幼稚園の頃からの幼馴染がいる。
腐れ縁と言ったほうが正しいかもしれない。小中高までずっと同じ学校で、何度もクラスメイトになって、クラスの人数よりクラス自体の数のほうが多い高校時代ですら一度被った。
彼とはクラスが同じでも違っても、同じような距離感が続いていたと思う。休み時間や昼食時や放課後にちょっと駄弁って。たまに忘れ物をしたら頼って、極々まれに──これは本当に数えるくらいしかないけど──休日に二人でどこかをぶらついたりして。
彼は子どもの頃からフィギュアスケートに打ち込んでいた。学生が遊んでいるような時間や時期も、練習やら大会やらで忙しいことが多かった。たまに空いた貴重な休みは、都合がつけば彼がベタ惚れしてるいとこたちと過ごしているらしかった。そのくらい、スケートで忙しない日々だったようだ。
詳しくは知らない。うちはテレビもあまり見ない家庭だったし、スケートにも大して興味はなかったから。ただ、JPNの誰もが知ってそうなくらい有名になった頃には、流石に色んな拍子に彼の姿を見た。ネットニュースとか、書店に並ぶ雑誌の表紙とか、歯医者の待合室で流れるテレビとか。
正直、すごいと思う。そこまで技術を磨き上げて、なお慢心もせずトレーニングに日々を費やすストイックさ。努力を続けられるのは才能だ。彼のそういうところは尊敬しているし、好ましいと思う。
ただ、それだけ。
*
「か……神名先輩に、渡してもらえませんか……!」
またか。漏れそうになったため息を耐えて飲み込む。
いくらデジタル化が進もうとも、絶えることのない紙文化。手書きのほうが気持ちが伝わるなんてことは敢えて思わないけど、それでも気持ちを綴るのに、自分にしか書けない文字で作り上げる、手紙という手段を選ぶ人はまだまだいる。──と、数感が分かるくらいには、彼宛の届け物をよく預かる人生だった。
「あの……先輩が、神名先輩とおしゃべりしてるのを見たことがあって……でも、えっと、恋人ではないようだったので……」
「まあ、そうだけど……」
神名は、それはそれはモテた。幼稚園児の頃から王子様然とした(他人談だ)振る舞いで、周りの女子を虜にしていた。あの頃から、女も男も関係なく、彼を好いている人は多かったように見える。
たしかに神名は、見目がよければ中身も落ち着いていて大人っぽくて、印象はいいのだろう。だけど顔も知らない──私は今でこそ「知っている」けど──いとこの兄妹について延々と語ったり、わけわからん天然ボケをかましたと思ったら一人で納得されたり、負の感情に疎いせいか妙に人の気持ちが汲めていなかったり、こちらを置いていくようなズレたところが多々あった。
大勢の人が、彼を大人っぽくてかっこいいという。美しくて完璧だともいう。物語の中の、淡い微笑を浮かべる氷の王子様のように、浮世離れしたように感じている。
「……預かれるけど、本当に他人に預けちゃっていいの?」
「え……」
「スケートのことばっかり考えてる奴だし、どうせ気持ち伝えるなら直接渡したほうが印象に残ると思って」
「で、でも、それなら尚更……私が視界に入るなんて、おこがましくて……! 返事も要らないって、伝えてください……本当に、気持ちを伝えられたらそれだけで充分なんです……あんなにすごい人、どのみち振り向いてもらえないだろうし……」
「……そう」
それは、ある種の神聖視にさえ感じられた。他人の想いを無碍にするつもりもないので、手紙はちゃんと預かったけれど、紙の重みなんて大したことないはずなのに妙に心にのしかかる。
手紙を預けた彼女は、真っ赤な顔で、恥じらいながら、だけどそれは嬉しそうな、期待とときめきを膨らませたような色合いの笑顔で礼を言って去っていった。
ただの、スケートとカードゲームといとこオタクなだけの奴だと思うけどな。筆跡もヘロヘロだし。
「神名」
「ん? お前か。どうした?」
神名は英語のアプリで問題を解いていた。彼は国際大会に備えて、小学生の頃から英会話スクールに通っていた。今はどうだったか忘れたけど。それに私も親が海外で働いていた影響で英語にはそこそこ触れてきたから、たまに一緒に勉強することもあった。
それにしても、ここ数年で翻訳アプリはどんどん発達してきているし、最悪英語が話せなくてもどうにかなる。それでも自ら時間を作って学び続ける様は、相変わらず真面目な奴だ。
「これ、一年の女の子がお前にって」
「預かってくれたのか。いつもありがとう」
「はいはい……その子、返事要らないとは言ってたけど」
「そうなのか? でも、せっかく手紙に想いを込めてくれたんだ。俺も手紙で返すよ」
