「いい加減起きやがれ」
「っんに゛!?」

 頬に強めの衝撃を受け、意識が一気に浮上する。眼前には、相変わらずとうもろこしのような立派なリーゼントを携えた紋土くんが、厳つい顔でこちらを見下ろしていた。
 引っ張られた頬から武骨な手が離れていき、私はふてくされながらも起き上がる。

「ええ……なに急に、乙女の部屋に乗り込んだ挙げ句ほっぺた引っ張って起こすぅ……?」
「どこに乙女がいるってんだよ」
「目の前だよ!!」

 即座にツッコミを入れると、紋土くんはブハッと笑った。しかもそれはどこか私を小馬鹿にするような笑い方で、なにくそとパンチを決めるが大きな手のひらに吸収され防御されてしまう。不満に思って口を曲げたけど、すぐに可笑しくなってしまい私もまた笑った。

「……で、オメー今日が何の日か忘れたのかァ?」
「はえ? なんかあったっけ」
「はぁ……ったく、オメーはいつまでたってもポンコツだな」
「なんと失敬な!」

 やれやれ……とわざとらしくため息を吐いて見せる紋土くん。昔からわかってはいるが、本当に紋土くんは私に対して失礼だ。まあ、今さら気を遣われたところでゾワゾワしちゃうんだろうけど。
 紋土くんは少しだけ真面目な顔になって、私を見る。私は紋土くんのこの顔があんまり好きじゃなかった。だけど紋土くんは私の心の中なんて露知らず、静かに諭すように言った。

「しっかりしろよ、オメー今年でいくつになんだよ」
「……うん、そうだよねぇ、もう子どもじゃいられないんだもんね」

 うんうん、と頷きながら、視線が落ちていく。──突然、あらゆる不安が私を襲った。これからも、ちゃんとやっていけるのだろうか。そもそも、私はこれまでも、ちゃんとやってこられたんだろうか。何一つ自信がない。持てない。私は一体、どうやって生きていけばいいのだろうか? 怖くなって、すがるように目の前の紋土くんを見た。

「ねえ、紋土くん……これからもさ、一緒にいてくれるよね?」
「……オメーはオレがいねーと、っとにポンコツだな」
「二回目!!」

 があああ! と頭を掻きむしりたくなるが、それより早く暖かいなにかが乗せられた。私の大好きな、紋土くんの大きな手のひらだ。

「んだが悪ィな、それァできねェ。蘭、オレの背中に隠れるってなァもうシメーだ」
「……、」

 ──がん、と言うほどの大きな衝撃はなかった。どこかで、わかっていたのかもしれない。この答えを、私はきっとわかっていた。
 紋土くんは俯く私を慰めるように、励ますようにがしがしと頭をなでつける。不器用で、やさしい手つきだった。

「んなシケたツラしてんじゃねーよ。オレァ、今度は遠くからだが、オメーの背中ちゃあんと見ててやっからよ」
「ほんとに……?」
「おうよ」
「……でも、私、自信ない。紋土くんが、すぐそばにいてくれないと……」
「だぁいじょうぶだっつの」
「……なんでそう言い切れるの?」

 小さく、尋ねる。少しだけ潤んできた瞳越しに見た紋土くんは、誰にも負けないような不敵な笑みを見せる。

「オメーにゃオレ以外にも、頼もしい仲間がたくさんいんだろ。苗木たちと、あいつらと、一緒にやってきゃあいいんだよ」

 ──そうだ。私は、私には、たくさんの仲間がいる。「今まで」を一緒に築き上げてきた、「これから」を一緒に築き上げていく仲間が、たくさんいる。
 心が、世界が、少しだけ寂しさを残したまま、それでもなお輝き出す。

「一人で抱え込む必要はねェ。何かあったらちゃんと相談しろ。……オレにはできなかったからな。だから、蘭。オメーは、ちゃんと周りを見ろ。たったひとつのことだけにすがってんなよ。しっかり目かっ開いて、今あるもの見やがれポンコツ」

 言いきって、紋土くんは私の頭からゆっくりと手を離した。

「意地を張るな。自分にも他人にも、嘘はつくな。それができりゃ上出来だ」

 紋土くんの言葉が、一つ一つ、弱虫で泣き虫な私の頼りない足を支える力になっていく。
 私は、紋土くんにとうとう言われてしまう前に、頑張って、辛くて苦しいけどそれでもしっかりと、自分から立ち上がった。多少ふらつきながらも、倒れることはもうない。

「わかった、頑張る」
「おう、しっかりやれよ」

 私が立ち上がってから、紋土くんもゆっくりと腰を上げた。そして、私の大好きな、大好きで大好きでたまらない、飾らない笑顔を見せた。私も、心の底から笑った。

 もう少し。まだ、もう少しだけ。

 紋土くん、と、人生でいちばん口にしたであろう大好きな名前を今一度、小さな小さな声で呼ぶ。そして、口元に手を寄せて背伸びをすると、紋土くんは聞き取ろうとしてかがんできた。私はぐっと近くなったその首もとに、ぱっと抱きついた。離したくない。手離したくない。

