!「碧落に星」浅月さん宅夢主、五月雨天くんと共演させて頂いてます
3日前に完全な梅雨入りが発表されてから、今日までずっと静かに雨は降り続けている。おかげで校舎の中にいてもまだ雨音が耳に残っているような気がした。
「は?天が来てない?」
昼休み、南沢を訪ねて来たのはサッカー部の月島だ。確か天と同じクラスで、三日月のように流れた前髪が特徴的だ。
「担任にも欠席の連絡が入っていないらしい。南沢、何か聞いてないか」
「いや、今日は別に……」
涼やかな声でそう尋ねられ、南沢は眉を寄せながら携帯を取り出す。因みにサッカー部の中で南沢のことを「先輩」と敬称をつけて呼ぶのは天だけだ。他の奴らは学年が下でも南沢、と呼び捨てる。転校してきて暫く経つが、部の面々が南沢に敬称をつける気配はなく、生意気な奴らだと思いつつも南沢はそれを享受していた。何よりも自分を先輩と呼ぶ天こそが他の誰よりも生意気なのだから、呼び捨てくらい可愛いものだろう。
その天が学校を無断欠席するなど普通に考えればあり得ない。
南沢はアドレス帳から天のものを見つけ彼の携帯に電話を掛けてみるが、呼び出し音が鳴り続けるだけで一向に出る気配がなく、諦めて切った。
あの天が学校を無断で欠席などするだろうか。いや、まずあり得ないと南沢は考える。天は本性こそ腹黒く策士であるが、それ故に学校内では紳士的な優等生でやり過ごしていた。それなのに無断欠席などしたら周囲からの注目を集めることになるし、教師陣からの信用だって危うくなる。第一、天は他人に心配されるようなことはしないだろう。確信はないがそういうやつだと南沢は思っている。
(だとすると、何かあったか?)
仮に具合が悪くて欠席しているとして、連絡も出来ないほどに体調を崩しているのだろうか。だとしても舞風がいる。彼女なら然るべき手段で学校に連絡がいくようにするだろう。それならば、あの双子に何かあった可能性もある。
南沢は暫し逡巡した後、携帯を弄るふりをして、平静を装って言葉を紡ぎ出す。
「……あー、メール来てたわ。風邪引いて寝込んでるってよ。喉痛めて声出せねえから電話もできねえみたいだな」
「む、そうか。連絡が取れているならいい。担任にも伝えておく」
「悪いな」
「いや、邪魔したな」
踵を返し教室を出ていく月島を見送って、南沢はもう一度心の中で悪いなと呟く。携帯のメール画面を見るが、今日の着信件数は0。天からのメールなどきていない。
(あいつのことだろうから何かあったとして周りに騒がられるの嫌がるだろうし、他の奴らを変に不安にさせるよりはいいだろ)
南沢は再びアドレス帳を開き、画面をスクロールしていく。誰に連絡を取るべきか少し悩み、天の姿を思い浮かべると雨の似合わない金色を思い出した南沢は、『倉間』と入力されたデータを選び、電話を掛けた。
耳に当てると呼び出し音が鳴り始める。1回、2回、3回……4回目が鳴った直後に、プッと切られた音がして、代わりに『もしもし?南沢さん?』という幼さの残る声が聴こえてきた。
「よお、久し振りだな」
『お久し振りです。……え、どうしたんすか急に』
「あー……、お前さ、みょうじの連絡先知ってるか?」
『は?みょうじ?』
携帯の向こうから怪訝そうな声が聴こえて、倉間の眉を寄せる顔が想像できる。微かに「倉間ー?どしたのー?」と気の抜けるような声が入った。多分浜野だろう。教室にいるのか、ガヤガヤとした音と共に雨音が混じっている気がする。雷門の方でも雨が降っているのか、それとも耳に残った雨音なのか、南沢にはわからなかった。
『いや、知らねーっすけど……え?みょうじですよね?あの』
「おー、お前が考えてるあのみょうじだよ。知らねーのかよ、使えねーな」
『ああっ!?あんた急にかけてきて何なんだよ!』
怒鳴り声に思わず携帯から耳を離す。声でけーんだよあいつ。と顔を顰めながらもう一度携帯を耳につけた。
「じゃあ悪いけどみょうじの連絡先調べてメールしてくれよ。今日中な、部活前にはわかんだろ」
『は!?なんで俺が……!!』
「剣城に聞けば一発だろ?頼むな」
『ちょっと!南沢さ』
半ば強引に通話を切る。パチンと携帯を閉じると同時に予鈴が鳴った。次の授業は国語だったかと黒板横に貼られた時間割を見ながら机の上に教材を出していく。ふと窓の外に目をやればまだ雨は降り続いていて、あの馬鹿はどこで何をしているのかと、ざわつく胸を押し殺した。
▽△▽
カツカツとチョークが黒板をなぞる音がしていた。依然雨は降り続いたままで、南沢は頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
どんよりとした雲は厚く、ここ暫くは青空を拝めそうにない。部活も、月山には室内グラウンドがないので筋トレやミーティングばかりだ。
五月雨 天は、南沢の2つ下の学年、つまりは月山国光中1年に在籍する男子生徒だ。南沢よりも少し後に転校してきた彼は、サッカー部に入部し、瞬く間にレギュラーまでのし上がった。
