※凪の区長ノベル全話ネタを含みます
「……何やってんですか」
「あ、こんばんは。外で会うなんて奇遇だ。そしてちょうどいいところに来てくれた。助けて〜……」
「ペンキじゃなくてもジュースがこぼれてることだってあるし、手の甲とかで確かめてから座ったほうがいいですよ……よい、しょっと……」
「ふんっ……そうか、そんな手があったか……っ……賢い人の発想だ。オレも見習いたい……うおっと!」
「おっと……良かった、剥がれた」
「助かった、ありがとう。つい背もたれにまでしっかり寄りかかった上にうたた寝してしまって、ペンキ乾かし途中だったことに起きてから気付いたんだ。この体勢じゃ力も入れられず……君が通り掛かってくれなかったら、オレはこのままベンチと一体化して新たなる街のオブジェの一部と化するところだった」
「いいからもうちょい注意力身につけてください。これは回避できた不幸でしょうよ」
「まあ、でも、逆に言えばこの程度の不幸で済んだんだ。言ってしまえば、不幸中の幸い。……となると、その上君に助けてもらったことはさらなる幸福の積み重ねになってしまうのでは? 駄目だ、ちょっと待って、こんなこともあろうかと配達用の他に配布用の花も持ってるんだ」
「なんでそこは注意が行き届いてるんですか……」
「むーん…………はい、君がくれた幸福分を込めたから。もらってほしい」
「……まあ、もらいますけど。これはなんて花ですか? この白いの、見たことはあるんですけど」
「これはね、君にぴったりの花」
「……そうですか。それで、そもそもなんでこんなところで黄昏れてたんですか。配達帰りでもなさそうだし。寮に帰らなくていいんですか?」
「うん、ちょっと。この間無事ファーストツアーを終えて、なんていうか、ほっとしたんだけど、最近はまたずっと人の中にいたから……原点回帰的な」
「ああ、ご飯を美味しく食べるために空腹にする的な」
「いや、ううん……うん、そうなのかも」
「そっか。良かったですね」
「……うん。ありがとう。それで、前に話したことって覚えてる? オレが夜班に入ったばっかりの頃に、ファーストツアーが成功したら伝えたいって、言ってたやつ」
「ああ、結局何だったんですか、アレ」
「あれはね……」
君が引いてくれた手の体温が、寒空の下でまだ熱を持っている。
「オレと君が、今以上の関係になれたら嬉しいっていう、お誘い」
*
初めて出会った日のことはよく覚えている。
ふらわあランドリーに、ふらわあの部分がまだなくて、オレもただの客の一人だった頃。それから、峰守さん夫妻に良くしてもらって以来、初めての冬。
彼女は洗濯機の中から、乾いたタオルを取り出してはごみ袋に突っ込んでいた。冬場は洗濯物が乾きにくいから、乾燥だけ掛けに来る人も多い。彼女もそうだろうか。
たぶん同年代くらいの女の子だった。オレより華奢で、顔はまだ親近感が湧くような、要するにあどけなさが残っていた。
彼女の隣の洗濯機に、持ってきた洗濯物を入れる。ここは現金決済ができるところもありがたい。オレはキャッシュレス決済は苦手だった。慣れないというのもあるけど、どうにも不具合が起こりやすい。まあ、それを言えば、小銭が手元から落ちて二度と取り出せない隙間や側溝に消えていってしまったことも数え切れないくらいあるけど。
オレの洗濯機が回り始める頃には、彼女はもう袋を持って退店していた。オレは洗濯機の前の、少し古ぼけた背もたれのない椅子に腰掛ける。
「あ」
彼女が使っていた洗濯機の中に、小さな白い布が落ちていた。
腰を上げて中を覗く。タオルハンカチだった。彼女が拾い忘れてしまったのだろう。手を伸ばしてそれを掴むと、オレは慌てて店の外に飛び出した。
店内との急激な温度差に、ぎゅっと身が縮こまる。幸いなことに、彼女はタオルを無理やり前カゴに載せて、脇に停めてあった自転車に跨るところだった。「あ、待って!」白い息と共に声を吐き出すと、彼女はペダルから足を下ろして振り返ってくれた。
