なまえが旅立ったのは雨の街には珍しい快晴の日だった。
とあるきっかけで短期のバイトとして雇った彼女は、元々国も超えて旅をする旅人だ。ある程度の路銀が貯まったから、となまえが数日後の旅立ちをネロに告げたのはある日の夕食時のことだった。
仕込みが忙しくなる前にと、なまえは朝食後すぐに支度を整える。そう多くはない荷物をまとめるのはあっという間だ。ネロが見送りのためなまえと一緒に店の外へと足を踏み出すと、店の脇に生えた街路樹から朝日が漏れ、前を歩く小麦色の髪を照らした。
ネロは決して雨が嫌いではなかった。窓を叩く雨音も傘をさすことで生まれる人との距離も、この国が肌に合うネロにとっては生きやすいものだ。しかし旅立ちには晴れが似合うだろうから、久しぶりの晴れがこの日で良かったと思った。
「短い間でしたがお世話になりました」
深々と頭を下げたなまえの言うとおり、なまえがこの店にいたのは魔法使いのネロにとってはまたたきの間のような時間だったし、人間にとってもそう長くはない。
「こっちこそ助かったよ」
給仕に皿洗い、買い出しに開店閉店準備となまえはよく働いた。飲食店でのアルバイトの経験があるのだろう。人手がどうしても必要というわけではなくなりゆきで雇っただけではあったが、それでも随分と助けられた。
いい関係を築けたと思う。
魔法使いだとバレなかったし、彼女は人との距離を掴むのがうまかった。傘をさした時みたいに、踏み込みすぎず、しかし離れすぎない距離でこちらに向き合ってくれる。
料理の手際を褒めてくれる言葉も、皿洗いをしながら交わした会話も、全て何気ないものだ。いつ忘れてもおかしくないような、そんなことがあったことさえいつか忘れてしまうような、しかし夜のまどろみやぬるま湯にも似たそれが、ネロには心地よかった。
そんな日々が終わってしまうことにちいさな落胆を覚えるのと同時に、少しだけ安心する。
優しく照らす木漏れ日のような彼女のことを知るたびに、正体を隠し続けている罪悪感が大きくなる。受け入れてくれるかもしれないと、魔法使いであることを喋ってしまいそうになるのと同時に、拒否された時のことを考えてしまう。あらん限りの彼女からの暴言を想像したあと、自分の臆病さゆえ共に過ごした時間の心地良さも忘れてなまえの心のうちを疑う自分に死にたくなる。
そんな日々が、ようやく終わる。
「これ、良かったら食べてくれ」
手渡したのは日持ちするように焼き固めた焼き菓子を入れた袋だ。
少しだけ、祝福の魔法をかけてやろうかとも思って、やめた。彼女にかかったそれに紛れるくらいの、こころばかりのものを。たとえば財布をなくしたりだとか、急な雨に打たれるだとか、そういうことが少しでも減ればいいと思ったけれど。
なまえが知っている「人間のネロ」は魔法なんて使わない。雨の街に住むただの料理人だ。
料理人にできるのは料理を作ることだけで、財布をなくすことも急な雨に打たれることも止められないけれど。それでも初めて出会ったときのような、どうしようもなく腹を空かせたような状態を助けることはできるだろうから。
わぁ、となまえの口元がほころんで、大事に食べますね、と大切なものに触れるように袋を手に取る。
「それじゃあネロさん、また会いましょう」
「あぁ……元気でな、旅人さん」
またねは言わない。東の国から出ていく彼女にはもう会わないだろうし、次に雨の街に来るときにはこの店はもう移転したあとだろう。百年生きない人間との間に、また、があるとはネロは思わない。
石畳を歩く音が遠ざかっていく。その音が聞こえなくなってから、ネロは店の中へと戻って行った。
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