「どうしたの? こんなとこで」
やわらかな声が降り注いだ。ぬくもりの残った毛布のような、やさしい声だった。
顔を上げると、一人の女性がそこに立っていた。彼女は僕を怖がらせないためか、ある程度距離を取っていて、さらにしゃがみ込むと僅かに僕を見上げる形になる。母上よりも丸く、大きな瞳が、じいっとこちらを見据えていた。こんな風に誰かと視線がぴったり重なるのは随分と久しくて、なんだか妙に慣れなくて、思わず横に視線を逸らした。
「もうすぐ暗くなるから、一人だと危ないよ」
「……そう、ですね」
「帰らないの?」
はいともいいえとも言い難くて、口をつぐんだ。帰らなければいけない。僕はまだ子どもだし、家に帰らなかったら父上と母上に迷惑が掛かってしまう。だけど、どうにも足が重くて、帰路に向かってくれなくて、途方に暮れるように神社の境内に続く階段に腰かけていた。
僕の胸中を知ってか知らでか、彼女は少し考えるような素振りを見せると、人ひとり分ほどを開けて僕の隣に静かに腰かけた。思わず彼女の顔を凝視すると、彼女は控えめに笑った。誰もが目を惹くほど華やかではないけれど、やさしくて美しい顔だと思った。
「私もね〜、あんまり家に帰りたくなくて」
「そう、なんですか?」
「ふふ、やっぱりきみも帰りたくないんだ」
「あ……」
「おそろいだね」
彼女は楽しげに、今度は歯を見せて笑った。だけどどこか寂しそうにも見えて、僕は同調するように笑顔を見せることはできなかった。
「なんで、帰りたくないんですか?」
「うーん……私ね、お父さんと二人で暮らしてるんだけど、あんまり仲良くなくて」
「……、」
「とくに最近、お父さんあまり機嫌よくないから……なんだか家に居づらくて。早く帰って、夕飯の準備しないといけないんだけどね」
彼女は笑っていたが、無理やり作った笑みとしか思えなくて、でも僕は何て返答すればいいかわからず、口ごもってしまった。自分で聞いておきながら、狡い人間だ。厭な人間だ。
だけど彼女は別段気にした様子もなく、「きみはなんで帰りたくないの?」と僕に問い返してきた。
「……授業、参観」
「授業参観?」
「学問所で、今度あるって、お知らせの紙が配られて。でも、きっと両親は来てくれないから。そう考えたら、なんだか、……」
寂しくなって。とは、言わなかった。ちっぽけでくだらないプライドが邪魔した。だけど彼女には伝わってるだろう。こんなことをいきなり話されて、迷惑に思っているに違いない。申し訳なくなってまた視線を逸らす。
「そっかァ。ご両親忙しいのかな」
「そう、ですね。父は仕事があるし、母は、兄の看病をしているので」
「お兄さん、具合悪いの?」
「昔から病弱で……」
「……そっかァ。早く元気になれるといいね」
兄上が、元気になる。あまり考えたことがなかった。僕が生まれた時からずっと、兄上は病弱な人だったから。でも、兄上が元気になったら、僕と遊んでくれるかもしれない。一緒に勉強したり、運動したりできるかもしれない。何より、母上も父上も、僕のことを、見てくれるかもしれない。
「きみはたくさん我慢してるんだね」
「え……?」
「すごく偉いと思う。がんばってる。すごくがんばってるよ」
そんなこと、言われたこともなくて、思わず目を見開いた。
頑張ってる。僕は、ちゃんと頑張れてるのかな。ずっと、もっともっと頑張らないと、見てもらえないと思って。今はまだ、頑張りが足りないのだと、思っていて。
秋風が冷たく頬を撫でた。体が底冷えしていくようだった。噛んだ奥歯が、ギリと音を立てた。
僕の頑張りは、足りなくないのか。
「……僕が、ちゃんと頑張れてるのだとしたら」
「うん?」
「なんで、みんな僕を見てくれないんだ」
彼女が、目を見張るのが横目に見えた。ああ、困らせてしまっている。彼女は何も悪くないのに、迷惑を掛けてしまっている。そうわかってるのに、口が止まらない。唇が震える。喉がつぶれたように苦しい。幾年の時を経て少しずつ溜まっていったものが、ふつふつと溢れ出し、とうとう決壊したように、情動が零れ落ちる。
「なんで誰も僕を見てくれないんだよ!」