中性的な顔立ちは、作り物のように整っている。同じ場所に立っている筈なのに、彼には薄い膜でもあるように、天の周りは色を変えて見せる。碧い髪は艶やかで、空色の瞳は澄んでいるようで、ただ底のない水面にも似ていた。
穏やかで紳士的な面を見せる反面、策士で悪戯好きな面もある。
天は南沢の知ってる人間の中でも特に聡い少年であると思う。
人を動かす術を、良くも悪くも知っている。知っているから、時折酷く不安になるような行動に出る。それが南沢は嫌で仕方ないし、そういう面が南沢にとって天の気に入らない部分でもあった。
カツリとチョークが黒板に押し付けられ、音が止まる。南沢は視線を黒板に戻した。
「五月雨とは、陰暦5月に降る水垂れの意味です。陰暦5月は陽暦で言う6月で……まあちょうど今の時期に降る長雨、つまり梅雨ですね」
国語教師の60代の男性は、ゆっくりとそう話し出す。授業はわかりやすくて人気もあるが、授業内容から脱線した話が長くなることでも有名だ。丸まった背中と、目尻にいくつも刻まれたしわが教師の印象を柔らかくしているように思う。低く厚みのある声は雨音と相まって心地よい。
「しかし梅雨はその時期を含めて言うのに対し、五月雨は雨そのものを指します」
天を語る上で、忘れてはいけない存在がいる。
舞風 空。天とは一卵性の双子で、僅かな差で天の姉となった少女だ。
雷門中に通う1年生、サッカー部に所属している。一卵性というだけあって、2人の容姿はよく似ていた。最初の頃は見分けがつかなかったが、今はそれほどまででもない。舞風の方は無表情でいることが多いし、天は笑っていることの方が多い。
舞風と言う存在を、天はこれでもかという程に大事にしている。
壊れてしまわないように、壊されてしまわないように、汚されないように、綺麗なままでいられるように。彼女の為ならきっと天は簡単に色んなものを手放す。そんな気がしているし、実際そうなのだろう。舞風は天にとっての唯一なのだ。
「また、五月雨の『さ』は五月の『さ』とも、早苗の『さ』とも言われます。この時期の雨は農民にとっては田植えに欠かせないものであり、多くの人にとっても稲の出来は政治や経済に関わってくることがありました」
天はよく笑う。よく笑うように努めている。そんな風に感じる。
笑顔が他人を動かすのにどれだけ有力な方法か、多分天はよくわかっているのだろう。だから天は笑っていることの方が多いし、それ以外の表情を見せることが少ない。
ただ、時折、
「つまり五月雨は、慈雨でもあるのです」
影のかかったような、それこそまるで今日の空のように酷く暗い目をすることを、南沢は知っていた。
『いつかかってくるかと待ち構えてましたぜ、リバースカード先輩』
電話越しの声は淡々としていたが、向けられている言葉に南沢は眉を寄せた。携帯を耳に当て、傘立ての中に立てられた色とりどりの傘から無色透明の安っぽいビニール傘を探す。
「お前その呼び方やめろよ。意味わかんねえ」
『おや先輩カードゲームは嗜まないんで?』
頼んでいた内容のメールが、放課後確認すると送られていた。文面は不満ありげな様子だったが、今度会う時にでもそれとなく倉間に謝っておこう。
そこからなまえに電話を掛けると、すぐに繋がった。恐らく倉間から話がいっていたのだろう。
『してこの私に何用ですかな?まあ何となく察してはおりますけども』
「今日舞風いたか?」
『舞風さん?』
意外そうな声が返ってきて、すぐに『普通にいましたぜ。変わった様子もなかったです』という言葉が続いた。南沢は傘を開き、雨の中に足を踏み出し考える。
(舞風に変わった様子がないなら2人して何かをしてる線は薄れるか……?もしあいつが舞風にも隠れて何かしてるなら舞風から聞くのもな……)
風が吹き始めて、南沢は傘を少し傾ける。電話の向こうから『先輩?』とこちらの様子を窺うように声を掛けられてハッとした。
「ああ、悪い」
『いーえー』
「……お前さ」
『はい』
「天から何か聞いてるか?」
『五月雨氏?』
もしかしたら、自分が何も知らなくてもなまえには何かを話しているかもしれない。もしくは自分が気付けなかっただけで、天の変化になまえは気付いていたかもしれないと探りを入れる。なまえの反応を逃さぬように耳を澄ませた。
『五月雨氏とは今月に入ってから会ってませんなあ。そろそろアイスでも食べに誘おうと思ってるんですけど』
「……そうか、変なこと聞いて悪かったな。用はそれだけだから切っていいぞ」
『いやいや、いやいやいや先輩、ここまでしといてそれはないでしょう』
「あ?」
そのまま通話を切ろうとすると、僅かに含みのある、若干小馬鹿にされたような声色に南沢は苛立ちを隠さずに返事をした。なまえは落ち着いたトーンで話し出す。
『五月雨氏に何かあったんでしょう?わざわざ私に連絡して舞風さんの様子を聞いたりするってのはそういうことでしょ』
