日差しが、ぬるま湯のように暖かかった。夏も終わり、最近は少しずつ肌寒くなってきたけれど、テラス戸から差し込む陽光は部屋をほんのり暖めてくれる。それがどうにも眠気を誘うものだから、うっかりソファでうたた寝をしていたらしい。少しだけ頭が痛い。
からだを起こし、時間を確認しようとして、近くのローテーブルに置いていた自分のスマホに手を伸ばす。部屋には掛け時計もあったけど、少しだけ時間がずれているから正確な時間を知るにはスマホやテレビの右上なんかをいつも見ていた。あれ、左上だっけ? まあ、いいや。
電源ボタンを押して時間を見て、結構寝てしまったんだなあと思っているうちにまた画面が暗くなる。黒いそこに映った自分はみっともないくらい間抜けな寝起き顔で、相変わらず真っ黒で強情な髪の毛をうねらせていた。
「……癖毛だよなあ」
誰にともなく、ぽつりと呟く。梳かしても梳かしても真っ直ぐにはならないし、梅雨はもっとうねる。昔はすごく気にする時期もあったけれど、最近はもう愛着が湧いてきて、なんだかんだ私らしくて気に入ってた。
だけど。
掛け時計の下。電話台の、電話の隣には写真立てが置かれている。その写真の中でいつも笑っている、記憶の中では出会ったことのない女の人は、すごくやさしそうで、穏やかで、伸ばしたサラサラのストレートヘアがとても綺麗な人だった。お父さんとは正反対で、私とも全然似てなくて。少し、憧れる。
「なまえ」
カチャリと音がして、ソファ越しに振り返る。自分の部屋にいたであろうお父さんがリビングに入ってきた。「昼はどうする」と聞かれて、んーと適当に音だけ返す。正直そこまで空いてなかったし、なんでもよかった。あ、でも昨日の夜ごはんのロールキャベツがまだ残ってたはずだし、炊飯器のお米はギリギリだったかもしれないけど、レトルトのパックを二分チンすればいいし。そう思っていると、「じゃあ昨日の残りでいいか」と私の心を見透かしたように、お父さんが告げたので、また適当にうんと返事をした。
「……ねえ、お父さん」
「なんだ」
「私って、お母さんに似てるところは一つもない?」
キッチンに入り、ロールキャベツの入った鍋を火にかけていたお父さんが、ぴたりと動きを止めた。唐突な私の質問に、何か思わせてしまっただろうか。だけどかれは、特に表情を変えることもなく、少しだけ考えるそぶりを見せてから呟いた。
「声は、似てるな」
「ほんと?」
こえ、声。声かぁ。
自分の声を客観的に聞いたことはほとんどなくて、なんだか少し不思議なきもちになる。だけど、少し、うそ、すごく、うれしいと思った。私はお母さんと、何一つ似てるところなんてないと思ってたから。あの写真からじゃ、声はわからないけれど、それでも、母の面影を持たない私でも、かのじょに似ているところがあるんだって、つながりを増やせた気がして、うれしかったのだ。
「似てるよ。お母さんはもう少し低かったが……」
「ふーん……んん、こんな感じ?」
少しだけ声のトーンを下げてみると、ふ、と小さく空気を漏らしたような音がした。ぐつぐついい始めた鍋の面倒を見ながら、お父さんが笑ったのだと気付いた。かれはいつも仏頂面で、あまり表情を動かさない人だったから、珍しい、と思った。髭を少し残した口元を横に伸ばして、目尻に小さな皺を寄せて、かれはやさしく笑んでいた。
「そうだな」
「もう少ししたら、低くなるかな」
「大人になったらな」
そっか。大人になったら、私はお母さんにもっと近づけるのかぁ。
それがほんとうにうれしくって、私はにやけそうになった口元を慌てて隠しながら前を向く。ソファの背面がキッチンに向いていてよかった。逆だったら、私はまるで不自然で、顔を隠そうとしているのがお父さんにバレていたかもしれない。
──会ってみたかったなあ。
小さい頃、一緒に生きていたはずなのだけど。物心つくより前の頃だったから、私は何も覚えていなくて。どの記憶の引き出しを探っても、漁っても、ひっくり返しても、お母さんとの思い出はどこにも入っていなくて。それが私は、かなしくてさびしくて、たまらなくて。
だから、ほかの誰でもない、お父さんに。お母さんと声が似てるって思われていたのが、うれしくてうれしくて仕方がなかった。私は、私がしゃべるたびに、お母さんと一緒にいられるのかもしれない。そんなことを思った。
