最初に名前を聞いたのは、入学式の日。一人一人教室の前に出て自己紹介、なんて、世界一要らないイベントが行われた時だった。
 涼しげなショートカットに、人当たりの良さそうな笑顔。よく通る声で紡がれたそれは、綺麗な響きだと感じて。そして、なんとなくどこかで聞いたことがあるような気がして、頭に残った。
 そんな彼女の名前はよく耳に入った。例えば、彼女とは幼馴染であるという、隣の席の円堂の話の中で。例えば、何をやらかしたのか校内放送の呼び出しで。例えば、別のクラスから遥々やってきた生徒の、部活の助っ人を懇願する中で。そうでなくても、ただの日常の中、誰かに呼ばれる声で。彼女はよく目立つ人だった。

 夜野、月さん。

 竹を割ったような性格で、男女分け隔てなく話すタイプの人。運動神経が良くて、前に体育でやった体力測定では、なんか凄い記録を出したらしく騒がれていた。
 制服が好きじゃないのか、それとも動きやすい服が好きなのか、彼女はいつからか常に学校指定外のジャージに身を包むようになっていた。先生たちは彼女の服装をよく思ってないらしいけど、それならかなり際どいスカート丈にしてるような先輩とかの方がよっぽど指導対象な気がする。
 私も制服みたいな堅苦しい服は好きじゃない。首のリボンも、息苦しいから正装時以外つけてないし。だから右に倣えで同じ服を同じように着こなす生徒たちの中で、喋ったこともない夜野さんに親近感みたいなものを、少しだけ、勝手に抱いていた。とはいえ、彼女は教室の端役である私のことなんて、気にしたこともないんだろうけど──

『みょうじさんは何も部活入ってないんだっけ』

 ──なんて思っていたから、彼女にそう言われた時は内心少し驚いていた。そんなの、よく知ってたな。円堂あたりから聞かされたりでもしたのだろうか。わからないけど。
 私の席は教室の右前あたりだった。対する夜野さんの席は教室の左後ろ。何かと班を組んだりして、集団行動やグループワークをさせる学校という場所で、しかしなんの関わりもない、強いて言えば円堂という男だけが間接的なつながり。そんな彼女と視線が交わるどころか、言葉をかわし、"共犯者"になるなんて。世の中、何が起こるかわかったものじゃないな。
 秘密の共有を隠し味にした氷菓は、なんだか普通に食べるより美味しい気がした。







「夜野は……いろんな意味でスゲー奴だな」
「スゲー奴」
「おう、スゲー奴」

 そう頷く半田は珍しく真面目そうな顔をしていたが、内容が雑なだけに一切の締まりがない。しかも大した情報も得られず──いや、別に探ってるとかではなくて、少し気になっただけだ──呆れ混じりのため息が出てきた。

「え、何? 結局なんなの? っていうかお前、夜野と関わりあったんだ」
「いや、まあ、別に……」

 適当に言葉を濁す。スゲー奴、ねえ……確かに、その運動神経を活かして体育ではいつも誰よりも活躍しているし、色んな部活からも引っ張りだこたと聞く。それに普段から怖いもの知らずというか、やりたい放題というか。例えば誰かが怖がったり、嫌がるようなことにも果敢に立ち向かっていくというか。とにかく、彼女はこの閉鎖的な箱の中で、ひときわ自由に生きているように見えた。そういうところ、少し円堂と似ているような気がする。
 だけど家庭科室で話した時の彼女は、なにか窮屈そうな顔もしていたように思う。誰かの、普段見せない面というのは、妙に記憶に残る。忘れたほうがいいのだろうか。まあ忘れようと意識して忘れられるほど脳は単純じゃないけど。たぶん、変に気にするより安易に触れないことが彼女にとっては一番なのだろう。
 別に深入りするつもりはない。そんなの向こうだって迷惑千万だろうし。だけど彼女は、いつものからりとした、楽しそうな笑顔のほうがよっぽど似合うとは、他人事ながら思った。