「ふうん」
やっぱり、こういうところだろうか。まったく罪な男だ。
*
「夏祭り?」
想定し得ない誘いに、思わず手元の商品をおいて聞き返す。空調の効いたコンビニ。軽快なBGMが流れる中、神名はいつものぼんやりした表情で頷いた。
「ちょうどスケジュールが空いているんだ」
「いとこたちは用事があったの?」
「?」
きょとんとする彼に、ますます困惑する。祭りなんて、お前の溺愛するいとこと行くべきものだろう。だから「そうだ。残念だ」くらい返ってくると思っていたのに。アイスのショーケースの蓋を一度閉めながら、彼の返事を待つ。
「いとこには声は掛けていないぞ」
「……なんで?」
「なんでって……なんで?」
心底不思議そうにしていた。なんでって、こっちの台詞だ。だってお前は、暇さえあればいとこを優先するような、親馬鹿ならぬいとこ馬鹿だろう。祭りなんてイベント、いとこを差し置いて行きたい相手がいるわけがない。そう思っていたのに。
「お前と行けたらいいと思って、お前を誘ったんだが……迷惑だっただろうか」
「いや、別に……暇だし、行く」
「そうか、良かった」
いつも泰然自若とした神名の、珍しく少し肩を落とした様子に、胸が痛んだわけではない。本当にその日が暇で、祭りも嫌いではなかっただけ。たまには行ってもいいかなと思っただけだ。
神名は吸うタイプのバニラアイスを、私は昔ながらの棒アイスを買って店を出る。容赦無い外気温が、せっかくクーラーで冷えた体を再び覆った。
「私もそっちにすりゃ良かったかな……」
「ん? 一口食べるか?」
「いや、棒アイスすぐ溶けるから」
「ああ、なるほど」
溶けないうちにとっとと食べよう。制服にでも垂れたら面倒だ。
私はアイスを齧りながら、神名はパウチの口を咥えながら、再び歩き出す。常に同じ学区の私達は当然家も近くて、帰り道も途中まで同じだった。高校は流石に別れるだろうと思っていたけど、こちらの志望校と神名のスポーツ推薦が被るとは、どこまでいっても腐れ縁だと思う。
「俺だって、常にいとこの予定に自分を食い込ませようとは思っていないぞ。いとこだって、友人と予定を立ててるかもしれないしな」
「珍しく謙虚じゃん。どういう風の吹き回し」
「強いて言えば雪風だな」
「……」
「滑ったか。スケートなだけに」
「……」
反応してはいけない。アイスを齧ることに集中する。容赦なく照りつける太陽に、雫が下から垂れそうになっているのに気づいて、慌てて上下を返して雫を表面に散らした。
神名は飲むアイスを美味しそうに啜っていた。アスリートなだけあり、普段から口にするものには気をつけているらしいから、アイスなんかはしょっちゅう食べられないのだという。色々大変そうだ。私には無理だ。アイスなしで夏は越せない。
祭りの日も、きっとある程度決まったものだけを食べるのだろう。厳しい制限の中、ストイックに頑張る姿は、私には計り知れない苦労を味わっているに違いない。それでも、そういうのを大きな苦痛と思わない鷹揚さとポジティブ変換はやっぱり、類まれな才能の一つだと思う。
*
キャップを目深に被り、目元には太めのフレームの眼鏡。日が落ちてもまだまだ暑いし、どうせ食べる時に外すことになるだろうから、今日はマスクはしていないらしい。人相は隠れても、長身な分彼は普段それでも少し人目を引く。だけどこうも人が多いと、流石に埋もれるようだった。
「ん、うま」
「ああ、うまいな」
そこかしこから漂うソースやら焼けた肉やら、味の濃そうな香り。近くから聞こえる祭囃子。賑わう人の声。そういえば、祭りに来たのは久しぶりかもしれない。神名に誘われなかったら、今年も行かなかったかもな。手元の餃子に似たおやきをかじりながら、そんなことを思う。
「初めて食べたな。シャーピンだっけ? こういうのお前も作れる?」
「できると思う。今度作ってみよう。味見してくれ」
「よっしゃ。楽しみ」
神名は料理が上手い。放任の親に渡された外食代で、いつも材料を買い込んで手作りしているらしい。昔はなかなか上手くいかない、今日も失敗したなんてよく言ってたけど、最近ではもう特技の一つになっていた。彼は結構何でもできるけど、そうなれるまで努力を継続できる真面目さあってのものだ。
惜しむらくは、彼の父親がそれを知らないことだろうか。振舞ってみればと伝えたこともあったが、父も忙しくていつも外で済ませているからとか、料理する時間があったら休むよう言われるかもとか、もごもご言っていた。彼はスケートの指導者である父親と、折り合いが悪いとまではいかずとも、あまり円滑な関係とも言えないらしかった。どちらも器用ではないのだ。