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
またソファ越しに振り返って、彼の横顔を窺いながら、口を開く。
「消太さん」
むかし。
お父さんの部屋にこっそり忍び込んで、その引き出しから手紙を見つけたことがあった。封筒の中央には整った綺麗な文字で「消太さんへ」と書いてあって、それがお母さんの文字なんだとすぐにわかった。中身は、とても気になったけれど、さすがに私が見ては駄目なものだと思って、すごくすごく迷ったけれど、開くのは我慢した。それはきっと、お母さんがお父さんだけに宛てた、ラブレターだったんだと思う。
他意はなかった。ただ、お母さんと似ているところを増やしたくて。きっと、お母さんが呼んでいたであろうその呼び方で、お父さんが似ていると言ってくれた声色で呼んだら、お母さんにもっと近付けるような気がして。でも、なんだか少し恥ずかしくなって、なんちゃって、って。笑おうとして。
自分の過ちに、気が付いた時にはもう、遅くて。
「──……」
かつん。お父さんの手から離れたお玉が、鍋のふちに軽く当たって音を立てた。ぐつぐつぐつ、沸騰したロールキャベツの汁が、声を上げ続ける。
鍋に視線を落としたままの、その細い目が酷く見開かれていた。
私と同じうねった前髪の下で、大きく歪んだ眉が。今にも叫びそうに震える、強ばった薄い唇が。私の頭を、心臓を殴りつけて、全身の熱をひとつ残らず奪い去って、喉で肥大したなにかが容赦なく気道を圧迫して、腹におさまる臓器を、ねじ切るような痛みを与えて。
喉がからからに乾いていく。なにひとつ、言葉が出てこない。背筋が冷たくなっていく。ぐつぐつぐつ、鍋だけが空間を揺らしていた。
数秒の沈黙だった。私はそれを、永遠のように感じていた。そんな私を引き戻したのは、お父さんがコンロのスイッチを切る音だった。「なまえ、米用意してくれ」いつもと変わらない声色で、お父さんが告げる。私は慌てて足に力を入れて立ち上がり、スリッパを履いてキッチンへと向かった。お父さんの顔を、窺うことはできなかった。
どくどくと心臓が鳴り続ける。首筋が変に汗をかいていた。炊飯器を確認すると、やっぱり二人分には少し少なかったから、レトルトのやつの端を少しだけ開けてレンジに入れた。その間に、お箸を二膳用意する。
「……お父さん」
「なんだ」
「……きょう、わたし、夕飯作るね」
「そうか、頼む」
私は、ずるくて酷い、最低な人間だ。自分で、お父さんを傷つけたかもしれないのに、何も言わず、何も言えず、それでも自分の罪悪感を少しでも拭えないだろうかと考えている。
だけど、今更謝ったって、私の記憶の中の、お父さんのあの横顔は消えない。お父さんの中で、呼び起こされた想いも、消えちゃくれない。私、わたし、は、お父さんにあんな顔をさせたかったんじゃないのに。無神経だった。考えなしだった。大好きなお父さんを、傷つけたかったわけがないのに。笑っててほしいのに。なんで、私は、家族に、お父さんにも、お母さんにも、いつも、いつもいつも、何も渡してあげられない。
「なまえ?」
ばらばら、手から滑り落ちた箸が、床に叩きつけられて転がった。ロールキャベツの器を取り出していたお父さんが、私の様子に気づいて近づいてくる。私は、顔を上げられず、自分のスリッパを見つめていた。目元が熱くて仕方がなかった。ぽたりと、スリッパにしずくが落ちてしみ込んでいった。
「なまえ」
私の名前は、お母さんが考えてくれたのだと、昔お父さんが教えてくれた。お母さんから私への、初めての贈り物だった。私は、私の名前が大好きだった。お父さんの声で、名前を呼んでもらうのが大好きだった。大好きだったはずなのに、呼ばれるたびに、心臓が握りつぶされるように痛んで、腹がけいれんして、喉から嗚咽が出てくる。
お父さんのあたたかい手が、私の癖毛をやさしくなでた。もらってばかりだ。お母さんからも、お父さんからも、私はもらってばかりだ。何も返せていないのに、与えられるやさしさが、つらくて、かなしくて、やりきれなくて、でもどうすればいいかわからなくて。お父さんの服のお腹あたりをすがるように掴んで、私はただただ、声を殺して泣き続けた。
back
topへ |