どうにも寝付けなくて、のそりと布団から這い出た。
深夜も十二時を回っただろうか。普段なら十時就寝という至極健康的な小学生のような生活を送っているというのに、今日に限っては目が冴えわたっていた。いつも通りの一日を過ごし、別段体力を使っていないわけでもないし、寝る前に脳が覚醒しそうなことをしたわけでもない。だが、まあこんな日もあるだろう。むしろ毎日一ミリも変わらない日々が続くとしたら、それはからくりか何かの生活だ。
簡易的に畳まれた羽織を掴み、下駄に足を突っ込んで部屋を出る。なるべく静かに、しかし下手に忍び足にならないように。船内を徘徊する浪士や幹部に、変に疑われたりしたら堪ったものじゃない。雑務係は肩身が狭いのである。
――やや複雑な経緯でこの船に乗り合わせてから、もう随分と経つ。だがまだまだ知らない部屋、船員、ルール等は数多く存在する。しかしそれらはほとんど、私のような一般人(語弊があるように感じられるだろうが、私自身は本当に極々普通の人間である)は知る必要のないものなのだ。だから、私がこういう時に赴く場所は限られていた。
船員を見掛けては粛々かつ淡々と頭を下げ、長い長い廊下を通り抜ける。夜の冷えた空気は、歩みを進めるにつれどんどん冷たくなっていった。羽織に腕を通しているものの、寒いものは寒い。ぶるりと身震いしながら、私は夜の船内をただ黙々と歩き続けた。
しばらく歩みを進め、ようやく一つの扉にたどり着いた。そこを押し開け、表に一歩踏み出すと、全身を冷気が包み込む。はっきり言って寒い。だが、船内よりはずっとクリアな空気に、久々に顔がほころぶのを感じた。とくに私の部屋は窓がないし、通路の窓も人通りがあるからゆっくりできない。だからたまにこうやって、人の少ない時間に私は甲板に出てきていた。勿論見張りの人がいるから、完全に一人の空間であるわけではないし、気を緩めることもできないけれど。
今日の見張りは誰だろうか。人によってはここにいることを黙認してくれるし、ギラギラとやたら鋭い目付きで問い詰めてくる者もいる。それを分かっていて、こうやってここに来たのは数回目なのだから、私はこの船で随分とメンタルが鍛えられたように思う。
そうして、舳先に立ち遠くを見据えているその人物を、視界に捉えたところで、私はひゅ、と息を吸い込んだ。
「……よォ、こんな夜更けに何の用だ」
満月に照らされ、露になる見張り役の風貌。優美で妖艶な佇まいに、女物のような派手な着物。紫がかった黒髪に、コントラストを与える白い布。
紫煙を燻らせながらおもむろに振り返った彼は、この船の頭領、高杉晋助様その人だったのだ。
*
「高杉様」はなんというかまあ、凄い御方だ。
この鬼兵隊という大きな組織を纏め上げる首領で、その腕っぷしもさることながら頭脳も明晰。おまけにクールでイケメンでイケボときたものだ。まさに非の打ち所無し。だからこそ、私は。そんな彼に勝手に冷酷無慈悲のレッテルを貼り付け、身を守る為に近付くまいとしていた。
だけど、現実というのはなかなかハードで、ゲームのようには上手くいかない。いや、私自身ゲームも全然上手くないのだけど。とにかく、そう上手くことが運ぶのであればきっと、私は間違ってもこの船に乗り合わせたりなどしていなかっただろう。
運の尽き、だったのだ。特別頭が良いわけでも、剣術に秀でているわけでもなかった私が、この船で雑務係なんてものを務めることになったその時に、私のこれからの人生はすべて決められていたのだ。
なんて、悲しいことだろうか。命あっての物種とはいえ、宿も食べるものも仕事さえあるとはいえ、私は時折血のにおいがするここを出ることもできず、怖い人達に囲まれ、あろうことか、とてもじゃないが対峙しては身がもたないようなこの人と鉢合わせてしまった。きっと悲劇のヒロインと言ったって遜色ない。
「なんだ、月見か? 手ぶらじゃあちと勿体ねェな。酒がありゃ、美味いモンが飲めただろうに」
びくりと、思わず肩が揺れてしまう。質問の返事を待たずして、高杉様はまた、話し出された。頭の中で必死に練っていた答えを慌てて棄て、私は新しく出された質問の返答を再び練り始める。
「それとも、波の音を聴きにでもきたかィ。船の中までは、そう届かねェからな」
えっ、と思わず言いたくなるのをぐっと堪えた。間五秒。彼はまた、無情にも新たな質問に移った。私はその五秒を使ってこねくり回していたカスカスの答え未満をまた棄て、再び新しい質問の答えを、火花が散るほど思考のフル回転をさせて考える。
「それか、星に願いでも捧げにきたか。生憎今宵は、満天の星じゃねェがな」
ちょ、ちょっと待って高杉様! 会話のキャッチボールが一向にできません! 一方的に全力投球されて、私もう全身ボロボロですが!