「……お前は、鬱陶しくなるくらい鋭いな」
『お褒めに預かり光栄ですん』
呆れにも似た笑みが零れる。呆れでも侮蔑でも嫌悪でも、自然と笑みが零れるうちはきっと大丈夫なのだろう。でも、だから心配になるのだ。きっともう染みついてしまった、誰よりも綺麗な笑顔で笑うあいつは、今もちゃんと笑えているのかと、馬鹿みたいに心配になる。
ピチャリと雨水が跳ねてズボンの裾が湿る。まだ雨はやみそうになく、雲は厚く空を覆う。こんな日が続くと気が滅入りそうになる。こんな日が続くから馬鹿みたいな心配をしてしまうのだ。
きっとあの碧を見れば、この目に映せれば、この馬鹿げた思考も嘘みたいに消えて無くなる筈だからと、自分に言い聞かせる。それから南沢は意を決したように、静かに、けどしっかりと一呼吸分の息を吸い込んだ。
「――今朝から天と連絡が取れない」
▲▼▲
今や古巣となりつつある雷門の校門の前、爽やかなレモンイエローの傘の下に雨の中でも目の覚めるような金髪が見えた。
「よお、待たせたな」
南沢がビニール傘を片手に言うと、金髪が揺れて、眼鏡の薄いレンズ越しに金色の瞳が彼を捉えた。
「なんかそれデートの台詞っぽいっすなあ。今来たとこだよダーリンとか言います?」
「心底いらねえ」
真顔で言うなまえに、南沢はこれでもかと言うほど眉間にしわを刻む。南沢が歩き出すと、なまえもそれに合わせて足を踏み出した。ピチャリと雨水が跳ね返る。
「悪かったな、急に――おい待て、傘に入ってくんな!」
「折角だから相合傘しましょうや先輩」
なまえは何食わぬ顔で自分の傘を閉じて当たり前のように南沢の傘に入ってくる。南沢は傘を上げてなまえを押し出そうとするがなまえも負けじと傘の中に入ろうとする。
「ふっざけんな!出ろ!」
「ちょっと押さないで、濡れます」
「自分の傘差せばいいだろ!」
「え〜先輩ってばケチですなあ。いいじゃないすか」
「何もよくねえよ!」
「近い方が、話しやすいでしょ」
ほんの少しだけ色を変えたなまえの声に、押し出そうとしていた手を止めて、南沢はなまえを見た。金色の瞳が真っ直ぐに自分を見ている。
話しやすい、そうかもしれない。傘は意外と邪魔になる。けど、南沢は傘があった方が、お互いの傘がぶつからない程度に離れた距離の方が、このことは話しやすい。聞こえやすいだとか、物理的なことではない。心情的な意味で、離れていた方が話しやすい。
南沢は目を逸らし、わかりやすい舌打ちを1つしてから、手を降ろして止めていた足を動かした。なまえも「あざーす」と言いながら同じ傘の中を歩いた。
傘を必要以上になまえ側へ傾けるようなことを南沢はしない。自分を優先するようなこともしない。互いの肩を少しずつ雨に濡らす。そのくらいが多分ちょうどいい気がしていた。
離れていた方が話しやすいと思うのは本音だ。なまえと2人で天の話をするなら、少し距離を空けておきたいという思いがある。
理由を上手く説明はできない。けど多分、なまえと天の話をすると、余計なことまで認めてしまいそうになる。それこそまだ自分が認めていないような感情や思考を、認めざるを得ない発言をしてしまいそうで嫌なのだ。或いは自分が気付けていないものを突きつけられてしまいそうで。
なまえは淡々とした、それでいて貫くような目でこちらを見てくる。
だから傘で少し顔を隠して、雨で隔てた会話がちょうどいいのだ。
「それで、五月雨氏どうしたんです?」
「それがわかんねえからお前に連絡したんだろ。取り敢えず家行ってみる。舞風は部活だろ?」
「はい、京ちゃんに部活があるか確認済みです。褒めてくれてもいいですよ」
「誰が褒めるか馬鹿」
天が何かを周囲に隠してやっているのなら、当然雷門の面々にも知られない方がいい。多分事が大きくなるし、ややこしくもなる。何より天は嫌がるだろう。
「心配ですなあ、五月雨氏」
さらりと、まるで雨が降るのと同じくらい自然になまえが言った。
感情の読み取れない表情と声色で、でもこれは本音なのだろうと何となく南沢はそう思う。
みょうじ なまえは雷門中に通う1年だ。最初はシードとしてサッカー部に入った剣城の幼馴染だと言う彼女は、どういうわけか天と仲がいい。
2人を繋ぐ何かを南沢は知らないし、多分知る必要もないのだろうと思う。けど雷門を転校した南沢となまえを繋げているのはきっと天だ。ほんの少し言葉を交えて、もう関わることもないだろうと思っていた彼女と今同じ傘の下にいるのは間違いなく天のせいなのだろう。
南沢は少し、そうすることが決められていたように視線を落とした。それから雨音にも負けてしまいそうなほどに小さな声で、先程のなまえの言葉に「そうだな」と返した。
幾らか雨が小降りになって、ボタボタと傘を鳴らしていた雫は細い線のようなものに変わった。霧雨に変わると同時に、風が強くなったように思う。
道沿いに植えられた街路樹が風に吹かれて激しく揺れ鳴いている。
不安を掻き立てられるような音で、南沢は無意識に眉間にしわを寄せていた。
