彼女は『喋れない』のではなく、『喋らない』のだということはすぐにわかった。
彼女の『個性』は、同じクラスの青山や緑谷ほど身体に合っていないわけではない。成長するにつれ徐々にずれが生じる例もあるが、それでも彼女の『個性』は、本来喋るごとにマイクロ波を発生させてしまうようなリスキーなものではなかった。
つまるところ、彼女の精神状態が深く関わっているのだ。感情が不安定であったり、強い恐怖や怒りを感じると、発生と同時に『個性』を発動してしまう。だが気持ちの問題だと、感情論を押し付けるのはお門違い。それが不可能であるから、彼女は今こうしてここにいるのだ。
長年鍵をかけていたであろう声帯を、彼女は開放した。それは紛れもなく、相澤消太の『個性』に対する絶対的な安心感と信頼感を持っていたからに他ならない。
「…………」
「…………」
彼女がどんな意図で、その四文字を発したかは相澤には計れない。しかし視線をぎこちなく落とし、手元のメモ帳を握る手に力を籠めたあたり、言うべくして言ったようにも思えなかった。
面食らった相澤が、とうとう先行して話せないでいるうちに、彼女は動き出した。ブレザーのポケットから愛用のボールペンを取り出すと、すかさずメモ帳をめくる。紙面にサラサラと──やけに速い動きだと思った──何かを書いて、相澤の胸元に無理やり押し付けた。
みょうじは機敏な動きで踵を返し、その場から逃げ出そうと駆け出す。しかし相澤の捕縛武器が間髪を入れず巻きついてきて、強引に停止させられた。
「……っ!」
今度こそ、彼女は怯えるように肩に力を入れていた。その様子を視界の隅で見ながら、相澤は押し付けられたメモ帳に視線を滑らせる。そこにあった『冗談です。』の走り書きは、黒板や何やらで見た彼女の文字よりも随分と荒れていた。元が丁寧であるから、余計にその差異が感じられる。
……この言い訳は、無理あるだろ。
「オイ、みょうじ」
呆れたようにため息を吐いて、相澤は自分とみょうじを繋ぐ捕縛武器を、彼女に接近しながらスルスルと回収していく。腕ごと胴体を捕らわれていたみょうじは、少しずつ自由が戻っているにも関わらず、ますますその身を強ばらせていた。
「冗談だろうがなんだろうが、あまり先生を揶揄うなよ。……第一、俺とお前は教師と生徒だ」
一定以上踏み込んではいけない、踏み込ませてはいけない関係性。それを知らずに高校にまで上がれるような時代ではない。
後ろを向いていた彼女を、捕縛武器を器用に引っ張ることでくるりとこちらに向かせる。せっかく開いた口は、またしっかりと糊付けされていて、彼女の前髪は俯きがちの顔に影を落としていた。
ちょうどほどけきったそれをマフラーのように巻き直しながら、相澤は一片の期待も持たせないように冷たく言い放つ。
「万が一にも生徒の気持ちに応えられる道理はない」
何かを耐えるように唇を噛み締める彼女。動揺とも、後悔とも、悲しみともつきにくい、しかし圧倒的な負の表情を湛えているように見えた。彼女の背は相澤から見てもそう低くはなかったはずだが、背中を丸めているからだろうか、何故だか極端に小さく感じた。
(──?)
先ほどメモ帳を押し付けられたあたりが、なにかざわつくような心地を覚えた。しかし気付かなかったふりをして、そのメモ帳を彼女に突き返す。
「……だが、まあ」
勝手に、口が動いた。
これ以上何を付け足す必要がある? しかし相澤の口は止まらない。みょうじが視線だけこわごわと上げた。眉間に皺が寄っているせいか、睨まれているように感じられなくもなかった。その鋭い目つきで、苦労したこともあるのだろうか。なんて場にそぐわないことを考えた。
「お前が……誰をどう想おうとお前の勝手だがな。そこにケチをつける道理も俺にはない」
ばっと顔を上げたみょうじの、表情が一変する。それを目の当たりにした瞬間、相澤の視界が開けたように明るくなった気がした。──なんだこれは?
「……!!」
「……わかったらさっさと教室戻れ。授業始まるぞ」
心に残った疑問を置き去りに、相澤はようやくメモ帳をみょうじの手に返した。彼女は受け取ったそれを大事そうに──あるいは手に籠った力を逃がす場所がたまたまそこだったのかもしれないが──握り締めると、相澤に勢いよく一礼してその場から早足で去ってしまった。
残された相澤は、彼女の揺れる髪の毛を見送りながら、妙に眉間に力が入るのを感じていた。遠くの方でチャイムが鳴るのが聞こえ、たった二、三分の出来事だったことを思い知らされた。やけに密度の高い、簡単には忘れられない時間。できることなら、忘れてしまいたい。
「……」
──いや……何甘いことを言ってるんだ俺は。
──無駄な期待を持たせるくらいなら、完全に否定を。
──いや、下手に打ちのめすと今後の精神状態に支障をきたす。
──あれはそうならないための合理的虚偽。
──あいつは無闇にひけらかす奴じゃあない。第一無口を極めている。
──まあ……バレなきゃ大丈夫だろう。
己の言動に懐疑を抱き、戒め、しかし擁護し、言い訳し、問題はないと言いくるめる。支離滅裂だと思った。混乱しているのだろうか、自分は。
たった四文字。されど四文字。その一言に、一回り以上も年下の子どもに、僅かながらにも翻弄されている。自分の隙の甘さに、目眩すら感じた。
しかし──彼女がこれまで必死に言おう言おうとしていたのは、果たして本当にあの四文字だったのか?
考えたってわからない。彼女の脳内を覗ける『個性』を持っているわけでもない以上、不毛なことだった。
(……にしてもあいつ……)
お前が誰をどう想おうと──そう、言うはずもなかったことまで伝えた時の、みょうじの顔が脳裏をよぎる。耳まで赤く、体温が集中した顔。熱に浮かされたように開いた、圧倒的なまでの"嬉"を秘めたような瞳。いつも水の一滴すら入らなそうな具合に引き結んだ口元の、弛緩した様子。高揚感と喜びに溢れた少女の表情は、どこまでもその本心を表していた。
(隠す気ないだろ……)
口ほどに物を言う手より、さらに物を言うその顔。随分と仏頂面であると思っていたが、別段そんなこともなかったらしい。
ちらりと視線を滑らせる。廊下の壁はガラス張りになっていて、全面がミラーのようなその窓に自分の姿が薄く映っていた。
どうしたものかと言いたげな、苦い顔。手入れもしていない長髪、生やしっぱなしの髭。洒脱さからはかけ離れた黒い装束。生気のない充血した瞳。初対面の相手にすら、「小汚い」などと非難されることもあった。
相澤自身はこの姿が最も合理的であると考え、他者の意見など一切歯牙にも掛けず過ごしてきたが、少なくとも異性に好感を持たれる格好ではないという自覚はあった。それに加えて、三十路の草臥れた男。彼女とはほぼ倍近くも年の差があるはずだ。
(……こんなおっさんのどこが良いんだか)
あんな顔を、自分に向けられたことなど未だかつてあっただろうか。年頃の女の子の思うことは、あまりにも未知で、奇妙で、理解に苦しむ。相澤は今後誰にも吐き出せない問題を、本日数回目のため息に転換して、後ろ頭をわしわしと掻いた。
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