「これ、中に落ちてて」
「え? あっ……、ありがとうございます。気づかなかった」
「いえ」
「助かりました。ありがとう」
なんとなく想像していた声と大きくは違わない控えめな声で、彼女はそう言った。
感謝をされた。
オレなんかの行動で、ありがとうと言ってもらった。オレはいつも、バイト先でありがとうございましたは数え切れないくらい言ってるけど、言われることはそう無かったから、なんだかびっくりしていた。
「あ、」
袋にハンカチを詰めていた彼女がふいにこちらを見て、一文字落とした。それから、手を引かれた。前触れのないことで、オレは心臓が喉からせり上がるような感覚に襲われた。瞬間、びゅんとオレの横すれすれを何かが通り過ぎる。自転車だった。不安定な軌道だ、酔っぱらいだろうか。彼女が手を引いてくれなければ、オレが轢かれるところだったかもしれない。いや、ダジャレじゃなくて。
なんて、そんなことを考えないと、慣れない他人の手の温度に思考が変になりそうだった。オレが二の句を告げずにいるうちに、彼女は「それじゃあ」と自転車に跨ってペダルを漕ぎ出してしまう。「あ、ありがとう!」久しぶりにはっきり大きな声を出すと、彼女はお礼を受け取るように一瞬片手を振ってくれた。オレはなんとなく、彼女の姿が見えなくなるまでその背中を眺めていた。
それから時折、彼女とはランドリーに来る時間が重なった。彼女はやっぱり、洗った洗濯物を乾燥させるために来ているようだった。
彼女は先ほど決済に使ったスマホを、そのまま時間つぶしに弄っていた。オレも、さっき洗濯を始めたばかりだから、くるくる回っている機械の中をぼんやりと眺めていた。一度帰るのもガソリンがもったいないし、何よりこの待ち時間に、店を経営してる店主の峰守さんと取り留めのない会話をしたり、たまに店に出てくる旦那さんに将棋なんかをしてもらったりするのが好きだった。
あの日以来、とくに会話はしていない。オレたちは知り合いでもないし、喋る話題だってないし、互いの名前すら知らないから。
だけど同じ目的で来た場所で、隣に座って、待ち時間を同じ空間で消費することに、オレはすっかり奇妙な連帯感を覚えていた。示し合わせたわけではないけれど、同じ日の同じ時間にかち合ったらなんだか妙にテンションが上がったし、いなかったら「今日はいないのか」なんて思ったりもした。彼女が来るのは冬場や雨季に乾燥機を使う時だけだったから、その時期が抜ける頃にはなんだか惜しい気持ちにさえなった。
「蜂乃屋くん。和菓子の詰め合わせ買ったのよ。好きなの食べて」
「いいんですか? ありがとうございます、峰守さん」
「ほら、隣のあなたもどうぞ!」
「えっ、あ……ありがとうございます」
いや、峰守さんがオレを呼んでくれていたから、彼女は蜂乃屋の名字は知っているかもしれない。彼女の記憶に残っていたかは分からないけど。
「おいしい」
「……おいしい、ですね」
一口大のミニどら焼きを咀嚼して、独り言、あるいは峰守さんに伝えるように呟いた言葉を、拾ったのは彼女だった。同意を求めたように思わせて気を遣わせてしまったのかもしれない。そう思うと申し訳なかったけど、それ以上に誰かと同じものを食べて、おいしいねって感想を共有した形になったことが、とても……とても、嬉しかった。心が弾むようだった。
なにか、もっとおしゃべりをしたら、もしかして、友達になれるのかもしれない。
ふとそんな強欲なことが頭に浮かんだ。だけどそれは駄目だ。オレが積んだ幸福は、不幸に形を変えて返ってくる。今だって、オレはすでにこのささやかなあたたかさに幸福を感じてしまっているのだ。帰りはバイクに跨がらず、徒歩で帰って疲労困憊になりこの幸福感をかき消すことにしよう。そう思った。
*