ふと気付くと、なまえが数歩後ろで立ち止まっていた。
人の傘に無理やり入っておいて何をしてるんだこいつはと、若干苛つきながら南沢は来た道を数歩戻る。
「おい、何してんだよ」
返事はない。なまえは車道を挟んだ向こうの歩道を見ている。その目には微かな動揺が見れて、濡れるのも気にしていないようだった。
その変化に、南沢は傘を傾けながら、訝しげに眉を顰めてなまえの視線を辿る。
「先輩、あれ」
なまえはただ一点を見つめていた。なまえが映すものを南沢が捉えた時、目を見開いて一瞬息を止める。
傘を差した人が行き交う歩道の中を、傘もささずに早足で進む人がいた。
それはよく見知った――否、2人が探していた人物であった。
「天……!?」
「五月雨氏……!」
2人がそれぞれに驚きを滲ませた声で彼の名前を口にする。
天は傘も差さずに人を縫うようにして早足で進んでいく彼は、何かに焦っているようにも、追われているようにも見えた。
「あいつこんなとこで何して……!って、おいみょうじ!?」
「追いかけましょう、先輩早く!」
パシャンと水溜りを気にせずに駆け出したなまえの後に続いて南沢も駆け出す。なまえの、雨に濡れて更に輝く金髪を逃さないように、更にその奥にあるのだろう碧を見失わないようにと、走る。あんなに重宝していた傘が酷く邪魔に感じて、途中で閉じた。雨はまだ降っている。
▽△▽
息が上がって来た頃に、自分の体が雨で冷えてきたことに気付く。気付いたけど、それは気にならなかった。
「あいつ……っ、どこ、行った……!?」
「まだ近くにいる……筈です多分」
「多分かよ……」
肌を滴る雨か汗かわからない雫を制服の袖で拭いながら、南沢は辺りを見回す。閑静な住宅街だ。雨のせいか人通りがほとんどない。
駅と天の家のちょうど中間辺りだろうか、恐らく天の通学路だ。
辺りを見回していると、ふと公園に目がついた。白いフェンスでぐるりと囲まれて、フェンスに沿うようにツツジが植えられている。もう時期も終わりなのか、ポツポツと疎らに赤や白の花を咲かせている。入り口には目に痛い黄色のペンキで塗り尽くされた車止めのアーチが置かれていた。
「――いた」
車止めのアーチの奥、公園の隅に藤棚がある。垂れ下がる薄紫の花の下には木製のベンチが置かれていた。
その脇、垂れ下がる藤の隙間から、碧と物寂しげな横顔が見える。
立ち尽くすようにして、五月雨 天はそこにいた。
碧い髪は雨に濡れていた。湿った髪は重さでいつもより真っ直ぐでポタリポタリと毛先から雫が落ちていく。
「――天」
南沢が名前を呼ぶと、その音をきちんと聞き取ったのか、ピクリと体が揺れて、ゆっくりとこちらを向いた。空色の瞳と目が合う。晴れた空の色をしているのに、何故か曇天を思わせるような瞳に、南沢は言葉を失い、天は南沢となまえの姿を見ると目を見開いた。
「は……?うわっ!えっ!?なんでいるんですか!?何してるんですか!?」
「それはこっちのセリフだ馬鹿!」
「は!?」
驚く天は普段通りに見えて、けれどやはり目は曇っている気がして、そのアンバランスさに南沢は不安を覚える。なまえはスッと天に近寄ると徐ろに手を伸ばし、天の顔を覗き込むようにして頬に触れた。その奇行にびくりと天が体を強張らせる。南沢も目を剥いた。
「は!?みょうじさん?ど、どうかした……?」
たじろぎ、一歩後ずさる天から目を逸らさないまま、なまえは口を開く。
「……五月雨氏、泣いてるかと思って」
その言葉に、天はパチリパチリと瞬きをして、南沢はどくりと重く鳴る自身の心臓に、脈が速くなるのを感じた。
名前を呼んで、天が振り返って、目が合った時、雨に濡れた天は、確かに泣いているようにも見えた。だから南沢は言葉を失ったのだ。頬を伝う雨水が涙に見えて動揺したから。
「……え、いや、泣いてないけど……?」
「そのようですなあ」
天はわけがわからないという顔で首を傾げた。なまえも涙を拭う為に伸ばしたのであろう手を引っ込める。そんなやり取りを見てから、南沢は再び視線を天に集中させた。
「お前……それどうした?」
南沢は不快そうに眉を顰める。天は南沢と同じ制服を着ていた。学ランは着ていなかったが、白いワイシャツは雨に濡れているし、どういうわけか所々赤黒く汚れている。明らかに土や泥以外の物も混ざっていた。よく見ると手も土で汚れている。
天は南沢の指す"それ"に気付いたのか、「ああ」と興味もなさそうな声と目で言った。
「別に、ちょっと」
「……」
「大したことじゃないですよ」
「……」
「えぇ…………」
天のはぐらかすような言葉に、南沢はじっとりと睨みつけ、なまえもまたいつもの変わらない瞳で、ただジッと天を見つめた。
"目は口ほどにものを言う"、2人の痛いくらいの視線に、天は頬を引攣らせて苦く笑う。