「あ、」
予期せぬ突風だった。暑かった分助かると思ったのもつかの間、視界の端で、見慣れた黒いキャップが浮き上がるのが見える。私も神名も片手のシャーピンに気を取られていたから、咄嗟に対応できない。
こんな人混みで、バレて騒ぎにでもなったら面倒だ。
「持ってて」
「わっ」
神名の片手にかじりかけのシャーピンを押し付け、軽く駆け出した。スカートじゃなくて良かった。空高く舞った黒を追いかけ、ごった返す人混みを縫っていく。そのうち帽子は勢いを失って降下した。石畳に視線を落としながらしばらく小走りでいると、誰かに踏まれることもなく、丸い形を保ったままのそれを見つけた。
汚れたかは分からないけど軽く手で払いながら、歩いて神名のもとに戻る。彼はダブルおやきを顔の近くに抱える不審者となっていた。顔を隠しているつもりなのだろうけど、正直戻って声掛けたくねーなと思った。
「ほらよ」
無事回収したキャップを銀の頭に深めに戻してやると、「ん、ありがとう、助かった」と彼はおやきを下ろす。それから、少し申し訳無さそうに眉を歪めた。
「ひとつ謝ることがある」
「なに? 別にちょっと走ったくらい腹ごなしだけど」
「いや……どちらがお前のシャーピンかわからなくなってしまった。俺のは右手だったか?」
「……」
咄嗟だったからどちらの手に渡したかなんて覚えてない。齧ったサイズもよく似ていて、もはや見分けは付かなかった。
「まあどっちでも同じでしょ」
「そうだな」
神名もそう細かいことは気にしないタチだし、私は適当に左手のほうを返してもらった。
「あ」
それから何件か屋台を練り歩いた先で、神名の視線がふと止まった。
「どした」
「右端のあれ、いとこが好きそうだと思ったんだ」
「ふーん。やる?」
「いや、射的は経験がなくてな。恐らくかなり待たせてしまうことになるだろう」
「どうせやるなら取れるまでやる人間の台詞だ……」
やるからにはやるタイプというより、いとこ絡みだからだろう。落とすまでにどれほど掛かるか、想像つかない。下手に沼って散財しそうにも見えたが、他人の懐事情を心配するほどお節介なつもりもない。
「すみません、一回」
「あいよ」
神名はもうやる気満々のようで、早速電子マネーで支払いを済ませていた。お目当ては一番右端、スーツケース型の小さな小物入れか何かのようだ。本当に中身空だろうな。重石入れてたら訴えてやろう。しないけど。
コルクを詰め込み、銃を構える。「おっ、兄ちゃん様になってんなぁ、いい構えだ」「そうか、ありがとう」店主の野次にさらりと答える神名は、乗せられていることに気づいていないようだった。もっと脇を締めないとブレるし、もっと身を乗り出していい。顔を寄せてこっそり耳打ちしてやると、神名は少し驚いてから静かに構えを修正した。
結果はまあ、惨敗だ。全弾かすりもしなかった。神名は諦め悪く追加料金を支払う。「なかなか難しいだろ」店主の親父は少し得意げにニヤニヤとしていた。
「はい」
「ん?」
「多分、お前のほうが上手いだろう。頼む」
「いやいや……」
前触れなく渡された銃に、眉間にしわが寄るのを感じた。神名は至って真剣な顔で、だて眼鏡越しにこちらを見つめている。まあ、いいか。確かにお前よりかは、いくらか自信はある。
昔、親と夏祭りに来た時。どうしても欲しい景品が射的屋にあって、親にコツを教えてもらって自分で撃ち落とした。ああ、懐かしいな。あの頃は毎年のように祭りに参加していた気がする。
選手交代した私達に、親父はおっと目を見張った。それから品定めするように私を見て、少し表情を引き締めている。そう簡単には渡すまいと言いたげだ。
「頑張れ、お前なら落とせる」
「はいはい」
記憶を辿りながら、落ち着いて銃を構える。呼吸を整えて、力を抜いて、手元のブレを減らす。まっすぐに狙いを定めて、息を止めて、引き金を引いた。
「本当にありがとう。きっといとこも喜ぶ」
無事景品を手に入れた神名は、自分のものにするわけでもないのに、心底嬉しそうに頬を緩めていた。いとこの嬉しそうな顔を浮かべているのだろう。どこまでいってもいとこオタクだ。
「ちゃんとお前からだと伝えておく」
「いや私からではないでしょ。お前の金だし。お前がいとこが好きそうって言わなかったら取らなかったんだし」
「じゃあ、俺が選んで、お前が代わりに取ってくれたんだと伝えておく」
「クソ真面目だね……まあ、お前がいいならいいけど」