彼女は前述のとおり、ランドリーに来る時期と来ない時期があった。峰守さん夫妻に畳みかけるように降り掛かった不幸と、オレのブーケがそれを雪いだ頃はちょうど彼女がいない時期で、だから彼女は、次の雨季に来た時に、馴染みのランドリーが花屋併設になったことに驚いただろう。しかも、何度も隣に座って時間を潰した人間が、店長になっていたのだから、なおさら。
「あの……店主の、おばあさんって、」
いつものように乾燥機を回し、待っている間。彼女は商品の陳列を整えていたオレにおずおずと声をかけた。きっと、峰守さんになにかあったのではと不安に思ったのだろう。オレは、峰守さんが花屋を併設してくれたこの店の店長として雇ってもらえたこと、隠居した彼女は旦那さんとともに、ここのオーナーとして今も元気にやっていること、ちなみに息子さんと暮らしているため心配もないことを彼女に伝えた。どこか強張っていた彼女の顔は、とても安心したように緩んでいった。
「そっか……じゃあ、リニューアルオープンなんですね」
「うん、そう」
「おめでとうございます」
「あ……ありがとう、ございます」
「花、買っていいですか」
「もちろん。どんな花にしましょう?」
「えっと……お見舞いに持っていける、明るい感じの花で」
一瞬、息が詰まった。だけど気にしない素振りで、「それでしたらこういうアレンジメントなどは」とサンプル写真をいくつか見せた。彼女が少し悩んでから選んだイメージと近くなるように花の種類を決め、せっせと用意する。
「店員さんは、花がお好きなんですね」
「え」
「あ、すみません……花屋が併設されたから。バイトもされてたみたいだし……あ、いや、すみません、峰守さん、との会話、ずっと聞こえちゃってたから……」
ああ、そうか。そりゃ、隣で話してたら、自分との会話じゃなくても内容が聞こえるに決まっている。それは別に全然良かったけど、ただ、彼女がオレなんかの話を覚えてくれていたことに驚いて、それから、嬉しいと思った。
「うん、そう。花が好きで」
「そっか。いいですよね。ここ、洗濯物と、花の、いい香りがして、好きです」
「それは、良かった」
しばらくして商品が出来上がって、お会計も済ませて、ポイントカードも新しく発行した頃に、乾燥の終わりを告げる電子音が鳴った。彼女がタオル類を畳んでいる間に、俺はここ数日の幸福負債を思い返して、それを花に注ぎ込むように「むーん……」と念を込めた。
「これ、幸せになるパワーを込めたから。もらった人も、贈る君も、きっと幸せになる」
「……そっか、へへ、ありがとうございます」
そう笑った彼女の洗濯物は、前よりも少なくなっていた。
*
「あ、いらっしゃい。今日は花のほう?」
「はい。お願いします」
それからも彼女はたびたびふらわあランドリーに通ってくれた。寒い時期や梅雨どきでなくとも、花を買いに来てくれることも増えて、すっかりここの常連さんだった。その頃には、オレたちはようやく、気軽に会話もできるような仲になっていた。
相変わらず、互いに踏み込んだ話は全然しないし、彼女から予約を受けたこともなかったから、名前すら知らないままだ。だけど決して短くない付き合いの中で、オレの不幸体質は流石にバレてしまっていた。できれば隠しておきたかった──だって、変な奴だと思われて引かれて、もう来てくれなくなったらそれは悲しい──んだけど、こちらも相変わらず、オレの身に容赦なく降り掛かるものだから、居合わせた彼女が助けてくれることもあった。ちなみに先週は、表の掃き掃除をしていたオレ目掛けてピンポイントで飛んできて全身に絡まったどこかののぼりの巨大な布地を、彼女が剥ぎ取ってくれた。避けるとか手で防ぐとか……と呆れたようなジト目を向けつつ、無様に旗に絡め取られたオレを見捨てずにいてくれる彼女の親切さが身に沁みた。
「店員さん、向こうの角の新しいパン屋さん行きました? すごく美味しかったですよ。とくにクリームパン」
「えー、いいな。今度行ってみる。そういえば今日これから雨が降りそうだけど、お客さん傘ある?」
