「えっと、びゃく……お父さんから聞いてはいると、思うんですけど……」
何事も最初が肝心。第一印象が大事。世の中では常々そんなふうに言われる。だからせっかく事前に挨拶を頭に浮かべていたのに、変にどもってしまったのは想定外だ。
石神千空くん。私の親の知人である、石神百夜さんの一人息子。たしか、これから小学六年生になるんだったか。私よりずっと小柄な彼は、ラフなTシャツの上に、子ども用の白衣を纏っていた。
宇宙飛行士の選抜試験に合格した百夜さんが訓練で不在の間、私は縁あってこの少年の面倒を見ることになった。要は、家政婦のアルバイト。私は彼の『お手伝いさん』として、今日から週に数回、このお宅に訪れる。
「みょうじ、なまえです」
たたきと上がり框の高低差があっても、まだ少し、彼のほうが目線が低い。わずかに屈みながら名前を告げると、彼はさも興味なさげに「ほーん」と耳に小指を突っ込んだ。その、なんたるふてぶてしさ。豪胆といえばそうだけど、私の肩身を狭くさせるには充分だった。
それでも──いつかに出会った、あんなに小さく、まるい頬をしていた子が、いつの間にかこんなに大きくなったのか。子どもの成長というのは本当に早くて驚いたけれど、あの逆立った髪の毛の、白と緑の美しい色合いは健在で、何よりの本人証明だった。
「えっと、いきなりはじめましての人が来て、困るかもしれないん……ですけど……」
「はじめましてじゃねーだろ」
「覚えてるの?」
「ククク、んなわけねーだろ。何歳だったと思ってんだ。ただ、昔会ったことがあるって百夜が言ってたからな」
初めて口元に笑みを浮かべた彼が、事も無げに発した言葉に、ドキ、と心臓が動くのを感じた。
(お父さんのこと、百夜、って呼んでるんだ)
そっか。そう呼んでもいいものなんだ。そりゃ、そうか。家族にも色々な形があるものだし、まして呼び方なんて些末なことだ。だけど、自分のお父さんをそんなふうに呼ぶ人にこれまで出会ったことがなかったから、また一つ、なんと言えばいいのか、自分の世界が広がった気がして、ドキドキしていた。
「俺は微塵も覚えてねェ。でもテメーがはじめましてじゃねーんなら、俺側に合わせることはねェってこった」
「う、ん……」
今度は居心地の悪さとかじゃなくて、感嘆の気持ちが邪魔をして上手く言葉が出てこなかった。すごいな、この子は。とても大人びていて、聡明で、そしてやさしい人なんだと感じる。これから、少しでもこの子の役に立ってあげられるように頑張りたいなと、漠然と、思った。
「なまえ」
「えっ、あっ、はいっ」
敬称をつけてほしいというわけではないけれど、まさか名前を呼び捨てにされるとは思わず、つい声が上擦った。
「とりあえず上がれや。色々案内すらぁ」
「お、お邪魔します」
廊下の奥を顎で示す彼に、慌てて靴を脱いでついていく。千空、くん。いや、千空さん? お金をもらうわけだし、そもそもこの年頃の男の子はきっといろいろ難しいだろうから、下手に距離を詰めると拒絶されてしまうかもしれない。彼に嫌われては差し支えるから、あまり干渉しすぎないようにしたほうがいいのだろう。
ここが洗面所と風呂、こっちが百夜の部屋で、ここは俺の部屋。勝手に掃除してくれて構わねぇけど、なんか捨てる前には声かけてくれや。彼はそんなふうに説明を重ねていく。
通してもらったリビングはほどよく整頓されていた。百夜さんはこの子を引き取る前からこのアパートの一室に住んでいたから、間取りはなんとなく覚えていたけれど、部屋の中はあちこちが変わっているように見えた。あの頃は確か、もう使われていないらしいベビーベッドがまだ部屋にあって、中にロボットの見た目をしたぬいぐるみが入れられていたのを、どうしてかそれだけはよく覚えていた。私は、もう必要のないものが部屋を圧迫していたことに、子どもながらに首をかしげていたけど、今思えばあれは、きっと、この子と一緒に引き取って、それで、捨てることができなかったのだろう。
リビングの中は、壁に額装されて飾られた賞状だとか、コルクボードに貼られた写真だとか、テレビ台に置かれた、何かのおまけで付いてきたようなドラえもんの小さなフィギュアたちだとか、そこかしこに、百夜さん一人ではなくて、この親子が長年住んでいる家なのだという変化を伴っていた。私が大きくなるにつれて、百夜さんにお世話になる理由はなくなってしまったから、幾年分の流れを、静かに感じていた。
「……あの、千空、さん。今日からよろしくお願いしますね。何かあれば、何でも申し付けてください」
エプロンやら必要そうなものを詰めてきた鞄を足元に下ろして、千空さんに向き合う。お節介とか、鬱陶しいとか、思われなければいいんだけど。距離感の掴み方が、まだいまいち分からない。
「おー。じゃ早速だがこっちきて手伝ってくれ」
「はい?」
間髪を入れず切り返した千空さんは、私が悩んでいた事柄には驚くほど関心がなかった。ニタ、と愉楽的で、ちょっと自信げな笑みは、百夜さんがたまに見せたそれに少し、似ていた。
「手伝ってくれるってんならおありがてぇ。実験が複雑になるほど、マンパワーは必須だからな」
「実、験」
百夜さんから事前に聞いてはいた。彼は、授業中に図書館で借りた科学本を読み漁るくらい、そして自分で数々の実験を重ねていくくらい、無類の科学好きなのだと。だけどなんだか、思っていたのと、その規模が違う、ような。そもそも私は、まず時間帯からして昼食の用意をすればいいのかな、なんて考えていたのに。
「これから俺の『お手伝い』、よろしくな」
「は……はい……」
想定とはかけ離れたお手伝いが始まる気配に、私はそう返すだけで精一杯だった。
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