それから暫くの沈黙を雨音が繋いだ。段々と後ろめたそうな表情を見せ、目を逸らし始めた天は、最後には観念したように息を吐き、肩を落とした。くるりと背を向けて、「こっちに」と言う。南沢となまえは顔を見合わせてから、黙って天のあとについて行った。
藤棚の後ろに植え込みがある。ツツジとは違う白い小さな花がポツポツと咲いていて、それを丁寧に掻き分けて天は進む。
植え込みとフェンスの間、ただの濡れた土が広がるそこには、所々不自然に土が盛り上がっていた。明らかに一度掘り返され、何かを埋めた跡がある。それは1つではなくて、複数あることが不気味に感じた。
「天、これは」
南沢の声を遮るように、ガサリと植え込みが揺れて、南沢となまえはバッと視線をそちらに向けた。ガサガサと白い花が揺れて、植え込みの中から現れたのは白い猫だった。
「……猫」
なまえが見たままに言葉を紡ぎ、そっと歩み寄ろうとすると猫は毛を逆立ててフーッと荒い息を吐き出した。
「あんまり近寄らない方がいいよ。ひとりになって気が立ってるから」
「……ひとり?」
「あ、1匹って言った方がいいのかな」
なまえが天を振り返ると、天は首を傾げながら笑った。
そういうことじゃないと、なまえの目が訴える。数え方じゃない、表し方じゃない、聞きたいのは、ひとりになってしまったという言葉の意味だ。
話が上手く噛み合わないのはわざとなのか、それとも本当に意図を読めていないのか、どちらにせよ天らしくなくて、酷く危うげに見えた。曇った目は、依然として光を宿さない。
猫はこちらを警戒しているようだったが、逃げる気配もなく、様子を窺うようにウロウロと忙しなく歩き回っている。その歩き方の違和感に気付いた南沢は眉を顰めた。
「そいつ……怪我してるのか」
南沢の言葉に誰も返事をしなかった。よく見ると足には白い包帯が巻かれているし、雨で濡れているせいもあってか、猫はボロボロだった。
「……子供が、いたんですよ。4……6かな?」
ポツリ、天が零した言葉に、2人の視線は再び濡れた碧に向く。天は盛り上がった土の方を見ていて。声に熱はない、色さえもないような声が雨音と共に聞こえていた。
「他の野良猫と喧嘩したのか……野犬にでも襲われたのか、残ったのは母猫のその子だけで」
「……お前、こいつらの世話してたのか?」
「まさか、そんな無責任なことできません。ただたまに見掛けてたってだけです」
南沢の位置からでは天がどんな表情をしているのかわからなかった。わからないけど、多分笑ってないし、泣いてもない。時折見せる何も映していないような虚無の表情をしているのかもしれないと、なんとなく思った。そしてそれを嫌だなとも、静かに思っていた。
不自然に盛り上がった土の意味を、南沢となまえは理解する。天の土で汚れた手の意味も、ワイシャツの赤黒い汚れの意味も、ひとりになってしまったという言葉の意味も。それらがわかれば今日の天の不可解な行動もなんとなく想像できて、恐らくそれは間違っていないだろうとも思う。ベンチの上には薬局のマークが入ったビニール袋が置いてあった。中には包帯と消毒液が入っているのが見えた。
開いた鞄には汚れたタオルと学ランが無造作に詰め込まれていた、それを見てらしくないと思ったのを覚えている。
天は舞風だけの幸せを願っている。
他の誰も彼もどうでもいいと言うくせに、彼は恐らく、本当に助けを求めている人を前にした時に見過ごせない弱さを持っていた。
そういうところを、南沢は漠然と好いている。恐らくはなまえも。
けれどその不安定さが時折どうしようもなく見てるこちらを不安にさせる。天自身が認めない自分の優しさと、受け入れられない自らの救済行為は、傍目に見れば温かい筈のものなのに、どういうわけかそれは全て天に返って、彼の首を絞めるのだ。その事実がただひたすらに悲しくて仕方がなかった。
土の盛り上がった場所は3つだった。雨はまだやみそうになく、天がまだここから離れないことを悟る。
「ところで2人はなんでここに?ていうか傘があるなら差したらどうです?」
天が2人を振り返り言った。そこにはいつもの人が良さそうな笑顔が浮かべられていて、そのことにほんの少し安堵してしまった自分がいることに、南沢は苛立った。それを隠しつつ、いつもと変わらない調子で言葉を紡ぐ。
「言っとくけど全部お前のせいだからな!」
「はあ?何です急に!」
「五月雨氏が学校来ないから先輩めちゃくそ心配してたんだってばさ」
「サラッと嘘をつくなお前は!」
「え〜、心配で心配で私にまで連絡してきたのに〜?」
先程までの空気が、僅かなしこりを残したまま塗り潰されていく。このままでは駄目だと、少なくとも南沢となまえは思っている。けれどもこんな時間がないと、天の方が駄目になる気がした。何が、と聞かれたら明確に答えは出せないけれど、いつまでもこの雨の中の空気に、彼を一人にさせたくはなかった。
南沢は舌打ちをひとつして、めんどくさそうに首の後ろに手を当てる。
「お前は連絡くらい寄越せよ、おかげで余計なことまでしちまったじゃねーか」
「はい?……ああ、学校か……忘れてたな……」