「え、そうなんですか?」
「なかったら貸すよ」
「ありがとうございます、今日は折り畳みあるので大丈夫です」
「それなら良かった……あ、ポイントカード、1ブーケ分貯まった。次回お使いいただけます」
「え、やった。ありがとうございます」
「こちらこそ、いつも、たくさん来てくれてありがとう」
ポイントの貯まったカードを返すと、彼女は「来週またこの時間、カード使いに来ますね」と楽しそうに笑った。
*
おでこにかざした機器から、二秒ほどでピピと電子音が鳴る。液晶に映ったのは38.2℃の数字。
完全に風邪だ。
「凪しゃん、今日はお休みしましょう」
「うう……でも、配達が……」
「ボクがお客しゃんに連絡しておきましゅから」
「ごめん、ソニア……よろしく」
ふらわあランドリーを開店してから、縁あって家族になってくれたペットロボが、オレの痛む頭をちょいちょいと撫でた。ぐらぐらする視界の中で、漠然と今日やる予定だったことを羅列していく。
(あ……きょう……彼女が来る日だ)
「駄目だ……ソニア。夕方だけでいいから店を開けなきゃ」
「何言ってるんでしゅか、いけましぇんよ。というか無理でしゅよ」
「彼女がきっと来るんだ……ポイントカードを……使いに……」
「例の子でしゅか? 彼女なら分かってくれましゅよ。むしろ、自分のために凪しゃんが無理をしゅるほうが悲しいと思いましゅ」
「でも……」
彼女が来る日に店を休みにしたのは初めてだった。いや、これまでも配達帰りにマンホールに嵌ったりキックボードをブイブイ言わせる小学生に囲まれたりで時間を食ってしまい、彼女と会わなかったことはあったけれど(その時は留守番のソニアが対応してくれていた)、こうして完全に休業にしたことはなかった。
「しょしたら、あの子がいつも来る時間にボクが話にいきましゅから」
「……ありがとう、ソニア……これで心置きなく……」
眠れる。と、思ったんだけど。なんだかやっぱり、申し訳ないような、どこか心がすかすかするような、変な心地だった。
もしかしたらオレは、彼女と約束をして──彼女はそう捉えているかは分からないけれど──会うのが初めてだったから、それが楽しみだったのかもしれない。彼女に会って、奮ってブーケを作って、また幸福を詰め込んで手渡すのを、とても、待ち遠しく思っていたのかもしれない。
熱に揺蕩いながら、重い目を開く。一眠りして、あれからどのくらい時間が経っただろう。しばらくぼんやりと天井を見つめて、それからゆっくりと上体を起こして、ソニアが枕元に用意してくれていた水を飲む。食欲はあまり無かったけど、なにか少しだけ腹に入れようかと考えていたところで、タイミング良く部屋の戸が開いた。
「凪しゃーん。具合どうでしゅか」
「……けさよりマシになった気がする……」
「はい、これ。食べられましゅか」
「みかん……缶詰か。ありがとう」
お粥とかより、さっぱりしたものがいいなと思っていたから、ソニアの理解力には感謝しかない。プラスチックの器(本当はこういうのはガラスの器のほうが美味しそうだと思っているが、何分オレの手から転がり落ちて粉々になることが多かったから、最近は滅多に使わないようにしていた)に入ったオレンジ色を、ゆっくりスプーンで掬い取って口に運ぶ。常温ながら少しだけひやりとしてて、甘酸っぱくて、ほうと息を吐いた。
「おいしい。ありがとう。でも缶詰なんてうちにストックあったっけ」
「これはあの子からでしゅよ」
どこかふわふわとしていた意識が、ぱっと開花したように、あるいは新鮮な水を注がれたように覚醒する。宙に浮かぶソニアは、嬉しそうにニコニコと笑っていた。
「ブーケ、ちゃんと渡しておきました。しょしたら、ちょっとしてから裏のピンポンが鳴ったんでしゅ。彼女、わざわざ凪しゃんのお見舞いを買ってきてくれたみたいでしゅよ。他にも冷えピタとか、あと、これも」