「やさしいな、お前は」
「はあ? 意味わかんね」
「ははっ、素直じゃないな」
神名は腕で口元を押さえて笑った。この上品な仕草を、一体どれほどの人間が知っているだろう。彼はいつだって自然体に見えて、少し抑え気味なところがあった。親の前で、自分の意見を押し込めがちな名残だろうか。そういうところが、次第に減っていけばいいと、私は長年思っている。
*
「あなた、神名くんの何なんですか?」
こういうことも、ある。
大体忘れた頃にやってくる。神名を慕う見ず知らずの人間に、想いを伝える協力者としてではなく、自分の恋路を遮る障害として認識される。私の知ったことではない。私はあいつの恋人ではないのだから、こちらに敵意を向けられたって困る。そんなふうに浮かんだ言葉をそのままぶつけたって、火に油を注ぐだけで、私に得は一つもないのでまるっと呑み込む。
「付き合いが長いだけの、ただの同級生ですよ」
一番角の立たない返しは決まってこうだ。「ただの」はなるべく強調する。こう言えば大体の人は、安心したように、あるいは満足そうにする。
気になる相手に近しい存在をライバルのように思うのも致し方なかろうけど、行儀が良くない振る舞いを私があいつに告げ口するとは考えないのだろうか。もちろん、実際にはそんな話のこじれることはしないが、皆随分と私を信用してくれるものだ。あるいは、そんな考えも及ばないほど純粋に、恋に夢中なのか。
「なら、少しだけ協力してほしいです。あまり彼に近づかないでくれませんか。私、神名くんが好きなんです……あなたがいると、私は余計な心配をしてしまうし、神名くんに声を掛けるタイミングも失ってしまう。あなたは、神名くんに恋人ができても問題ないんですよね?」
「……そうですね、善処します」
そしてこう言う。できる限りは頑張るけど、できない分は目を瞑ってもらう。あとはいつも通りにすればいい。「いつも通り」以外は、できないという言葉遊び。私は私への配慮に欠ける、親しくもない相手のために、大きく行動を変えたり心を砕く必要はない。
「……あなた、馬鹿にしてるんですか?」
あ、珍しいパターンだ。ここまで従順に、相手が欲しそうな言葉を渡しているのに、なお噛みつかれるとは思っていなかった。そんなつもりは、と軽く首を振るが、彼女は腹立たしそうに目元をつり上げた。
「神名くんと仲が良いからって、余裕ぶって。私がフラれると思ってるんでしょう」
まあ、その通りだ。あいつの世界の大部分は、スケートといとこが占めている。新たに恋人が入る余地など、多分ほとんど残されていないって、本人を見ていればわかる。
それに、元々私は神名と四六時中いるわけじゃない。それでも彼女の中で私が目立ったのは、私といる時の神名の様子を見てのことだろう。それはつまり、私という存在を前に、自信のなさを自覚した証拠だ。
神名が誰と付き合おうがどうだっていい。そんなことで、あいつは変わらないし揺らがない。つまり私にも影響はない。
だけど、仮に彼女があいつと付き合えたとして、きっと一ヶ月も持たないだろう。あいつは本当に、心の底からいとこたちを愛しているから。彼女のようなタイプは、恐らくそれに耐えられない。話を聞かされるたびに苦しくなって、自信を失くして、きっと自ら離れていく羽目になる。同情を禁じえない。
まあ、だからこそ、神名は恋人を作ったりしないのだろうから全ては杞憂なんだけど。
「あなた、何等級? 大してオーラもないし、あの神名くんに釣り合うと思えません。隣にいて恥ずかしくないの?」
いや、私のスペックは関係ないでしょうよ。釣り合いって、互いに居心地が悪かったら、とっくに離れているはずだ。
たしかに神名は私と違って努力家で、ひたむきで、優秀で、おまけに他人にもやさしいけど。それはあいつがめちゃくちゃ頑張っているからだ。大して頑張ってもない私が、劣等感なんて抱えるのもお門違いだ。同じだけ努力をしてから持つべきだ、そういうのは。そして私にそこまでの向上心や情熱はない。ハナから立っている舞台が違うのだ。
言いたいことは言い切ったのか、彼女は今一度私を睨みつけてから、手入れのされたとても綺麗な髪を翻して去っていった。
私は何も言い返さなかった。
「おかえり。どこに行っていたんだ」
教室に戻ると、神名一人だった。氷みたいな銀髪を橙に染めていて、絵画のようだった。最近は、日が落ちるのが随分と早くなってきた。
「別に……てか待ってたの?」
「放課後、買い物に付き合ってくれるという話だっただろう。いとこへの誕生日プレゼント、たまには普段と違うものを買ってやりたくてな」
