百夜さんと初めて出会った時のことは、あまりよく覚えていない。
 たしか自分は、とても幼かったように思う。幼稚園に入っているか否か、物心がついているか否かといったような年齢だった。
 百夜さんとは私の親が友人同士で、その縁に私は彼と引き寄せられた。親曰く、昔の私はそれなりに人見知りであったらしいから、もしかしたら初対面の彼を前に、親の後ろに隠れていたかもしれない。
 ただ、とても大きな、少し硬い手のひらに頭をなでてもらった、その感触だけは、今でもなんとなく覚えていた。

 それから二度か三度か、私は彼と会った。そのうち一度は確か、親が忙しい時で、祖父の都合もつかない日が重なった時に、預けられたんだったと思う。
 私を迎えてくれた百夜さんが、快活で情の深い、なんでも包み込んでくれそうな笑みを見せたことに、酷く安心したのを覚えている。ご飯の時間には私に美味しいラーメンを食べさせてくれて、私のお喋りや宿題に付き合ってくれて、とても良くしてもらった。特に、彼は本当に話し上手の聞き上手で、私はその時、子どもながらに悩んでいた、親にも上手く話せなかったような学校のこととかも、たくさん話した。私の拙い話しぶりを彼は面倒がることもなく、否定することもなく、うやむやに投げることもなく、真摯に受け止めて、聞いてくれた。
 家族と、学校の先生以外に、大人の人と名前を知り合って話す機会というのは早々ないもので。私はそういう相手がいることに、頼ることのできる存在が増えたことに、「家」と「学校」しかなかった子どもの狭い世界が広がったような気がしていた。

 何度目かに出会った時。「お父さん世代だけどお父さんではない」はずだった彼は、いつの間にか「お父さん」になっていた。
 重力に逆らったくせ毛が印象的な、小さな小さな男の子は、百夜さんのたくましい腕の中では一層小さく見えた。私は赤ちゃんという存在と接するのがほとんど初めてで、とても戸惑ったことをよく覚えている。

『千空ってんだ。ほぉら千空、なまえお姉ちゃんだぞ〜』

 百夜さんの紡いだその言葉に、一人っ子だった私は脳みそが溶けるような妙な衝撃を受けた。そっか、私、お姉ちゃんなんだ。
 背の高い百夜さんが私に合わせてしゃがみこみ、それにさらに合わせて私も床に膝をついた。同じ目線になった「千空くん」は、百夜さんに抱っこされたまま、宇宙みたいに綺麗で大きな瞳を不思議そうにこちらに向けていた。

『こ……こんにちは、せんくう、くん、なまえです』

 緊張に声を震わせながら呟くと、「千空くん」は短い首を少しだけかしげた後、お餅みたいにやわらかそうな、そのまろい腕をこちらに伸ばして、私の頭をゆるりとなでた。その手が本当に小さくて、やわらかくて、あたたかくて。突然の出来事に固まる私を見て、百夜さんはそれはそれは嬉しそうに笑っていた。

『ハハハ、千空はきっと、もうなまえお姉ちゃんのことが好きになったんだろうなぁ』

 百夜さんは、心根のあたたかい、本当によく笑う人だった。いつも心から楽しそうな笑顔を浮かべていた。豪快に口を開けて、目を細めて、眉を下げて。それは他者にも幸せをもたらすような、やさしい笑みで。
 頬が熱くて、胸の内がドキドキしていた。それは幸福を思わせる心臓の高鳴りだった。目の前の親子、二人分の熱を受けて、私を包む世界の色は瞬く間に変わっていったのだ。