斜めに背負っていた打飼袋を解いて、階段下に力いっぱい叩きつけた。中に仕舞っていた紙がはらはらと飛び出しながら、地面に散らばっていく。授業参観のお知らせどころか、満点の答案も、剣術道場で貰った賞状も。こんなもの、何一つ意味がない。こんなものじゃ、誰も僕を見てくれない。見てくれないのに。
勢い任せに階段を下りて、今日返された答案用紙を乱暴に手に取った。それを右手左手で掴み、破り裂こうとしたところで──僕の手に、温かい手のひらが重ねられた。
「さみしいよね」
僕の心の中を見透かしたように。ぽつりと呟かれた言葉。答案を破こうとしていた力が、奇妙なほどに霧散していく。目頭や鼻に残っていた熱だけが、どこか浮いていた。
「きみはすごいよ。これ百点じゃん。すごく勉強したんだね。すごく、すごいと思う」
「……前にも、とった。けど、母上は、見ても聞いてもくれなかった。うるさいから、兄上の身体に障るから、騒いじゃ駄目だって」
「じゃあ、私が見るよ。聞くよ」
はっと意識に衝撃が与えられるようだった。思わず喉が詰まり、吐息が震えた。
彼女は膝に手を当てて中腰になると、真っ直ぐ、同じ高さから、僕と目を合わせた。大きな双眸が至近距離でしっかりと僕を見つめていた。僕のことを、見てくれていた。
「きみはきっと、すごくがんばってるんだと思う。だから、たとえ今哀しくても、辛くても、絶対にきみのせいじゃない」
まっすぐ、ひたむきで真剣な声だった。一途で曇りのない声だった。目の覚めるような、力のある声だった。
「誰が悪いだとか、時機のせいだとか、勝手に私が適当に言える立場じゃないけど。でも、きみは悪くない。もう充分にがんばってるよ。それだけは、絶対だと思う」
──今までの自分が、報われていくような気がした。
本当に見てほしかった人ではないけれど。出会ったばかりで、単純かもしれないけれど。僕は彼女の言葉に、酷く泣きそうな心地でいた。寂しさじゃない。安堵だとか、嬉しさだとか、言葉に表すことができない、胸の中で膨らむ感情だとか。色んなものがないまぜになって、僕の視界をぼやけさせた。だけど僕は立派な武士になる男だから、女性の前で泣くわけにはいかなくて、ぐ、と歯を食いしばって堪えた。
顔を隠すように俯くと、ポンと頭にあたたかいものが乗った。それが彼女の手のひらだと分かった頃には、わしわしと頭をなでられていて、うっかり思考が停止しかけた。頭、そう、頭を、なでられてる。やさしい手が、僕の心を溶かしていくように、なでていた。慣れない、全然慣れない感覚に、得も言われぬ心地を覚える。鼻の奥がつんとして熱い。ずっと手に持っていた答案用紙は、もうしわくちゃだった。
「もう日が暮れちゃうね」
彼女の手が、ゆっくりと僕の頭から離れていった。それが妙に惜しくて、名残を反芻するように自分の手を頭に軽く添えてみたけれど、なんだか足りなくて。
彼女は地面に散乱していた僕の荷物を纏めて渡してくれた。小さく礼を告げて肩に結び直す。彼女は顔だけはこちらを向けていたけど、体はすでに進行方向に向いていて、もう、今にもここを去ってしまいそうだった。少しでも引き留めたくて、慌てて口を開く。
「あの、」
「なあに?」
「……名前を、教えてください」
きょとんと目を丸めた彼女は、すぐに細めて「なまえ」と笑った。なまえさん、なまえさん。口の中で何度も転がす。なんだか少しくすぐったい気持ちがした。
「きみは?」
「……伊東、鴨太郎です」
「鴨太郎くん。よろしくね」
橙の光に染まった笑顔が、やけにキラキラとしている。それは新しい世界のようだった。僕をまっすぐ見つめてくれる眼差しが、どうしようもなくやさしくて眩しかった。
夕焼けが終わってしまう。帰る時間がやってくる。
「私明日もここ通るね」
「えっ?」
「気を付けておうちに帰ってね」
「は、はい」
打飼袋の結び目を思わず握る。もう一言、もう一言だけ。だけど何も思いつかなくて、あぐあぐと口を動かしているうちに、先に言葉を続けたのは彼女だった。
「またね、鴨太郎くん。きみの話、また聞かせてよ」
「……! はい、また!」
歩き始めながらも手を振って笑う彼女に、目いっぱい大きく腕を振り返す。僕はその背中が見えなくなってしまうまで、階段下の夕日の中にいた。
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