「ああそういや……」
さてどうするかな。さすがに今日の今日は、さっきの人から大きな反感を買うだろう。まあでも、神名は世間に顔が割れてるから今日も変装するだろうし、早々バレないか。一応、往路だけ別々に行くかと考えて「一番近くのデパートだよね。先に行ってて、すぐ行くから」と提案すると、神名は不意に黙り込んた。髪と同色の、銀世界のような睫毛が三度ほど瞬いたところで、彼は静かに唇を開いた。
「なにかあったか?」
天然でボケているように見えて、人のことをよく見ている人だった。自分に余裕がない時だって、他人を気に掛けられるような奴だった。鈍感で、他者の悪意にもなかなか気が付かないところがあった。
「大丈夫、何もないよ」
「……そうか。それならいいんだが」
私がこういう絡まれ方をしていることを、きっと神名は知らないだろう。いつも彼のいないところで片をつけてきたから。そして同じ学校に通うのも、きっと今が最後だ。卒業すれば、きっとこの先も彼は知らないまま。
それでいい。
*
高校を出てからは会う機会がぐんと減ったが、それでも神名とはたびたび顔を合わせていた。私は学業やらサークルやらアルバイトやらでそれなりに忙しない日々だったが、大体向こうのほうがずっと忙しいから、たまに彼が余裕のある時期に声を掛けられる形だ。連絡自体はそれなりに取り合ってたけど、これお前が好きそうなレシピだとか、今度どこそこの国に遠征だとか、いとこに久々に会えたとか、昨日のドラマ見たかとか、そういう取り留めのない話が多かった。
「最初に乗せるのはお前と決めていたんだ」
「ふうん。身内は?」
「父さんやいとこは、完璧な運転ができるようになってから乗せたい」
「はいはい練習台ね」
隣に座る神名はハンドブレーキやシフトレバーをきっちり確認して、ブレーキを踏みながらゆっくりエンジンを掛けた。一つ一つの動作がまどろっこしいほどに丁寧で、彼の性格をよく表していると感じた。
「教習所の車とは違うから少し心配でな。お前が助手席にいてくれるのは心強い」
「つっても、私もそんなにバンバン運転してるわけじゃないけどね」
「それでも、高校卒業してすぐ取っただろう。俺からしたらベテランドライバーだ」
「いやそんな差ないから」
インタビューが苦手だからといって、質問パターンを三桁とか集めて備えるようなクソ真面目だ。しかも私を巻き込んでリハーサルまでした。いくつランダムで質問を飛ばしたかわからない。
そんな奴は、多分絶対に事故ったりしない。今だって、教習本をわざわざ持ち込んでいるレベルだ。べたべたと付箋も貼られて、押さえなくても表紙が少し浮き上がっている。たくさん読み返したのだろう。本当に、努力の鬼だ。私には到底真似はできない。
「ここらへんの道路は全てマップやストリートビューでおさらいした。お前が行きたい所にどこへでも連れて行けるぞ。どこに行きたい?」
「えー……じゃ、ファミマ」
「一分圏内なんだが……そうだな。まずは少しずつ慣らそう」
「そうしろそうしろ。ついでにお菓子でも買うわ」
「ああ、いいな。遠出に菓子はつきものだからな。500円以上買おう」
「はいはい」
「あと、練習したいというのもあったが、お前を一番に乗せたかったのは、お前だからだよ」
「……はいはい」
全然、答えになってないけどね。
*
現状がずっと続くことなんて、生きている限りはあり得ない。単に長いか、短いかだ。
「なんかあった?」
神名の料理は相変わらずレベルが高かった。自分で作るよりずっと美味しい。彼の料理を食べるのは社会人になってからは初めてで、いつまで経っても好きな味だった。次に食べられるのは何年後になるか分からないから、よくよく味わって食べることにする。
だけど『作りすぎたから食べに来てくれ』なんて唐突に誘われたのは、多分今までなかったことだ。食卓いっぱいに並ぶ主菜や副菜に、無心で作り続けたのだろうと察した。
「……いや、大丈夫だ。何もないよ」
「それなら『何のことだ』って言いなよ」
「──……」
食べやすいよう四つ切りにされたシャーピンは、いつか行った夏祭りを思い出させた。神名が作ったものは、あれよりも少し落ち着いた味付けで、好みだった。
「まあ『大丈夫』って言いやすいから、簡単に言っちゃうのわかるけどさ……大丈夫じゃないなら、この料理分くらいは話聞いてやる」
箸休めのサラダを貪る。ドレッシングも、市販のものではなく神名の手製のものだった。胡椒が効いていて、昔からそれほど好きではない生野菜を美味しく感じさせた。