 半田は私から視線を外すと、足元のボールをつま先で操って宙に蹴り上げ、ポンポンとリフティングを再開した。それ、どうやってるんだろう。前に一度やってみたけど、前方に蹴り出してしまってリフティングには繋げられなかった。元々経験者だったらしい彼は、入部したての頃より、さらに少し上手くなっていると思った。人数不足で場所もなくて、まともな試合なんかはできてないけれど。基礎練習を積むだけでもやっぱり着実に力はついているんだろうなあと、素人目線ながらに考える。

「あ、そういえば」
「なに?」
「みょうじとちょっと、似てるかも」
「……夜野さんが?」
「おー……あ! 別に悪い意味じゃないからな! ヤメテ殴らないで!」
「ホントに殴ったろか」

 蹴り上げたボールを両手で掴んで盾のようにする半田に、我ながら低い声が出た。握った拳をゆっくりほどいていると、「あれ。あそこ、夜野だ」と半田が視線を横に滑らせた。
 噂をすれば影とか言うけど、つられて目を向けると、そこには本当にテニスコートを機敏に駆ける夜野さんの姿があった。借り物であろうウェアがよく似合っている。

「今日はテニスみたいだな」
「本当にスポーツ全般、なんでもできるんだ」
「喧嘩も強いみたいだし。そりゃー女子からもちょっとした騒がれ方するわ。はー羨まし……」
「テニス部兼部したら?」
「いやそういうことじゃねーだろ」
「冗談だよ」
「んなの冗談でも円堂が嘆くぞ〜」
「サッカー一筋だもんなぁ」

 そう何気なく呟いたところで、ふいに半田が首をかしげた。

「そういや、夜野はなんでサッカー部に入らないんだろうな。本人も大好きだって言ってたのに。円堂とも幼馴染みなんだろ?」
「……それって、もしかしたら……」
「え?」
「や、なんでもない」

 ふるりと首を振って会話を断ち切った。コートの中の彼女はちょうどスマッシュだかなんだかを綺麗に決めて、ガッツポーズを見せていた。テニスのスコアの見方はよく知らないけど、たぶん盛り上がり方からして彼女のほうが勝ったのだろう。流石だ。彼女はほかの部員らと仲良さげにハイタッチを交わしていて、実に楽しそうだった。
 夜野さん。夜野月さん。
 円堂と、それから風丸の幼馴染で、運動が得意で、明るくて、活力に溢れてて、人望があって。どこにいても埋もれない月のように、よく目立つ人。

(……あの人と、私なんかの、どこが似てんだか)

 半田の不可解な言葉が頭にとどまり、疑問を残す。私からはさっぱりわからなかったけど、問い詰めるのもなんだか変に意識しているみたいで気が引けた。

「お、染岡たち帰ってきた」

 半田の声に反応して顔を上げると、染岡と円堂、秋ちゃんがこちらに向かってくるのが見えた。掃除当番の二人がなかなか来ないってんで染岡が様子を見に行っていたが、どうやら先生に頼まれごとをして捕まっていたらしい。と、到着した本人らから聞いた。
 ようやく全員で活動を始める彼らを横目に、再びちらりとテニスコートのほうを窺う。夜野さんはコート脇にずれて水分補給をしていた。日光を反射したペットボトルが、ここからもよく光って見えて、なんだかそのあたり一帯をさらに輝かせているような気がした。

(……眩しい人だな)

 視線を外して、わずかに汗の浮いてきた首を手の甲で拭う。木陰にいてもこれだから、夏は好きじゃない。だけど、昔よりも、苦痛ではないような気がした。
 それにしても……やっぱり初めて聞いた気がしないんだよな。彼女の名前。過去のクラスメイトなんかにもいなかったとは思うんだけど、どうしてかやっぱり、その響きには覚えが──

「ん?」

 ふと、去年だか一昨年だか、名前も知らない、どこの学校かも同じ学校かもわからないような奴に絡まれた時のことを思い出した。そいつ自体は別に大した実力もなくて、適当にあしらったのを覚えてるけど、そういえば確かあの時──

『オレのバックにはなあ、稲妻小の夜野がついてんだからな!』
『誰? それ』
『……あァ!? 知らねーのかよ!?』
『知らね』

「──あ、」

 ……いや、まさかね。

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