最初に見た時は、まあ驚いたものだ。
あの顔、あの声、立ち振る舞い。何から何まで全てが「彼」を、あの彼だと示していた。だけど「私」のことを彼は知らないし、必然「彼」も知らない。そして「私」もまた、「彼」のことは知らない。だからやりやすいものだった。
「私」はただ、「彼」を初めましての店員さんだと思えばいい。ほんの少し時間が重なっただけの、他人だと思えばいい。それは彼も私も、望んでいるところだ。
「安室さん、そういえばこの間の試作品、マスターもすっごく絶賛してましたよ!」
「わあ、本当ですか! 嬉しいなぁ」
いや誰だあれ。
違うな、落ち着こう。だって、今梓さんに安室と呼ばれた「彼」は、決して彼であってはならないのだ。そうでなければ、わざわざ偽名を使って喫茶店のアルバイトなんて始めるはずがない。だけどそれにしたって、私の知り得る限りの彼はあんな甘やかな顔や声で愛想よくする男ではなかったから、どこかちぐはぐに思えた。
「彼」、安室はごく自然そうな様子で、カウンターに座る私の方に僅かに距離を詰めた。そういえば先ほど梓さんになにか耳打ちしていたけど、こちらを一瞬見ていたあたり、恐らく私の存在を怪訝に思って詳細を訊いていたのだろう。仕方ないことだ。私だって、アルバイトに入った喫茶店で「私」のような客がいたら気に掛けるに違いない。
カウンター越しに、安室は濡れたカップを布巾で拭いている。照明を受けて煌めく金髪や、綺麗な青を嵌め込んだ垂れ目や、すらりと整えられた体格は正しく彼で。甘く穏やかそうな目元や、全身から滲む親しみやすそうな愛想の良さは、知らない誰かだった。
「彼」は単なる店員A。「私」はただの客B。
それ以上でもそれ以下でもない。関わることはない。
しかし、私はここで行動をしなければならなかった。なぜなら彼が「安室」という男を装っているのと同じように、私も「私」を演じなければならないのだ。「私」はここ喫茶ポアロの常連で、店員の梓さんとは仲が良くて、決して「彼」がバイトに加わったからといって不自然に足が遠のくような人物ではない。これも必然、「私」は今後も顔を合わせることになる「安室」に、気になったように声を掛けるはずなのだ。
「おにーさん。探偵のひと?」
「えっ?」
子どもらしい高く甘い発音で、子どもらしからぬ聡明そうな思考で、「私」は「彼」のことを探る。それが、一番「私」らしい動き。後から怪しまれるくらいなら、初手で仕掛けておくべきだ。
「正解だよ。誰から聞いたのかな?」
「江戸川くん、いってた。こごろーおじさんに弟子入りした探偵さんいるって」
女優でもあるまいし、常時真っ当な子どものフリなんてできやしない。私はなるべく私を隠さないまま、少しでも年相応な子どもらしさをつぎはぎにくっつけて、存在しない「私」を作り上げる。
「その通り。でもそれが僕だってよくわかったね」
「ここバイト募集してなかったのに、おにーさん新しく入った。ここがいい理由があるからでしょ。ここの二階、こごろーおじさんの探偵事務所」
「へえ……すごいね、君は」
まさかその物好きが、彼だとは夢にも思ってなかったけど。だって彼の顔を見たのは、何年も前のあの日が最後で、それきりだった。
「梓さんから聞いたよ。君、コナンくんとお友達なんだってね」
「同じクラス。おにーさん、お名前は?」
「僕は安室透だよ」
「あむろとーる……」
それが今の「彼」。決して「彼」が隠した昔の彼を、私が手前勝手に暴いてはいけない。かつての名に上書きするように、安室透の名を舌の上に刻み込む。そこに残りのコーヒーを流し込んだ。
透明な伝票立てから中身を抜き、「私」には高すぎる椅子からぴょんと飛び降りる。座高が足りない「私」に梓さんがいつも用意してくれるクッションを、座面からずるりと下ろした。レジの梓さんに返しに行く前に、カウンター越しの「彼」をぐっと見上げる。もとより背の高かった彼の顔は、さらに遠くへ離れてしまった。
「私、いつもこの曜日に来てる。またね、とーるおにーさん」
「……ええ、また。またね」
またねだってさ、お互いに。全く奇縁なものだ。そんなことをまた言う日が来るなんて思ってもみなかった。
彼の今を知らない。きっと私は知る由もないし、仮に訊いたところで教えちゃくれないだろう。
それでも、思いがけず顔を見れてよかった。彼はいつだって真面目で、自己に厳しくて、人一倍努力をする人だったから。私が「私」になってからも、彼は記憶に棲み続け、時折顔を出していたから。
彼のほうはきっと、あれから私のことなんて思い出しもしていないだろう。それでいい。私のことは忘れればいい。思い出しても会えない人間など、一人でも少ないほうがいいのだ。彼が会えなかろうと思い出す顔ぶれの中に、私は要らない。そのほうが私は、息をつける。
ああでも、隈隠しのコンシーラーが必要らしいあたりは、あまり安心できないかなぁ。
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