※「碧落に星」浅月さん宅賢者様と共演させて頂いてます


 今日は平和だ、と隣に座る彼が呟いた。
 なまえはティーカップを持ち上げた手を止めて、隣に座る賢者を見る。彼は晴れ色の瞳をうっとりと細めながら紅茶の香りを楽しんでいた。

「確かに、今日は静かですね」
「うん。なにより魔法舎がどこも壊れていない。いい歳したやつらの喧嘩もない。平和だ」

 昼間の食堂は穏やかな空気が流れていた。大きな窓から差し込む日差しは暖かく、それでいて柔らかだった。こんな光が差す世界に、不幸も災いもないんじゃないかと錯覚させるほどに。
 みんながみんな、こんなふうに清廉な光を浴びて午後のティータイムをすれば大抵のことは丸く収まるんじゃないだろうか。そんな風に夢を見ながら、なまえは澄んだ色の紅茶に口付けようとした。
 その刹那、魔法舎が揺れた。激しい破壊音を伴って。

「ゴッホ!?ゲホ、っ、はあ!?」
「ごほ……びっくりした、紅茶に溺れるかと思った……」

 ドガン!と響いた音の直後に壁だか天井だかが壊れるような音がした。この魔法舎に来て、何度か聞いた音だ。賢者が咽せながら立ち上がる。

「あいつら……!言ったそばから!今日は誰だ!」

 乱暴に服の袖で口元を拭い、賢者は大股で階段の方へ向かう。なまえもつられて立ち上がったが、賢者の背中が「あ、そうだ」と急に止まったのでそこから動けなかった。
 賢者はくるりと踵を返して、自分が紅茶を飲んでいた席の隣の椅子に置いていた紙袋から小さな包みを取り出した。

「はい、これはなまえさんに」
「私に?」

 差し出されたそれを、ほとんど反射で受け取る。茶色の包みにはどこかの店のロゴが刻印されている。
 
「昨日中央の国での任務帰りに寄ったお菓子屋さんで、美味しい焼き菓子を見つけたからお土産に。みんなの分買ってきたから気にしないでね」
「わあ……ありがとうございます」

 にこりと可愛らしく微笑む賢者に、なまえも感謝を込めて微笑み返した。和やかな空気が二人の間に流れたが、それはすぐにドゴン!となにかを爆発させたような音に掻き消されてしまう。
 微笑む賢者のこめかみに青筋が浮かんだ。

「ゴラァ!誰だ暴れてんのは!!」

 賢者は声を張り上げながら階段を上っていく。なまえはその背中を見送ってから、貰ったお菓子の包みをを開いた。



▽▲▽



 大きな破壊音とともに、ビリビリと魔法舎全体が揺れて、それはネロのいるキッチンにも伝わってきた。窓がカタカタと音を立てて震えて、大鍋にかけていた火をネロは慌てて止める。

「はあ……魔法舎が壊れる……」

 ため息をスープのスパイスにしながら、ネロは肩を落とした。この気配はオズとミスラだろうか。すぐに食堂の方から「誰だ暴れてんのは!」と賢者が声を張り上げるのが聞こえた。
 賢者さんすげえよなあ。北の魔法使いの喧嘩を止めに入ろうとすんだから。
 スープの味をみながら、ネロは上の階の気配を窺う。今はまだ日が出ているし、双子だっているから賢者が魔法使いの喧嘩に巻き込まれることはないだろう。夕飯の仕込みを続けようと包丁を握ったところで、キッチンに近づく足音に気付いた。軽くて、けど迷いのない足取り。この足音は、とネロは一人の人間を頭に浮かべた。

「ネロさん」

 呼ばれた声に振り向けば、そこには思い浮かべていた人間が立っていた。ネロは緩く弧を描いた唇で返事をする。

「ああ、あんたか。おやつの催促か?」
「おやつはいただきたいですけど、ちょっと見てもらいたいものがあって」
「見せたいもの?」

 ネロが首を傾げると、なまえはじゃん、と子供がお気に入りのぬいぐるみを自慢するように、両手の平に乗せた包みを顔の高さまで上げた。ますます首を傾げるネロに、彼女はとことこと近づいて来る。見覚えのある包みだ。

