「紅ちゃん、好きよ」
春の匂いが町の其処此処に充満していた。雪溶けの前と比べて、幾ばくか甘さを含んだ匂いだと思った。
此方を見もせず、すんとした、なんてことない澄まし笑顔のなまえに、ちらりと視線を寄越す。目が合わないうちに、そいつはさらに言葉を連ねた。
「大好き」
「……なんだァ藪から棒に」
なまえは俺をよく構う。顔を突き合わせれば、牛皮で作ったみてェなやわい頬を持ち上げて笑う。名を──最近は「紅ちゃん」とはとんと呼ばれなくなったが──幾度も呼ぶ。すぐ触る、撫でる。慣れたことだ、特段払いのけることもしねェが、それらはなまえが俺を呆れるほどに好いている証拠だった。
しかしこいつが、改まってそれを言葉にすることはそう無かった。突然の気紛れか、何か思うところでもあったのかは知らねェが、なまえの考えることはたまによくわからない。
「ええ、うん、なんでもない、なんでもないんだけどね」
「……あァ?」
ようよう此方を向いたなまえは、呑気に垂れた眉がいつもよりもさらに下がって見えた、ような気がした。風が吹き抜けて、傍らの木が頭から被っていた薄桃色が珠暖簾のように揺れて、枝から飛び立つ花弁が俺たちのあわいをくぐり抜ける。俺の髪もなまえの髪もゆらゆらと揺らして、どこかへ運ばれていくそれを、なんとなく目で追っていると、頭に、くし、と指先で梳かれる感触。僅かな熱が、頭骨の上に生まれた。俺の髪にひっついていたらしい花弁を摘まんだなまえは、それを名残惜しそうに風に放ちながら、妙に希薄で、弱々しい笑みのままささめいた。
「此の世に繋ぎ止める呪いでも、掛けておこうと思って」
──この女は、そんな顔で何をわけのわからねェことを云っている。
蜂蜜色の目玉がこちらを真っ直ぐに射抜いていた。無沙汰になった白い指を折り曲げて、下に下ろして、此方にその手を伸ばすより余程強固な鎖を、なまえは俺に繋ぐ。
「紅ちゃん、私きっと、紅ちゃんが居なくなったら生きていかれないわ」
風と仲良く吹き飛んじまいそうな声が、しかし決して揺るがずに耳朶を打つ。──こいつは莫迦だ。寝言は寝て言え。いや、寝言にしたって莫迦げている。俺ァこの先もこの町に居る。ここは俺の町だ。捨てるわけがねェ。捨て置いて何処かに行っちまうような薄情な野郎じゃあねェ。お前が何処かに行っちまわねェ限り、お前の前に俺が居なくなることはねェんだ。
「だから、私よりも早く死んじゃ駄目よ」
「……莫迦莫迦しい」
そんな心配をすんのは、お前くらいだ。俺はそんな簡単におっ死んだりしねェよ。──そう言いてェところではあったが、生憎、人間ってなァ案外すぐ死んじまうことを、呆気なく逝っちまうことを、俺はよくよく知っていた。なまえだってそれを、生涯塞がらねェ傷として、刻み込まれて、呑み込みたくもねェのに呑み込んで。もう、これ以上喪いたくねェのだと、そう思っているのだとわかる。鬱陶しいくらい、痛ェくらい、よくわかるんだ。
だがお前は、万が一俺が目の前から消え失せても、生きていく。お前はそういう奴だ。だからこんな鎖で雁字搦めにしようとしたって、そうはいかねェ。お前は薄情だから、例え俺が居なくなろうが生きていくんだ。それは呪い返しでも、反吐の出るような祈りでもねェ。確信だった。
「てめェも、俺より先に死ぬなよ」
「あれまァ、それじゃあ私たちせーので死ななきゃならないじゃないですか」
「あ? テメェと心中なんざ御免被らァ」
「うふふ、そうですね、私も」
俺にはとんだ呪いをかけておきながら、自分は先に死ぬのだと暗に云う自分勝手な女の脛に、軽く蹴りを入れてやれば「痛ったァ!」と大袈裟で命の籠った悲鳴が返ってきた。
back
topへ |