なかなか返事が戻ってこないことに、箸を止めて顔を上げる。神名は言いたいことがつかえているように、眉をしかめて視線を外していた。利き手に持ったままの箸は、未だになんの料理も掴んでいない。
「ごめん」
「え、何急に」
突然の謝罪に、しかし思い当たる節がなく聞き返す。気を遣わせて、とかわざわざ改まって謝るほどの仲でもないし。
「あの時、気づいてやれなかった」
「いや……何の話?」
「……お前はあの時、『大丈夫』じゃなかったんだな」
要領を得ない話しぶりに頭を悩ませたが、少しして、景色が巻き戻るように高校時代の景色が蘇った。
夕暮れ。遠くの喧騒。他に誰もいない教室。心に刺さった棘を抜き捨てて「大丈夫、何もない」と返した時の、彼のどこか後ろ髪を引かれるような、寂しげな顔が、目の前の彼と重なった。
「……そんな昔のことに、記憶容量使ってんなよ」
「だが……」
「大丈夫、だったよ。本当に。何もなかったわけじゃないけど、大丈夫じゃなかったわけでもないから」
「それでも、俺は気づきたかったんだ。俺ばかり、いつもお前に助けられてきたから」
「いや何その思い出……捏造?」
「そんなことしてない」
少しだけ、口元がむっと曲がっていた。
珍しい。拗ねてるんだ。あの、怒った姿なんてついぞ見たことなくて、雪見だいふく半分くれって言ってみても快く差し出してくるような、懐が海みたいに広いこいつが、子どもみたいに不貞腐れていた。
「お前と、初めて話した時も。料理がなかなか上手くならなかった時も。なんてことないようにただ話に付き合ってくれた。英会話が思うように上達しなかった時だって、運転だって、当たり前に練習に付き合ってくれたし。スケートに行き詰まった時期だって、お前が俺のスケートに関心が弱いことが、すごく気楽だった」
「それはなんか……え、それ褒めのターン?」
「そうだ。お前はいつもなんでもない顔をして、ただの俺のそばにいてくれた。それが俺は本当に嬉しかったんだ。……たくさんあるんだ。本当にたくさん……お前が、俺にしてくれたこと。それを無かったことにしようとしないでくれ」
「……わかったよ。いや、助けてやった記憶なんてないけど、お前の言い分はわかったから」
「わかってくれたならいい」
「……で、結局さぁ。なんかあったの」
再び切り出す。机上の神名の拳に、少しだけ力がこもる。長い睫毛が、本を閉じるように伏せられた。
「……俺のスケートって、なんだろうか」
彼は、悩みを悩みと思う前に、自然に消化するのが上手かった。何に対しても、誰に対しても、いい面を見つけてポジティブに受け止めるのが、羨ましいくらいに得意な奴だった。
「父さんとの隔たりが、無くならないんだ。父さんは金メダルを取るため、そのためだけの指導をしてくれる。だけど……俺は、少し、違うと思っている。もう何年もずっと」
その彼が、長年思い悩んでいた。なんとなく感じることはあったけど、そこまで深く突っ込んだことはなかったし、その根深さには気づかなかった。彼のスケートのことを知らなかったし、彼も敢えて見せることはなかったから。だから、私は別に遣る瀬ない気持ちを覚える必要などない。
それでも、もっと早くに気づいていたら、また少し違う今になっていただろうか。──あ、そうか。彼もさっき、こんな気持ちだったのか。
「任された区長の仕事も、結局スケートに差し支えるからと、全て父親が肩代わりしている状態だ。それは、俺にとっての望ましいことではない」
返事をするでもなく、だけど黙って彼の話に耳を傾ける。箸は持ったまま、だけど手は止まったまま。
「俺は、俺をどうしたいのだろうか」
とにかく、真面目で一直線な奴だった。言われたことはこなすし、期待には応えようとするし、なんでもきっちりと力を尽くす性分だった。私とはまるで違うその気質は、こいつに常に味方をしてくれるわけじゃない。もたらされた不自由を、不自由と気づけない時、必要なものは何だろうか。
「……私は、スケートのことも、お前の周りの指導者の意見もわからないけど、お前が滑りたいように滑れたら一番いいと思うよ。そう簡単にできることかもわからないけど……」
結局は、外野が何を言ったって決めるのは本人だ。彼の父親とも、できるならそうあるべきだ。周りの声が、彼を勝手に位置づけるものではなく、少しでも、彼がこの先取捨選択をする時の手元を照らすものであればいいと思う。
「他の誰でもないお前の人生だしさ」
「俺の、人生……」
「親も、ファンも、もちろん私も関係ない、お前だけの人生。お前の好きでいいと思う。それを咎める権利なんて誰にもないよ」