「これ、さっき賢者様からいただいたんです」
「ああやっぱり。俺も貰ったよ。中央の国の菓子だって?」

 なまえが見せたいものというのは、賢者が魔法舎の者たちにと買ってきたお土産のお菓子のようだった。ネロは昨日のうちに賢者から手渡された。貰ったお菓子は中央の国では有名な郷土菓子だった。素朴な見た目のそれはナッツとドライフルーツをふんだんに練り込んだ、優しく、どこか懐かしさのある味がした。華やかさはないが、店に並べるだけあって、卵とバターは上質なものを使っているのだとすぐにわかったし、ナッツとフルーツも厳選したものだと料理人としての勘が舌を通して訴えてきた。
 美味しい焼き菓子だった。間違いない。魔法舎の子供たちも喜んでいたし、ファウストも「悪くない」と小さく笑い、ブラッドリーは「次は肉にしろよ」と注文をつけていたがその顔は満足気に見えた。
 
「美味かったよ、それ。賢者さんはいい舌してるよな」
「実は私、このお菓子食べたことがあるんです」

 ネロの言葉に頷いてから切り出したなまえに、ネロはへえ、と相槌を打った。旅をしていたというなまえならば各国の様々な料理を口にする機会も多くあったのかもしれない。

「ネロさんのお店を出てからしばらくしたくらいに、知り合った方からお裾分けをいただいて」

 なまえの話を聞いて、ほんの少し前の記憶が蘇る。ネロからしたら、永い時間の中の、僅かな時間だった。
 まだ賢者の魔法使いに選ばれる前、雨の街で人間のふりをして飲食店を営んでいた頃、ひょんなことからなまえを雇っていた期間があった。短い時間だったが、ネロはそのときのことをよく覚えている。
 最初は後悔した。人間のふりをして生きている自分が、魔法使いの自分がただの人間と一つ屋根の下で暮らすなど。彼女と過ごさなければいけない、自らが招いた毎日を思うと気持ちが重くなった。けど実際の日々はどうだったか。
 なまえとの日々は紅茶にシュガーを溶かすような時間だった。ゆっくりと自分一人で過ごしてきた毎日に少しだけ柔らかな風が吹くような。ただのトーストに蜂蜜を垂らすような。
 正直に言えば、思っているほど悪い日々じゃなかった。自分のテリトリーの中でも魔法を使えないというのはそれなりにストレスに思う部分もあったが、それだけだった。
 なまえという人間は、魔法使いにとっても人間にとっても害のない存在だった。
 言葉のひとつひとつに、態度のひとつひとつに他者を尊重する気持ちがあって、それは多すぎることも、足りないこともない。ネロが出会ってきたどんな人間よりも奇特で稀有な存在だった。
 結果として、ネロはなまえが店を出る最後まで後悔し続けた。なぜならなまえと過ごす日々に心地よさを覚えてしまったから。別れを惜しむだけの関係値を生んでしまったから。
 最初は厄介事を招いてしまったなと後悔して、最後にはこんな思いをするくらいなら出会わなければよかったなと。常に心は湿っていた。
 そしてなんの因果か、はたまた運命か、ネロとなまえはこの魔法舎で再会を果たした。なまえとの再会をネロは素直に喜べなかった。だってまた同じ後悔を繰り返すだけだ。何度出会って別れたって、結局ネロは置いていかれる側だから。
 
「ネロさん?どうかしました?」
「え、ああ、いや悪い。話の途中だったよな」

 なまえに名前を呼ばれてハッとする。なまえがわずかに首を傾けると長い毛先が合わせて揺れた。ネロが慌てて笑みを作ると、なまえは納得したのか手の中のお菓子に目を落とす。