天は今の今まで忘れていたような声で言う。大したことでもないような言い方は、何故だか胸の奥がざわつく不安があった。
今の天を直視するのが何故だか辛くて、南沢は視線を落として口を開いた。
「お前明日マスクしてこいよ」
「は?何でです?」
「風邪で休んだってことにしてあんだよ、感謝しろよな」
「ああなるほど……そりゃどうも」
「恩着せがましいっすな」
「ほんとだよねえ」
「喧嘩売ってんのか!!」
南沢はもう一度舌打ちをして、学ランを脱いでワイシャツの袖をまくった。その行動に天は首を傾げる。なまえも同じようにしてワイシャツの袖をまくっていくから、天は訝しげに眉を寄せた。
「みょうじ、お前はやめとけよ」
「こんなこともあろうかと今日の私はジャージを持ってるんですぜ」
「ただ体育があっただけだろ」
「え、いや、2人とも何してるんです?」
天が困惑を滲ませた声で問えば、2人は真顔で天を見た。その目があまりにも真っ直ぐに天を映しているから、一瞬だけ体が強張る。
「お前まだ帰るつもりねえんだろ。付き合ってやるよ」
「は?」
「3人寄れば文殊の知恵って言いますからな」
「それはなんか違えだろ」
2人の会話が流れてくる、けれど天にはそれが上手く呑み込めないし、理解ができない。
「いや、いやいや、何言ってるんです?帰っていいですよ、雨だって降ってるし」
「こんだけ濡れたらもう関係ねえよ」
「水臭いですぜ五月雨氏」
まだ何か言いたそうな天が口を開くよりも先に、南沢となまえは行動に移す。立ち尽くしたままの天の肩を叩き、蹲み込んで素手で地面を掘っていく。暫く天は呆然として2人を見つめていたが、やがて諦めたように2人と同じく蹲み込んだ。雨は静かに降り続けていて、それは3人を見守るようでも、包むようでもあった。
それは悲しい作業だった。
雨の中で、質量の伴う骸をそっと埋めていく。それを両手で持つ度に、規則正しく鳴っていた鼓動が、僅かに別の音になる気がする。息を止めている時のような、そんな風に重苦しく脈を打つ。悲しくて、寂しい作業だ。
これを天は1人でやっていたのかと思うと、余計に悲しくなる。
1人で死に向き合うことはどれだけ辛いことなのか。
誰かが傍にいれば、それを軽減させてやれると、無責任なことを南沢は言えない。南沢は大事に思う誰かを失ったことはまだないし、あったとして、幼い頃にそれに直面するのと成長してからするのではわけが違う。
天の物事の測る基準を、南沢もなまえも知らない。知らないけど、恐らくは舞風に繋がっているのだろうと思う。
彼女の幸せの為なら、自分に巡る筈だった幸福すらも差し出してしまうだろう。自ら危機の中に飛び込むくらいのことを、きっと天は簡単にする。投げやりに舞風の幸せを願っているわけじゃない、どうしようもないくらい一途で、誠実に、天は舞風の幸せだけを願ってる。
だから南沢もなまえも、それを間違っていると声をあげるようなことはしない。けれど口を挟みたくはなる。ならお前は?お前は自分の幸せを願わないのか?と、問いただしたくなる。
幸せを願うことくらい誰だってある。自分の幸せを願うことは、誰しも平等に与えられた権利の筈だ。だけど天は、そこに自分をカウントしない。周りの人間が幸福だろうが不幸だろうがきっと興味を示さないし、言葉にしても「よかったね」や「残念だったね」という当たり障りのない言葉を選んで、どちらを言うにしても同じ表情をして言うのだろう。手本のように整えられた笑みで。
なまえにも似た部分があった。その薄い唇から飛び出す言葉の多くは理解不能だが、彼女も普段の奇行からは考えられないほど丁寧で切実に、幼馴染の幸せを願っている。ただなまえは、その幸せにきちんと自分を組み込んでいる。自分を犠牲にして幼馴染を幸せにすることは、幸福に繋がらないとわかっているし、自分にできることの限りを知っている。だからできる範囲で精一杯に、幼馴染が幸せであるように願う。
そこがきっと、天となまえの違いだ。
どこまでも現実的で、自分以上に想える相手がいて、心から幸せを願う。けれどその幸せの為に、なまえは何も捨てないし、壊しもしないけれど、天はきっと簡単に全てを投げ捨て、自らの手で壊してしまう。2人はよく似ていて、波長も合う。けど本質的な部分が僅かに、けれど決定的に違っている。
天は夢を語らないし、希望を見出さない。
ただ目の前の現実を冷静に分析して、最良だと思う判断をする。
そうして舞風の幸せに繋がる判断をするけど、天は自分が彼女を幸せにできると思っていないような、そんな気が時々する。
こんな勘に近いような思考は、外れてしまえばいいのにと思っている。
埋葬が終わると、3人は藤棚の下へ移動した。手についた泥は公園にある水道で落としたけれど爪の中にまだ土が残っている。なまえは制服のスカートの下にジャージを履いた。天となまえは隣り合ってベンチに座り、2人の前に南沢は立つ。隙間なく藤で埋められた天井は雨を遮る。隙間から溢れた雨水だけがポツポツとベンチの端を濡らしていた。