 お手製の簡素な靴は、現代のものと比べれば当然粗製で、舗装されていない道を踏み締めるのはかなり体力を消耗するものだった。普段から何気なく使っていた靴は、人間がより楽に、歩きやすくなるために、無数の工夫が施されていたのだと改めて感じていた。
 見慣れない服を身に纏った、見慣れた背中を追いかける。着心地の気になる服の中で、なまえはひたすら足を動かした。もう五つほど幼ければ、その手をつなぐ口実がまだあったのになと、不安定な心地の中でなまえは思う。
 文明の滅んだ夜はとても暗かった。星々の明かりは美しかったけれど、人工の街灯の代わりとするにはまるで足りない。今のなまえの、何よりもの道標は、自分より幼いその背中ただひとつ。
 ほどなくして着いたそこには、無数の石碑があった。木の影になることもない開けた場所で、静謐な月の光を浴びていたそれらは、『建てられていた』ともなかなか形容しがたい出で立ちで、けれどもそこ一帯が、ある種の神聖さに満ちていた。
 似たような石をいくつも通りすぎながら、やや勾配のある地面を進んでいく彼に、なまえは口を閉ざしたまま続く。一番天に近い場所で、彼が歩みを止めた。ちらりと振り返る彼の、額に走る稲妻のようなヒビは、とても見慣れない。
 なまえは彼の隣で足を止め、自分の背丈よりもずっと小さなそれを見下ろす。どれほど近づいてみても、やはりそれはただの歪な石だった。磨かれているわけでもない、名すら掘られていないそれに、しかし籠められているのは抱えきれぬほどの意味だった
 ただただ黙って、なまえはその前にしゃがみ込んだ。線香の一つもない。手に持っていた、そこらへんで詰んだ小ぶりな野花を三輪、静かに置いた。
 空いた両手を合わせて目を閉じた。思い浮かぶ、かつての情景に、なまえはほんの少しだけ唇を噛む。
 しばらくして、なまえは合わせた手をそっと離して立ち上がった。伏せていた瞳を開けて、振り返る。

「千空さん」

 喉に力を込めて、なまえは千空の名前を呼んだ。彼のことを、まっすぐ見つめた。彼はほんの少しだけ、驚いているようになまえには見えた。

「なまえ、」

 何かを紡ぎかけた千空に両手を伸ばして、なまえは一歩踏み出すと、その細身の体をゆっくりと抱き締めた。とうの昔に越された身長。自分より高い位置にあるその頭を、片手で後ろからなでる。何度も、何度も、眠っている赤子にそうするように、そっとなでた。もう片方の、彼の背中に回した手に、次第に力が籠る。彼を離してしまわないように、決して彼がどこかへ行ってしまうことのないように、必死だったのかもしれないと、なまえは頭のどこかで思っていた。
 背中に、そっと熱が返ってきた。微かな震えの中、恐る恐る、壊れ物を扱うような力だった。あたたかくてやさしいところが、親子ともども、よく似ていると思った。
 石化からの復活を遂げてから、これまでのことは概ね聞いていた。
 あの日『光』に襲われて、時が止まり続けた人類からたった一人きり、この世界に目覚めたこと。半年後に目覚めた友人、大木大樹とともに、試行錯誤を重ねて石化を解く復活液の作り方を見つけたこと。霊長類最強の男、獅子王司とのこと。この村に来てからのこと。コハクやクロムといった少年少女たちと共に、巫女・ルリの命を救ったこと。そのルリから聞かされた、長きにわたり伝承される百物語──そして、村の始祖である男のこと。

 ──私は、百夜さんのことが大好きだった。
 ──千空さんは、その何十倍、何百倍、何千倍、きっと、ずっとずっと、百夜さんのことが大好きだった。

 目頭が極度の熱を持った。こめかみの近くが厭に震えた。気道が収縮した。頬が冷たかった。なまえはただただ、喉を潜ろうとする声を殺して、千空を抱き締め続けた。

 月が綺麗な、澄んだ夜だった。
 どちらからともなく、二人は互いの体温をそっと離した。それから自身の目元を一度だけ拭ったなまえは、夜風が目に染みたのだとでも言おうと思ったが、あいにく今宵は凪いでいて、その言い訳はどうにも使えそうになかった。

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