼女の口から出た言葉は予想とは少し違っていて、僕は思わず目を丸くした。
「さっきさ。本当は、誰かが殴られてるなって、分かってたっていうか、聞こえてたんだけど。じゃないと、あんなタイミングで出てこれないし」
「え」
「分かってたんだけど、怖くて動けなかったし、もし私が誰か呼んだことあの男子にバレたらどうしようって思っちゃって。だから、ごめん」
「え、えー…みょうじさん素直なんだね」
「……そうかも」
「言わなければ、僕が知ることも無かったのに」
正直、なんて返せばいいのか少し迷った。こんなに赤裸々に話されてしまうと、それを咎める気にもなれないし、というかそもそも僕は彼女について怒りを覚えたりなんてしていない。だって、普通に考えたらそうなるだろうから。自分が助けたことによって、今度はこちらが目をつけられたら堪ったもんじゃないし。それに元々大事にならないように抵抗しなかったんだから。どうせ後で、安全な方法で報復してやろうって考えてたし。というかまあ、僕は喧嘩が得意なわけではないから勝てるとも思ってなかったけど。
「……だからかなぁ。言わなきゃそれまでで終わっちゃうし」
だから、こんなことを言われていよいよ本当にわけがわからなくなってしまった。核心をつかない、遠回しな口ぶり。あれ、この子こんなに不思議ちゃんだったっけ?そう思ったのがみょうじさんにも伝わってしまったらしく、あ、いや、違くて、と、しどろもどろに弁解を始めた。
「いや、あの、松野くんが言わないなら、それで怪我が治ったらさ。あんな嫌な男がいたことも、それで松野くんが怪我したこともなくなっちゃうじゃん」
「うん。別に良くない?」
「いやでも、それじゃ誰も知らないまま終わっちゃうし、私が知ってたってことを松野くんが知らないままになっちゃうっていうか……あー…なんていうか……」
言いたいことが上手く纏まらないらしく、うんうんと唸る。しばらくして、ぽつりと小さく呟いたが、僕がそれに反応する間もなくすぐにぱっと顔を上げ、困ったようにへにゃりと表情を崩した。
「あはは、ごめん、自分でも何言ってんのか分からなくなっちゃった」
「え、でも」
「それじゃあね松野くん、気をつけて。保健室じゃなくても帰ってからでもいいから、ちゃんと消毒して手当てしてね。また明日」
「え、あ、うん、ありがとうみょうじさん……」
一気に捲し立てたみょうじさんは、鞄を肩に掛け直すと忙しなく走り去っていった。その小さな背中を見送りながら、僕はというと、先程彼女が呟いた言葉を何度も反芻していた。うーん、分からない。度々兄さんたちからドライモンスターなどと揶揄されるが、そんなに心が渇いているのだろうか、僕は。ほんとに分からない。
けど、分からないけど、なんとなく、少しだけ。彼女は僕の心に、引っかかりを残していった。
『……なんていうか、寂しいじゃん』
彼女がどうして、何についてそう思ったのかは分からない。ただ、去り際、手を振りながらみょうじさんがやけに寂しそうな顔を見せたものだから。それが、どうやら僕のせいであるらしいから。そして、その顔に少しだけ心が痛んだから。
そんな気は本当に全然無かったけど、仕方ないから。とりあえず、帰ったら兄さんたちに今日のことを話そうって、そう思えた。
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