メンダコモチーフの小さな手が渡してきたのは、花柄のメモ帳。『お大事にしてください』と、丁寧な文字で綴られた言葉に、送り主の名前は書いていなくて。それでも彼女だと感じられるような、なんだか彼女らしい文字に思えた。
「……ソニア。何でもいいから花を持ってきてほしい。できればたくさん」
「え? だ、だめでしゅったら! しょんな体調で花を配りに行くつもりでしゅか!」
「でも行かなきゃ……でないとこの店にピンポイントで突然隕石が降ってきてもおかしくはない」
「落ち着いてくだしゃい! 大丈夫でしゅよ! 隕石なんてボクが吹き飛ばしてあげましゅから! しょれに、あの子も言ってました」
「な……なんて?」
「『風邪の不幸の相殺分には程遠いだろうけど』って」
「……そんなことない。十回くらい風邪引いたって割に合わない身に余る幸福だ。こんな、お見舞いなんて……オレを心配してくれて、わざわざ買い物にいってくれたり、丁寧にメモを残してくれたり、そんなふうに気にかけてくれるなんて……だって、そんなの、と……友達、とかみたいだし……」
ソニアは何か言いたげな様子だった。だけどオレの体調を気にしてか、手元をぐいぐい押すようにして「いいから早く栄養を摂るでしゅ」とせっついた。
*
翌週、彼女は店に来なかった。そのまた次の週も、さらに次の週も、彼女が姿を現すことはなかった。
オレが約束を破ったから、愛想を尽かしてしまったのだろうか。ソニアはそんなこと思ってたらお見舞いなんて持ってきてくれないだろうとか、そんなこと思うような人じゃないだろうと言っていたけど、それなら、うちよりもっといい店が見つかったのだろうか。だったら、そっちのほうがいい。彼女が嫌な気持ちになった可能性よりも、そっちのほうを支持したかった。というより、オレはきっと、彼女に嫌われたくなかった。そう思うほどに、彼女と関われる日々が楽しかったんだろう。だからこれは、これまでの幸福分の、不幸だと思うことにしよう。
そんなことを考えていたある日、彼女は再び訪れた。
久々に会った彼女は、明らかに様子が違っていた。いつもの控えめな朗らかさは見る影もなく、深く沈んだような面持ちで、オレの「いらっしゃいませ」にもひとつ小さく頷くだけだった。
枯れかけの花に似ていた。いくら水や栄養剤や室温を調整しても、端から黒くなり、花びらが落ち、茎が痩せていく。そんなふうに、彼女は今にも枯れてどこかに消えてしまいそうで、今すぐ、抱き締めてでも繋ぎ止めたいとさえ、思った。そんなことしたら二度と来てくれなくなるどころか通報されてオレはお縄に違いないから、しなかったけれど。
彼女がオレに頼まず自ら選んだのは、店の端の方にある、小ぶりで色の落ち着いた控えめな切り花の束だった。それは、仏花にも使えるようにしていたものだった。
彼女が黙ってレジに来る。オレも黙って会計をした。それから、商品とは別に、バケツに入れていたブーケを手に取り、ここ数日感じた分の幸福を詰め込んだ。ゆっくり、溢れるほどに、たくさん詰め込んだ。
「……これ、おまけです」
「……あ、ポイントカード……」
「ううん、それはまた、いつか来てくれたら、使って。これは、おまけ。オレからのプレゼント。商品のほうと併せて、幸せになるパワーを、たくさん、込めたので……もらって」
「……、」
「この間は、お見舞いありがとう。すごく嬉しかった。オレに幸福をくれて、ありがとう」
「……っ、……」
「君と、それを贈られる人が、幸福でありますように」
ひ、と。彼女一度しゃくり上げたと思えば、大きな瞳は水やりをしたようにみるみる潤いを増して、そのままぽたぽたと溢れ出した。
声を押し殺して、泣いていた。