「お前な、次からはちゃんと連絡しろよ。兵頭とかめんどいだろうが」
南沢が不満気に言うと、天は面倒くさそうに「はーい」と軽い返事をした。
「そうですぜ五月雨氏、何せここには部活を辞め黙って転校した経歴を持つ南沢パイセンがいらっしゃるんですぜ」
「おいみょうじてめえ」
「ははは、ほんとだねえ、先輩みたいになっちゃうねえ」
「殴るぞ」
笑う天はいつも通り軽口を叩いているが、やはりどこかで違和感を感じている。もしかしたらああいう事実があったということに先入観を持って天を見ているだけかもしれないが。
天は笑ったまま、静かにほんの少しだけ俯いた。濡れた靴先を見ながら、どこか揺れた声で、ベンチを濡らす雨水のように話し出す。
「……でも、そうですねえ。何も言わずに雷門を離れた先輩の気持ちも、まあ、わかりますよ」
南沢となまえの視線は天に注がれた。天はまだ小さく笑ったままだ。けれど声は不安定に聞こえる。
「だって面倒ですもんねえ、惜しまれるのは」
声は地面に落ちて、雨水のように染み込んでいく。垂れ下がった藤の花は風に身を委ねて儚気に揺れる。その様を見て、天の声はまるでこの藤の花みたいだなと思った。
風に吹かれたら飛ばされてしまいそうに、弱く細い。
「部長も、多分他のみんなも、僕がいなくなるってわかったら惜しんでくれるんだろうなあ。でもそういうのって嫌じゃないですか」
独り言のように聞こえた。けれど確かに言葉は南沢となまえに向けられている。だから2人はただ黙って、天の言葉を聞いていた。
「同じだけの熱量を返せやしないのに、そんなのは」
声は冷めていた。一定の温度を保って。揺れていた声は安定したように思う。
空色の瞳は未だ晴れない。雨が降る前の雲のように彩度を極限まで落としたような、そんな色だ。その瞳が空を見上げた。垂れ下がった藤の間から雨粒を落とす曇天を見上げて、「やまないですねえ」と零す。
「……誰だって、雨がやむのを惜しんだりはしないでしょう。やんで晴れた空を見上げて笑顔になるでしょう。それでいいんですよ、僕は。それがいいんです」
目を伏せる。長い睫毛は雨で濡れていて、不思議な色香を纏っている。南沢は言葉を探す。探す中で、そもそも自分は相応しい言葉を持ち合わせているのか悩んだ。開き掛けて、閉ざしてしまいそうな口から音にならない言葉を落とす。それを拾い上げたのはなまえだった。
「でも五月雨氏、雨が降って喜ぶ人もいるよ」
凛とした声だった。雨に負けないような、雨すらも味方につけるような声だった。天の瞳が黄金を映す。
「雨が降るから晴れた空を見上げて笑顔になれるんだよ。片方だけじゃ駄目だよ」
なまえの言葉に、天の表情が抜け落ちる。ストンと笑顔を忘れたように。けれど僅かに唇が震えたように見えて、南沢はなるべく平静を装って、ただし普段よりは柔らかく言葉を紡いだ。
「五月雨ってのは、慈雨らしいぞ」
そう切り出すと、ゆっくりと天の瞳が向けられる。天の瞳に映る自分の姿を見て、大丈夫だと言い聞かせながら言葉を手繰り寄せていく。
「雨がやむのを惜しむ奴がいなくても、雨が降るのを待つ奴はいるんだろ」
晴れた日の方が気持ちがいい。そんなのは南沢も当然のようにわかる。サッカー日和だと、どこかの馬鹿は言うかもしれない。鬱々とした雨ばかりの日々に嫌気がさすこともある。けど雨の中でだって間違いなく、晴れの日と同じように幸福は巡ってくるのだ。
例えば雨の匂いだとか、気に入っている傘や、レインコートは雨が降らなければ使えない。悪いことばかりではないことも、南沢は当然のようにわかっている。
それがほんの一欠片でも天に伝わればいいと思ったのは、間違いなく南沢の本音だった。
▲▼▲
まだ雨は降り続いている。こさえられた5つの墓に、それぞれ花を添える。なまえと南沢は傘を差し、南沢は後ろから天にも雨が掛からないように腕を伸ばしてやる。
墓の傍に、先ほどの白い母猫が佇んでいた。「ナーゴ」と寂し気に、もう返事のすることのできない子供に何度も呼び掛けるように鳴いている。
「でもこれでよかったんですよ」
ぽつりと天が呟いた。
その声は自分にも言い聞かせているようだった。
「親が子供を庇って死んだら、子供だって無傷じゃ済まないだろうし、その傷が原因で死ぬかもしれない。運良く生き残っても子供じゃ満足に餌も取れないでしょ。だから……」
つらつらと並べられた言葉の節々に、天にしては珍しく制御しきれていない感情が上乗せられているような気がした。
南沢には、今天がどんな顔をしているのかわからなかった。隣に立っているなまえには、天の顔がよく見えた。
天は笑っていた。
いつもの完成された笑顔じゃない、不完全で歪な笑みだ。
細められた目と、寄せられた眉。引き攣ったように上げられた口角。見ていて胸が痛むような笑みだった。
なまえは何となくではあれど、天と空の事情を知っている。
