もったりとした、薄いクリーム色の生地から、ほんのりと香る甘い匂いが漂う。バターの欠片を温めておいたフライパンに落とした。それを傾けると溶け出したバターがフライパンの上を滑りバターの芳醇な香りが鼻をくすぐる。コンロの上にフライパンを戻し、代わりにお玉を手に取った。そのお玉をクリーム色の生地の中に潜らせ、掬い上げる。それをゆっくりとフライパンの上に垂らしていく。じんわりと広がっていく生地が綺麗な丸を描いた。

 甘い匂いがより強くなる。珊瑚色をした瞳が無意識に柔らかく細められた。
 ここは彼女──ハートの海賊団コック、なまえの城、もといキッチンである。余計な物は置かずに、キチンと道具や皿があるべき場所に整頓されたキッチンは、彼女の料理に対する姿勢が見て取れる。皿や鍋が規格外の大きさなのは、彼女が料理を振る舞う相手は大人数且つ、大食らいが多いのだ。自然と道具も大きなっていく。その大きな皿や鍋、料理道具たちはどれも綺麗に手入れされている。
 その道具の持ち主、使い手、この城の主はプツプツと気泡を浮かべてきた生地を見て、そろそろかとフライ返しを手に取った。動く度に一つに括った彼女の白い髪が軽やかに揺れる。
 揺れる白い髪は、その色もあって柔らかな絹糸のようで、癖もなくストンと重力に従って垂れている。フライパンの上に広かったクリーム生地の湖。それをひっくり返すタイミングを見極める珊瑚色の瞳は気怠げな印象を与えるが、その瞳を縁取る長い睫毛は綺麗に上向いている。雪のような白い肌にはチェリーレッドの唇が良く映え、通った鼻筋の整った顔立ちは、まるで一流の職人が手掛けたケーキのような美しさを誇っていた。
 生地の状態を見極め、フライ返しを焼けてきた生地の端に引っ掛け、ゆっくりと滑り込ませていく。そして無駄な力を入れずに慣れた手つきでそれを軽やかにひっくり返してみせた。ペン、と空気を含んだ音が鳴ると、狐色に焼けた面が面を向く。匂いがまた強くなった。
「なまえ」
 なかなかの焼き色だと自分を讃え頷いていると背後から短く名前を呼ばれた。低い、少し掠れたような声だ。なまえが愛してやまない声だ。
「船長」
背後から、なまえの肩越しに手元を覗き込んでくる彼の呼び名を短く、けれど心からの敬愛を含めてなまえは呼んだ。「どうかしましたか」と尋ねれば、「何を作ってる」と聞いてくる。なまえはフライパンの取っ手を掴みながら答えた。
「ベポ達がお腹が空いたと言うので、おやつにホットケーキを」
「……俺はパンは嫌いだ」
「ケーキです船長」
「パンは嫌いだ」
「ケーキです」
 そんなやり取りは、最後に年を押すように男が「パンは嫌いだ……」と絞り出すように言ったところで終わった。
 男の名前はトラファルガー・ロー。この船の船長であり、なまえが忠誠を誓う相手だ。もう出会ってから何年経つだろうか。ローの隣に立ち、ローを支えることがなまえの幸せだ。それはもうずっと変わらない。これまでも、これから先もずっと。
 なまえはポンポンと、まるで魔法のようにホットケーキを作り重ねていく。それを隣でローが眺める。隣に立って、口を開くこともなければそこから動くこともなく、ただジッと作り上げられていくホットケーキを見るローの姿がなんだか幼い子供のようで、なまえは口の中で笑った。次から次にホットケーキを焼き上げていくと、捲っていた袖が落ちた。「あ」と短く声をこぼす。いけない、料理中に袖を垂らすなど料理人としてあるまじき姿だ。なまえは火を止めてフライパンを置く。袖を捲ろうと腕を伸ばすと、自分よりも筋肉のついたごつい腕が視界に入った。指先に入った特徴的なタトゥー。
「危ねえぞ」
 すぐ後ろから声がする。背中が温かい。
 いつの間にか背後に立っていたローが両手を後ろから回し、なまえの袖を掴んだ。少しカサついたその手が、そのまま器用にくるくると袖を捲っていく。右手を捲ると「左手も出せ」と言われてまたくるくる。
「……罪作りにもほどがありますぜ船長」
「何言ってるんだお前は」
  見上げると、なまえの丸い頭がローの厚い胸板に当たる。真下から見上げるのは新鮮で、なまえはしみじみと愛しい男の顔を眺めた。ふと耳を澄ませば、トクトクと、心臓の鳴る音がする。生きている、音がする。
 生きている。心臓が鳴るのは、その何よりの証拠だ。だから心から安心する。ずっと聴いていたいとすら思う。この音が止まることなく、一日でも長く奏でられるように、なまえは動く。それは何にも変えられぬ強い誓いだ。なまえが生きていく中での最優先事項。
 自分をこうしてすっぽり覆ってしまう程の体格差はあるし、この男は強い。それでも、高慢でも自惚れでも、彼には自分が、自分達が必要だと思う。
 そう、信じている。
「……船長の分はハートの形にしてあげますね」
「俺はパンは嫌いだ」
「だからケーキですって」
 眉を下げて笑う。ローは袖を捲り終えたようだった。「ありがとうございます」と言えば「ああ」と短い返事がきて、ゆっくりと、離れた。 
 また穏やかな、静かな時間が流れるのだろうと思いきや、急にキッチンの外が騒がしくなってきた。ベポやシャチ、ペンギンの声が聞こえてくる。ローは扉の向こうを見て眉を顰めた。
「あいつら……また騒いでやがる」
「あらまあ、何も壊れてないといいですけどねえ」
「ちっ……なまえ、いくぞ」
 当然のように呼ばれた名前に、なまえはどうしようもない喜びが胸の奥から溢れてくるのを感じた。蜂蜜を入れたホットミルクを一気に飲み干した時のように、胸の奥が熱くなる。
 なまえはひっそりと笑い、ローの隣を歩き出す。
「──アイアイキャプテン」


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