悲痛に満ちた吐息が、カウンターに落ちていく涙が、オレの喉元に酸素を停滞させた。胸のあたりが痛くて、痛くて痛くて苦しくて仕様がなかった。オレはとうとう泣きたくなって、だけどオレなんかが一緒になって泣いたら彼女にきっと失礼だと思って、わななく唇の内側で息を止めるようにして、必死に奥歯を噛み締めた。彼女の白い手がカウンター越しに伸びてきて、二つのブーケを受け取った。彼女はなんとか花を潰さないようにしながら、縋るようにそれを抱き締め続けていた。
*
*
*
「あ、いらっしゃい。久しぶり」
「こんにちは、お久しぶりです」
慣れた戸をくぐると、いつもと変わらぬ姿の彼が迎えてくれる。最近は仕事が忙しくてすぐ近所のスーパーの仏花を買ってばかりだったから、久々に来たここの花と洗濯物のいい香りが身に沁みた。乾燥機付きの洗濯機を持っていなかったあの頃が、妙に懐かしくなる。
「そうだ、実はご報告があります」
「どうしたんですか、改まって」
「オレ、今ある仕事を引き受けることになってて」
「はい……え、あ……ここ、閉店……?」
「あ、違う違う」
慌てて否定されてほっとする。ふらわあランドリーは、もう随分と昔から私の人生の一部だった。できればずっと続けてほしい。そのためにも、もっと店が繁盛すればいいけど、そもそも落ち目だなんだ言われているHAMAじゃ難しいか……いや、でもここ最近は例の会社のおかげで盛り返してきたと聞く。この辺りの区にも早く手が入らないかな。
そんなことを考えているうちに、彼の口から出てきたのはタイムリーな単語だった。
「HAMAツアーズって知ってる?」
「え、うん、あれですよね、観光特区としてのHAMAの復興を目指してる……おもてなしライブ、トレンド入りしてた動画も見たことありますよ。この前、街中でゲリラライブしてるのも見ました」
「あ、それ夕班だ。うん、そこで、今度発足する夜班のリーダーとしてオレ、声かけてもらってて」
「え、すごい。おめでとうございます」
今勢いのある会社に抜擢されるなんて、大出世だ。彼はいつも自分の不幸体質を受け止め、なるべく人とは関わらず控えめに生きているような人だったから。そんなふうに声をかけられるような縁があったことも、彼がその糸を掴んだ事も、純粋に嬉しいことだと思った。
「こんなオレなんかを必要としてくれたんだ。それがすごく嬉しくて……なんていうか、君に一番に知らせたかった。いや、そもそも他に知らせるような人はほとんどいないんだけど、それでも」
「……そうなの?」
彼は少しだけはにかんだようにやわらかく笑った。他者とあまり積極的に、深く関わろうとはしない彼が、いつも私としていた取り留めのない会話や、私が辛い時に花をくれたこと。それはふらわあランドリーの店員としての延長という形を作っていた。だけど私に一番にと、そう思ってくれたことは、その線を引いた先にはきっとないものだ。
「それは、なんか、嬉しいです」
「……そう思ってもらえるなら、オレも嬉しい」
「お店と兼業って大変じゃないですか?」
「いや、店が忙しい時はほとんどないから大丈夫」
「いや朝から仕入れに行って、夜は23時まで営業じゃないですか」
「まあ、それは、うん」
「あまり無理はせずに……体が資本って言いますし」
「オレなんかの心配をしてくれて、ありがとう」
彼らしい卑下が混ざったお礼を告げられる。相変わらず謙虚というか、自虐的というか。だけどそれが彼なんだろうと、もう充分に知っていた。
ふいに彼はどこかそわそわとし出した。何か言い出しにくいこがあるようで、「うーん」とか「えー」とか意味のない音を吐き出している。
「それで、一つ……」
「うん。なんですか?」
「実は夜班の区長メンバーは、オレ以外にも皆店を持ってて」
「うん」
「だからってわけでもないんだけど、会社も大きくなってきたし、今すぐじゃないけどいずれはって話が出てきて……」
「うん」
「えっと…………やっぱり、また今度。ちょっと図々しすぎるし調子に乗ってたしよく考えたらもしオレが望む形になったら幸福が大きすぎてここら一帯が地盤沈下に見舞われるかもしれない」
「ええ……ここまできて……」