もしかして天は、この猫の母子に自分達を重ねているのだろうか。もしもそうなら嫌だなと思う。それが本心なら尚更。
だって、余りにも寂しい事実だ。
なまえは天が向ける視線の先を見る。小さな骸の埋められたそこを。
死が理不尽であることを、なまえも知っている。平等ではあれど、納得のできるようなものばかりではないことを。
「……」
なまえは目を閉じ、強く傘の柄を握った。そして天に顔を向けて言う。
「五月雨氏、私の胸で泣いてもいいんだぜ」
いつもの戯けた口調で、でも真剣に、なまえは言った。
南沢は呆れたように顔の力を抜いて、天はパチリと瞬きをする。
天の空色の瞳に金が映る。空に浮かぶ星のような輝きを宿して、天はふっと息を吐き出した。
「あっ、は、あはははは!おっとこまえだなあみょうじさん!あはははは!」
天が腹を抱えて笑うと、辺りに溜まっていた鬱々としていた空気が弾けたようだった。息をするのが楽になって、なまえは静かに長い息を吐く。
一頻り笑った天は、顔を上げてなまえを見た。そこにはいつもと同じ、手本のように笑う天がいる。いつもと同じ、けどほんの少しだけ明かりを取り戻した瞳になまえを映して。
「ありがとう、みょうじさん。でも僕は泣かないよ」
柔らかい声だった。だから余計に距離を感じる。泣けばいいのに、と思う。
泣けばいいのに。そしたら泣き止むまで傍にいるし、励ますことができるのに。それなのに天は悲しみも寂しさにも目を閉ざして、笑顔で覆ってしまう。だから掛けたい言葉は宙に浮いて、彼まで届かない。それが酷く歯痒かった。
「帰るか」と言ったのは南沢だった。それに天が「そうですね」と静かに返して、なまえも頷く。藤棚の下まで戻り、置いたままだった各々の荷物を手に取っていく。
「つーかお前傘は?」
「傘?傘なら……あれ、どうしたんだっけ……」
視線を宙に泳がせ、天は首を傾げた。どこかに置き忘れたのだろうか。天にしては珍しいが、仕方がないような気もして、南沢は息を吐く。
「仕方ねえな、ほら、来い」
「はい?」
「おっと先輩、私と相合傘するのはあんなに嫌がったくせに五月雨氏はいいんですか、へぇ〜、ほぉ〜?」
「言い方がうっぜえしうるせえ!」
なまえは鮮やかなレモンイエローの傘を開いて藤棚の下から、曇天の下へ出た。南沢も無色透明なビニール傘を開いて、一歩前へ出る。それから2人は天の方を振り返った。振り返り、天が藤棚から出るのを待つ。
黄色と、紫。
視界の中で、あまりにもその2色は鮮やかだった。
なまえの傘も、髪も瞳も。南沢の髪も、藤の花も。灰色の空の下では、色のない雨の中では、それらが景色を染め上げる。
それから、はたと天は気付いた。
あれ?この2人もしかして、僕のこと探しに来たのかな?
はっきりとそう言われたわけではないが、よくよく思い出すとそんなような言葉を交えた気がしていた。よくわからない倦怠感と偏頭痛でいつもより頭が回っていなかったが、今になってあれ?と思う。
僕が学校休んだくらいで?わざわざ2人で待ち合わせて?いやいや、そんな馬鹿な。そんな言葉がぐるりぐるりと頭を回る。雨も降ってるのに、何の為に?
疑問符が次々に浮かんで溜まっていく。1つも解消されないそれに僅かな動揺と、混乱が生じた。
それは天の望むところではない。雨がやむのを誰も惜しまないように、自分もそうありたいと思っている。後腐れなどない、縁などなかったように、そうやって別れられたらどれだけ理想的だろう。
『雨が降って喜ぶ人もいるよ』
『雨がやむのを惜しむ奴がいなくても、雨が降るのを待ってる奴はいるんだろ』
2人の言葉が不意に頭をよぎる。
この言葉の意味も、天はいまいちわからない。言葉の意味よりも、2人がその言葉を口にした理由が、自分に向けた意図が。
わからなくて、でも雨の中の黄色と紫は胸の奥底が軋むくらいには綺麗で、天は一歩踏み出す。
少しだけ驚いたように目を丸めた南沢を見て、笑う。
「仕方ないから、先輩の傘に入ってあげますよ」
言えば、南沢は目を細めて満足そうに不敵に笑い「生意気」と短く零した。雨はまだ降っていて、傘を叩いて地面を濡らす。草木の匂いが濃くて眩暈がしそうだ。靴に泥は跳ねるし、濡れた体は冷え切っている。気圧のせいで頭痛はするし、何となく気分も沈む。
こんな日がまだ暫くは続くのかと思うと嘲るように唇が歪んだ。
でも傘がなくても差し出してくれるお節介はいるし、体が冷えているせいで隣を歩く人の熱をよりはっきりと感じる。噎せ返るような草木と雨の匂いは、案外嫌いではない。空は暗いけど、視界には笑ってしまうほどに鮮やかな黄色と紫があるから、多分この梅雨はやり過ごせるのだろうと思う。
雨が止んで、梅雨が明けて、空に青が戻るなら、雨曝しになるのも悪くはないのかもしれないと、天は笑った。
【イエロー・パープル・レイン】
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