「はい。それでこのお菓子を貰って、食べた時に……」

 なまえのトパーズの色をした瞳がネロに向く。キッチンの窓から差し込む光を浴びて、その瞳の色が一層輝く。

「ネロさんに作って欲しいなと思って」

 なまえはただまっすぐにネロを見てそう言った。そしてまたお菓子に目を落とす。その眼差しはいつかを懐かしむような、穏やかな昼下がりの木漏れ日を見つめるようだった。

「旅を続ける中で、美味しいものに出会うたびに、ネロさんに作ってもらいたいなって思って、知らない食材を見かけるたびに、ネロさんならどう料理するのかなって考えました」

 そう言って、ネロと目を合わせて微笑むなまえに、言葉も表情を作るのも忘れて、ただ立ち尽くす。湿った心に爽やかな風が吹き抜けていく。
 ネロにもあった。上手くできた料理を、なまえに食べさせたいなと思う日が。食べたらどんな顔をして笑うだろうと。新しい料理を考えて、なまえが好きそうだなと思って、思い出して、その度に悲しくなった。
 ネロにとってはそうだった。なのになまえは薄らと頬を染め上げて、嬉しそうに無邪気に笑う。

「ネロさんに出会って、その先の旅でもあなたを思い出すようになって、私もっと、旅が楽しくなったんですよ」

 「賢者様にお菓子を貰って思い出したから、伝えておこうと思って」と、なまえは続けた。
 ネロにとってはどうしようもない悲しみの連鎖を、なまえは幸福だと笑う。どうしたって埋められないその差に、ネロはとうとう吹き出した。

「くっ……あは、あははっ」
「えっ、なにかおかしなこと言いました?」
「いや……さすがだよ旅人さん……!」

 ネロは片手で目元を覆うようにして笑う。笑っているのに、目からは違う感情が溢れてしまいそうだった。指の隙間から見るなまえは不思議そうに首を傾げている。その瞳の色は、出会って、別れたときとなにも変わらないまま。

「はは……はあ〜……賢者さんがさ」
「はい」
「そのお菓子くれるときに言ったんだよ。美味しかったからみんなにも食べてほしくてって」

 目元から手を外し、遮るものもなにもなく、なまえを見る。
 賢者は任務先で気に入ったものを見つけるとお土産と称して魔法使いたちに買ってくる。本人が甘いものを好きなのもあるだろうが、彼にとって自分の気に入ったものを分け与えるというのは一種の愛情表現のようだった。どうやらあまり自覚はなさそうだが。
 ネロは目を細めて、悪戯っぽく笑った。

「でもあんたは、作って欲しいにいっちまうんだもんなあ。ははは」
「……あっ!いえあの、催促をしているわけではなくて!」
「あはは!」

 なまえはハッとして、慌てて首を横に振る。その様子がおかしくてネロはまた笑った。なまえは恥ずかしそうに視線を泳がせながら目元を赤くして眉尻を下げる。オロオロとするなまえに、ネロは「わかってるよ」と告げた。
 あの小さな店で、一緒に過ごした時間があったからこそなまえは作って欲しいという形で自分を思い出したのだろう。
 人間と魔法使いでは時間の流れが違う。
 旅の途中でなまえはネロに作って欲しい料理を思い出したという。その短い人生の中で何度もネロを思い出していたのなら、それは悪くない気がした。ネロの永い時間の中に、またシュガーがひとつ溶けていく。
 今日の夕食のメニューに一品追加をしようか。なまえが好きかもしれないと思った料理を今日、出してみよう。

「旅人さん、今日の夕飯楽しみにしててな」
「ネロさんのご飯はいつも楽しみですよ」

 そう言って、ネロとなまえは目を合わせて笑い合った。
 この幸福がいつかの別れをより辛くさせるのかもしれない。またやまない後悔が続くのかもしれない。
 けれど、それでも今、ネロの心は晴れやかだった。


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