「だからオレが……最後までやり遂げられて、ファーストツアーが大成功したら、また聞いてもらってもいいですか」
「いいですけど」
「え、本当に?」
「別に、聞くだけならいつでも」
当たり前のことしか返していないはずなのに、彼が妙に嬉しそうに顔をほころばせたのが印象的だった。直後換気のため開きっぱなしだった扉から突然入り込んだサッカーボールが壁で跳ね返り奇跡のような軌道で彼の頭にヒットした。
*
*
*
「末期だったんです」
初めて、彼女の話を聞いた。彼女自ら話してくれたことだった。水と、それからこの間峰守さんが持ってきてくれたお菓子を出したけど、彼女は水を少し飲むだけだった。
「色々やらないといけないこともあったし、仕方ないって分かってても割り切れなくて塞ぎ込んで、何する気にもなれないうちに、結構経ってて……でも、久しぶりに、この店の香りが無性に恋しくなって」
そんなふうに思ってくれたことが嬉しくて、少し胸が軋んだ。洗濯物の別れの香りと、花の幸福の香りが混ざったここは、オレにとっても、とても大切な場所だった。
「……親戚はいるけど、あまり折り合いが良くなかったから、帰る場所がなくなったような気がしてたんです。だけど、今は、早く帰ってこの花を供えようと思います。それで、また買いに来ます。まだ、ポイントも使ってないし」
「……うん」
「一人の生活になっても、ここにお見舞いの花を買いに来るのが楽しみだったんです。このお店も、作ってくれるブーケも、いつも店員さんと何でもない会話をするのも好きだった」
「うん……」
「いつもここで、前向きになる元気をもらってたんだと思います。ありがとう」
まだ濡れている睫毛を震わせて、彼女は小さく笑った。路傍の小花が咲くような、弱々しくも凛とした、健気で、やさしくて、あたたかい笑顔だった。
「……オレも」
「……はい」
「いつも、君が来てくれたから、多分オレはずっと楽しくて、昔よりずっと、寂しくなかった」
ずっと、人と深く関わることを避けていた。だから、こんなふうに本音をこぼすのは、本当に初めてだったかもしれない。彼女を驚かせたり、引かれたりするかもしれなくても、それでもいいからと、ずっと心の箱にしまっていた感情を言葉に起こす。
「オレの日々にいてくれてありがとう」
あの日。
峰守さんのランドリーで彼女に出会えた日はきっと、オレにとっての計り知れない幸福だった。
寸刻たって、ふ、ふ、と吐息が漏れる。彼女は笑っていた。泣き笑いのような、放っておけない笑い方だった。それから彼女は、お菓子を一つ手に取って包装を開き、一口大のそれをさらに小さくかじった。オレも、同じように袋を開けて口にまるまる一つ放り込む。あの時一緒に食べたのと、同じミニどら焼きだった。
「……あまくておいしい」
「うん、おいしい。オレ、これ好き」
「……私も」
オレは彼女の名前も、年齢も、ほとんど何も知らない。長年続けた会話の中で、好きな食べ物や趣味くらいは知ったけど、それでもオレたちはオレたちのことを何も話してこなかったし、聞こうとしなかった。互いが薄く引いている線を決して踏み越えないようにしていた。だけどその線は、幾度となく会ううちに、いつの間にか消えていたのかもしれない。
彼女のような人を、もしかしたら、友達と呼んでいいのかもしれない。
*
*
*
「……夜班の二人目のコンダクターになってほしい?」
「うん、そう」
「……要するにそれは、店員と常連だった私たちが」
「ステップアップし、会社仲間になれたら嬉しいってこと」
「……」
「……友達、とかは個々人によって基準が違うしそもそもオレなんかじゃおこがましいけど、同僚なら誰の目から見ても基準が明瞭かつシーツのように清廉潔白な関係性だし……」
「……」
「……」
「…………凪さん、ちょっと罪が深すぎますけど」
「え、嘘、マジで」
彼女の手の中のカスミソウが、笑うように夜風に揺れた。
back
topへ |