やりたいことをやるのは、時に大きな力が要る。すぐには変えられないかもしれない。だけど、現状がずっと続くことなんて、生きている限りはあり得ないのだ。
部屋が沈黙で浸される。居心地の悪さはない。そのうち、ふ、ふ、と吐息がこぼれる音がした。
「そんなふうにやさしい『関係ない』は、初めて言われた」
「……そ」
「ありがとう……またお前に助けてもらったな」
「何もしとらんわ。すぐウェットになるのやめろ」
「お前もなにかあったら、どんな些細なことでもいい。いつでも俺を頼ってくれ。どこへだって……海外にだって、すぐに飛んでいく」
「そりゃどうも」
味噌汁に手をつける。少しだけ冷めてしまっていたけど、よく煮えた具材と味噌の味が十二分に美味しかった。
神名は簡単に言ってのけたけど、それは随分な重みを持って発された言葉に聞こえた。
現状がずっと続くことはない。来月から、私は仕事で海外赴任が決まっていた。
*
「じゃ、そろそろ時間だし行くわ」
「ああ。いってらっしゃい。体に気をつけろよ」
「そっちもな」
「……」
「……なに? 腕」
「ああ、悪い……」
「……」
「……」
「何か言い残したことでもあんの?」
「……いや。なんでもない。ないよ」
「……」
「……仕事だしな、仕方がない」
「……」
「仕方が……」
「……」
「……寂しい」
「お前が近くにいないのは、寂しい……」
「……なに、急に」
思いがけない言葉に、返した声は吐息のように掠れてしまっていた。揺れるアイスグレーは濡れていないけど、私の袖を掴む白い指先が、泣いているみたいだった。空港はさまざまな音や声が飛び交っていたけれど、彼の声はいやにはっきりと耳に届いた。
「お前だって、スケートの大会やらなんやらで散々海外飛び回ってるじゃん」
「それは、そうだが……帰ってくれば、いつでもお前に会いに行けた。ここで待っていてくれたのに……嫌だ。いってらっしゃいなんて言いたくない」
それは子どもの我儘のようだった。だけどきっと、私達はまだ、大人のふりが上手いだけだった。
「お前は、そんなふうに私を惜しむんだね」
「……迷惑だったか?」
「いいや。ただ、お前がいつも時間を割いて、私と居ようとすることが不思議だったから。スケートとかいとことか、お前が愛情だの情熱だのを注ぎたい存在に対して、お前の時間はいつも少なかったのに」
言い切って、気づく。目の前にあるのは、見たことのある表情だった。むっとした、拗ねたような、彼がめったに見せない幼い顔。それは先月に、最後の晩餐よろしく満たされた食卓の向こうで、彼が見せたものと同じだった。
「……そんなの、優先したい存在のひとつだからに決まっているだろう」
「……え、そうなんだ」
「やっぱり、わかってなかったか……人は、そばにいる人によって姿が変わると俺は思っている」
「……なに?」
「父さんといる時の俺は、息子だ。可愛いいとこたちといる時の俺は兄だ。ファンや、選手としての俺を知ってくれている人たちの前での俺はスケート選手だ」
ひとつひとつ、己の姿をなぞっているらしかった。どれも地続きのこいつで、だけど、どれも少しずつ違う顔をしている。
「お前と共にいる時の俺は、肩肘張らずに友人と駄弁っているだけの、ただの神名雪風だ」
「──……」
「有頂天になったり、心配で心が千切れそうになったり、どうすればいいかと手探りになることもない。まっさらで平坦で、解放された心持ちになる」
神名は喋るのが得意じゃないと言いながら、時に雄弁だった。あれだけ心を明け渡している存在がいながら、その言葉は、随分な褒め言葉なんじゃないか。
「お前といると楽しい。お前といる時間が好きだ。それじゃあ足りないか?」
「……ちょっと多すぎるな。重い」
「……そうか? それはすまない」
「そういうのはいいわ。それなら、トモダチだからでいいじゃん」
自分で自分たちの関係性を言葉にするのは妙に気恥ずかしくて、わざとらしい言い方になってしまう。彼は常に照れも隠れもしないけど。
「それじゃあお前がわかってくれないと思って掘り下げたんだが」
「はいはい丁寧にどうも。……ねえ、雪風」
「……久しぶりだな、お前にそう呼ばれるのは」
「お前はずっと、私のこと名前呼びだったもんね」
幼稚園の時。名札にひらがなで書かれた名前が、子どもながらに綺麗でかっこいいと思っていた。いつから呼ばなくなったんだっけ。ああ、周りの奴が妙なからかい方をして、それが嫌だったんだ。雪風のほうは何一つ気にしないで、私の名前を呼び続けていたけど。そのうち、あまりにも彼が歯牙にもかけないものだから、周りもすぐに飽きて私たちへの興味を失った。