「あのね、紋土くん。世界でいちばん大好きだよ」

 紋土くん。紋土くん。誰より信頼してて、私のヒーローで、もう一人の家族で、だいすきな私の幼馴染み。

 紋土くんは、私の背中にそっと腕を回す。少しだけ、躊躇うようだったけど、今度はちゃんとしっかりと、抱き締めてくれた。

「オレも、大好きだ、蘭」

 ああ、嬉しいなぁ。紋土くんはかっこつけだから、そんなことを素直に言ってくれたことなんてついぞなかったなぁ。もちろん、わざわざ言葉にしなくたって十分に伝わってたことだし、第一紋土くんは言葉じゃなくて行動で表す人だったから。本当に本当に、ちゃんと伝わってたけど。
 ぎゅうっと私を抱き締める力強い腕も、ちゃんと心臓の音がする逞しい胸も、耳元で聞こえた低い声も、暖かな体温も、すべてがいとおしい。

 ずっとずっとここにいたいなぁ。
 でも、もう行かなきゃなぁ。

 紋土くんからゆっくり手を離して、かかとを地面につけると、紋土くんの手も私から離れていく。紋土くんの匂いが、温もりが、離れていく。
 名残惜しさはある。迷いだってある。それでも紋土くんが今までたくさんくれた力が、私の背中を押す。
 くるりと踵を返して、私は歩き出した。もう振り返ってはいけない。振り返ったら、戻れなくなってしまう。だから私は、前を向いたままでも、後ろの紋土くんに届くようにお腹の底から叫んだ。

「いってきます!」

 光が眩しい。目が眩む。それでも私は、しっかりと目を開いて前を向いて歩き続ける。そのさなか、大きな大きな声で「蘭!」と呼ばれた。てっきりいってらっしゃいが返ってくるのかと思ったが、彼がさいごにくれた言葉は違っていた。

「誕生日、おめでとうな!」













「ようやく起きたのね」

 ぼやける視界の中、聞こえたのは呆れたような声色だった。声の主は、私のベッドに腰かけているのだとすぐに理解した。私はいつもは覚醒するのにもっと時間が掛かるけど、その時はゆっくりとではありながらも、すぐに上体を起こすことができた。彼女は小さくため息を吐きながら、続ける。

「あんたがいつまで経っても起きてこないから、わざわざあたしが来てやったのに……泣きながらニヤニヤしちゃって、よっぽど良い夢でも見ていたんでしょうね」

 言われて、私はようやく頬が濡れていることに気がついた。けれどそれはもう乾き始めていて、新しい雫が流れ落ちてくることもない。

「あいがと、とーこちゃん、おはよう」
「フン……」
「おはようにはおはようって返そうよぉ」
「面倒くさいわね……おはよう。……あと、おめでと」

 ついでのように添えられた言葉に、え? と思わず首を傾げた。その様子を見た冬子ちゃんが、またも呆れたように私をじっとりと見る。

「今日はあんたの誕生日でしょ」

 ……ああ、そっかぁ。
 そういえば、そうだった。昔は誕生日のたびにわくわくそわそわして、ケーキは何にするか、プレゼントは、なんて楽しみにしていたけど、今年は前日になっても思い出しすらしなかった。忙しくて目まぐるしい毎日を送っていたからかもしれないけど。
 しばらく黙っていた私に、何か勘違いしたらしい冬子ちゃんがわなわなと震え出した。

「……なによ、まさ、まさかあんた、あぁあた、あたしなんかから一番に祝われたのが屈辱だなんて言うんじゃ、」
「違うよ、うれしい、すごくうれしい。へへ、ありがとね、冬子ちゃん」
「……フン」

 冬子ちゃんに祝ってもらえた嬉しさが、じわじわと心を暖める。嬉しい、嬉しいな。覚えててくれたことも、お祝いしてくれたことも、すごくすごく嬉しかった。
 冬子ちゃんはベッドから腰を上げると、「早く準備しなさいよ、苗木たちも待ってるんだから」と言い捨てるように告げた。私はようやく布団から這い出て、ぼさぼさの髪の毛を一旦適当に手ぐしで整える。

「でもね、実は一番は冬子ちゃんじゃないの」
「あら、そうなの? じゃあもっと早い夜中か、明け方にわざわざ言いに来た迷惑な奴がいたのかしらね」
「へへ、うん、そう」

 嬉しさを滲ませながら頷けば、いつもちょっとだけ不機嫌そうな冬子ちゃんも、ほんの少し笑った。……しかし、私がいつまでたってもにやにやしていたおかげで、その眉間にみるみるうちに皺が寄っていく。

「……蘭、あんたのにやけ顔、本当に気色悪いわね」
「ええ!? ひどい!」


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