精神的に満身創痍の私の様子を見てか、高杉様はククッと喉を震わせて見せた。てっきり、そろそろ「聞いているのか」と、お咎めと共に心臓に刀を頂戴してしまうかと思ったが、流石は一つの組織を纏めあげるお人は、違う。器の大きさが。全然違うな。流石、高杉様。
なんて、感心している場合ではない。ようやく貰った十秒以上のロスタイムを、無駄にしてはいけない。ここではまったくと言って良いほど人と関わってこなかったツケで、普通の人なら鼻でもほじりながら返せたはずのピンポン玉を顔面キャッチでめり込ませているのだから、私に休憩している暇などないのだ。
「あ、の……ちょっと、外の、空気を、吸いたくてですね、」
「あァ……おめェの部屋には窓がねェからな」
あれ、どうしてこの人は、そんなことを知っているのだろう。と思ったが、まあ、船の中で一番偉いお人なのだから当たり前か。そして、間一秒も入れずして軽やかにボールを打ち返してくるその腕前の、なんという鮮やかさ。凄い。今の私にはもうできそうにない芸当だ。これぞまさに、会話のキャッチボール。いや、私がここから返せない時点で、ラリーできてないし別のボールにすり変わっているわけだけども。
「ここにはもう慣れたか」
また五秒ほどの間が空いてしまうが、なんとか「それなり、には」と返すことができた。今度は、私の返事を待ってくれた。
「お前、何か欲しいものはあるか」
え? と聞き返しそうになるが、慌てて飲み込む。脈絡がない上、しがない雑務係の欲しいものなど聞いて、どうする気だというのだ? とはいえ、流石にこれ以上無視することはできず(もちろんこれまでだって、無視しようとして黙っていたわけではないが)今は、とくには、などと謙虚な返事をした。いや、できることなら欲しいもの、あるけれど。別に生活するにあたってどうしても必要なものではないから、別に良かった。
「そうか」
「は、い……」
「……」
「……」
それきり、彼は黙ってしまったし、私も私で話すことなど一つも思い付かず、口を閉じる他なかった。ああ、苦しい。息がつまりそうだ。でも、それでも、不思議と部屋に戻りたいとも、何故ここに来てしまったのだろうとも、思わなかった。
暫しの沈黙が、数メートルの距離の間を横断し流れる。それを鋭く断ち切ったのは、また別の野太い声だった。
確か武器倉庫の管理を請け負っているその人は、高杉様の名をよく通る大きな声で呼ぶと、少々お時間よろしいですか、と付け加えた。その口振りからして、差し迫った案件ではないのだろう。しかし無論、高杉様がそれを断って私なぞとのコミュニケーションに時間を費やす道理など、この地球を隅々まで探しても見つかるわけもなく。
高杉様は艶のある低い声でああ、と頷くと、すたすたと私の方へ歩いてきた。というのは語弊であり、正しくは私の後方の扉、つまり部下の人のいる方へ向かっていったわけだが。それでも図々しい私の頭は、思わずそう解釈してしまったし、心臓はとび跳ねてしまった。
私の隣を、高杉様が通りすぎる。鼻を掠めた煙管の香りと、どこか色気を感じる匂いに、頭が少し、クラクラした。なんだこれ、やばい、高杉様、なんかいい匂いした。
(ああ、高杉様。こんな私めとの会話にほんの少しでも興じてくださって、ありがとうございました)
久しぶりに、本当に久しぶりに、人と会話をした。挨拶や、仕事上での業務的な言葉のやり取りじゃなくて、あってもなくても支障がないような、そんな話を最後にしたのは、もういつのことだったか、覚えていないくらいだった。
私はただのしがない雑務係で、ここの船員の人達と話すことも機会もなかった。そしてまた、そういう日々が続くのだろうけれど、それでも、束の間のひと時をありがとうございました。例えるなら、閉め切ってじめじめとした暗い地下室に、一陣の風が吹いたような。無味無臭のスポンジケーキに、一滴のエッセンスを垂らしたような。そんな、ひと時。きっとここから何かが変わるなんて、劇的なことは起こり得ないけれど、それでも、素敵な時を、ありがとうございました。
「なまえ」
「はイッ!?」
――気道と心臓と脳みそが萎縮して、全身が強張った。
私がどれほど驚いたかは、声が裏返ったことから察して貰えるだろう。しかしもちろん、その原因である高杉様は、私の反応など気にする素振りも見せない。船に入る寸でのところで振り返り、その美しい隻眼で私の視線を絡め捕らえて離さない。
というか、高杉様、私の名前、覚えてたんだ。
「……また話し相手になってやらァ」
ぽつりとこぼしたような。それでいてその声は鮮明に、私の耳に届いた。
高杉様はそれだけ言い残すと満足したように、船の中に入っていった。重厚な扉の閉まる音がして、それから、私は止めていた息をどっと吐き出したのだった。
こんなに心臓が動いたのは、一体いつ以来だろう。すっかり錆び付いてしまって、最低限の生命活動のためくらいにしか、もう動かせないと思っていたのに。
じわじわと火が大きくなるように、胸のあたりにじんわりとあたたかさが募っていくのを、気付けないふりなどできるはずもなかった。
今までこの船以外のどこに出ることもなく、ただ淡々と仕事をこなすだけの変わり映えのない日々を。敵は居ないが味方も居ない毎日を。寂しいと思わずに、いられるわけもなかったのだから。
私は、自分の気持ちを誤魔化せるほど、器用な人間じゃあ、ないのだ。
久しく呼ばれていなかった、もはや自分のものかも危うい名前が、彼の低い声で何度も何度も耳の奥を揺らす。
私は、その声を耳から落としてしまわないよう、大事に大事に手で押さえながら、真っ暗な自室へと戻っていった。
もう一度、呼ばれたいなぁ、なんていうのは、きっと果てしなく身の程知らずな願いだ。
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