それでも私は、彼を神名と呼んだ。いつかまた、彼がおかしな視線を向けられないように。そんな言い訳を盾に、本当は、私が傷つかないために。そうしているうちに妙に定着して、戻す機会を失って。切れることのない腐れ縁だととっくに気づいて受け入れていたのに。今更だなと、少し可笑しくなって肩が震えた。
周りがどう考えたところで、彼が揺らいだり、それで私を突き放すことなどないとわかっていたのに。私は臆病者だった。それでも、彼がずっと変わらずそこにいたおかげで、今、私はただの私で在れる。
「応援してるよ、お前を。スケート選手の神名雪風じゃなくて、新任区長の神名雪風でもなくて。私の友達の神名雪風を応援してるから」
「……」
「なんかあったらすぐ連絡寄越せよ。都合がつけば飛んでってやる」
「……それは、頼もしいな……フフ、」
少し笑って、それから彼は袖から手を離した。直接触れたわけではない熱が、手元に残ったような気がして、私はそれを名残惜しく感じながら雪風に背を向けた。
*
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ねえ、それなにー?
……えっと、スケート……。
ふーん。絵すき? スケートがすき?
絵は、すきだけど……スケートはおれ、下手くそだから……。
じゃあこの飛んでるのゆきかぜくん?
う、うん……でも、ほんとは、まだぜんぜん、こんなふうに飛べない……。
へー。
うそっぱちを描いてるんだ……。
いいじゃんべつに。
え……?
ほんとになるかもしれないじゃん。せんせーが言ってた、しょうらい何になりたいですかーてやつじゃん。
そ、そうだけど……。
うそじゃなくて、ゆめだよ。
そ……っか。ゆめかぁ。
わたしもさーこないだゆめでこういうの見たよー。
ゆめ? ゆめってそういうゆめ?
シャーってしてクルクル飛んでてして、ぴょんってしてた。わたしそれ見てたー。なんか、ちょっとゆきかぜくんみたいだったかも。
……そうなの? そのひとは、上手だった?
えーわかんない。わたしスケートよくわかんないもん。
そっか……。
でもさー。
……でも?
でも、そのひと、すっごくたのしそうだったよ。
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スーツケースを引っ張って、履き慣れたスニーカーでロビーを進む。久々の母国に、腹の奥底からじわじわと懐かしさがこみ上げた。聞こえてくる日本語に、安心感が充ちていく。
あたりを見渡しつつ、どんどん先へ進んでいく。ほどなくして、見覚えのある立ち姿を見つけた。
キャップと眼鏡、マスクでオーラを消した、それでもなお目立つ長身の男。彼も私を見つけたようで、長い脚でぐんぐんと距離を詰めてきた。
「よ、久しぶり」
片手を上げる。直接会うのはいつぶりだろうか。容易に声の届く距離になったところで、彼も呼応するように片腕を上げた。そのまま目の前まで来て、互いの手が軽く重なり合う──ことはなかった。
突然、全身を衝撃が襲った。痛くはない。けれど、決して弱い力とも言えない。
自分のものではない香りがした。ジャンパーの素材が少し冷たくて、その奥の体温が冬の日差しのようにあたたかい。肩の後ろで静かな呼吸が聞こえた。
「……相変わらず感情表現豊かなことで」
「はは、つい感極まった」
私を目いっぱい抱き締めた雪風は、そんなことを口走った。回した片腕で彼の広い背中の布地を「オラ、早よ離せ」とつまんで引っ張っても、彼は動きそうにない。
こんなに周りの視線集めて、うっかりこいつの変装がバレたら変にすっぱ抜かれるかもわからないってのに。こいつは私が、無理やり振りほどきはしないことを分かってやってやがるからたちが悪い。
少しして、ようやく熱が離れていく。数年ぶりに再会した雪風は、安心感さえ覚えるほど、どこも変わりない。やること極端で、周りの目を顧みないで、だけどどこまでも澄んでいて、憎めない、ただの神名雪風だ。
「これから少し時間が空いてるんだ。お前を送り届ける前に、ラーメンでも食べに行かないか。人に教えてもらったオススメの店があるんだが、車ならすぐだ」
「いいね。行くか」
二つ返事で了承すると、マスク越しにもわかるほどに、私の友人は嬉しそうに笑った。
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