「………………………?」
何も理解出来なかった。頭の中が真っ白になって、目の前の景色もぐらぐら揺れて。もしかして自分具合が悪いんじゃないか? って疑うほど、何も考えられなくなって。
震える指先も、笑う膝も異様に渇いた唇も、顎を伝う汗も額に張り付く前髪も火傷したみたく熱い喉も凍ったように冷たいお腹も痛くて痛くて痛くて痛いくらい脈打つ心臓も、何もかも、可笑しくて。
苗木や霧切さんが、何を言っているのか分からなかった。どうして石丸が顔中の穴という穴から液体流して、青い顔面で紋土くんに詰め寄っているのか、どうして紋土くんはそんな石丸と目を合わせようとしないのか。分からなかった。錆付いた思考回路が動こうとしない。否、動いてはいけないとでも言っているかのようだった。これを理解してはいけないと、壊れた脳が可笑しな指令を出しているみたいだった。
「……河部、早く、投票、しなさいよ……」
「……ふかわさん? ……とうひょう?」
「も、モノクマに従わなかったら、あんたが殺されるかもしれないのよ……!? 早く、大和田のボタンを押しなさい!!」
「……紋土くん?」
隣にいたぶるぶると震えてる腐川さんに促されるまま、手元の投票ボタンに目を落とす。紋土くんのボタンを押す?って言ったっけ? ……でも、なんで? だってこれ、犯人を決めるボタンじゃないの? 人を殺した人のボタンを押せばいいんでしょ? 紋土くんは誰も殺したりなんてしてないよ? 確かに、不二咲くんは死んでしまった。あんなに優しくて可愛くて、誰より強くなろうとしていた不二咲くんは死んでしまった。でも、その不二咲くんを殺したのが紋土くんなわけないじゃない。そもそも、誰も殺したりなんてしてないんだよ? 一個前の学級裁判だって、舞園さんは死んでしまって、多数決で桑田くんが処刑されてまた死んでしまった。でも、だけど、あれだって桑田くんが舞園さんを殺したんじゃない。
悪いのは、すべて、モノクマじゃないか。
何度も何度も何度も何度も往復して見るけど、モノクマのボタンは並んでいない。どうしてだろう? 皆を殺したのはモノクマのはずなのに。誰も悪くなんてないのに。どうしてモノクマはシロの中からクロを出そうとしているの? 馬鹿なの? ねえ? なんで? 犯人なんて、私たちの中には存在しないのに? 居もしない犯人見繕ってどうするの? ねえ? ねえ? モノクマ?
「……おやおやぁ〜? 河部さん、いい加減投票しちゃってくれないかなぁ〜?」
「……だって、犯人のボタンなんて、ないじゃん」
「何言ってるの? 不二咲クンを殺したクロは、確実にそのボタンの中の誰かなんだよ? もしかしてそれって現実逃避? 目の前の現実から目を背けて二次元の世界に没頭する夢見がち女子みたいな痛いこと言わなくていいからさぁ〜、早いとこそのボタン押しちゃってよッ!! じゃないと、」
モノクマがその丸みを帯びた手に力を込めると、ジャキン! と鋭くて長い爪が飛び出してきた。モノクマが切ったその言葉の続きが何であるのか、馬鹿でも理解できただろう。それでも私は、不思議と何も思わなかった。「ああ、そうなんだ」程度のことしか思わなかった。
「河部!!」
切羽詰まったような腐川さんの声がする。それ以外にも、私を呼ぶ声、ボタンを押すように促す声がたくさん聞こえた。
でも、ねえ、それってどういう意味? このボタンを押せば、人が、死んじゃうんだよ?
「…………押せるわけないじゃん!!!」
張り上げた声が響き渡り、法廷が水を打ったように静まり返った。
「……押せる、わけ、ないじゃん……」弱々しく、呟く。今この場で、気絶でもできたらどんなに楽なことだろう。
分かりたくなんてないけど、分かってる。分かってるんだよ。
それでも、まだどこかこれは夢なんじゃないかって。遠くから目覚まし時計の音が聴こえてきて、目の前の景色が急に切り替わって、カーテンから漏れる朝日に目を細めて。そうしてまた平和な一日が始まるんじゃないかって。
こうしてこのまま時が過ぎるのを待っていれば、誰かが起こしてくれて、この生き地獄のような悪夢から覚めることができるんじゃないかって。そう、信じていたくて。
「……河部さぁん、悲劇のヒロインぶって感傷に浸るのはもう十分でしょ? 皆待ちくたびれちゃってるよ!! あとは河部さんだけなんだから、早いとこ投票しちゃってよね!!」
爪を鋭く伸ばしたモノクマが、ぬいぐるみのくせに顔を真っ赤に染め上げ、とてとてと近付いてくる。
その、モノクマを、大股で歩いてきた紋土くんが抜かし、
「……紋土くん?」
今まで、法廷の向かい側に、一番遠いところにいた彼が、私の一番近く、目の前までやって来た。
そして、そんな彼の表情を、私は初めてちゃんと認識したのだ。
「もんど、く、痛っ!!」
今までで一番、強い力で腕を掴まれた。今までで一番、乱暴に腕を引かれた。
その先にあるのは──紋土くんへの、投票ボタン。
「……いやだっ!!」
瞬間、どろどろに溶けていた頭が、覚醒した。
「やめっ、やめてよ!! やだ、やだやだやだやだ!!」
無我夢中で腕を振り回す。脳内の警鐘が馬鹿みたいに暴れ狂う。無力さを自ら知らしめるように、まるでお前にはおあつらえ向きだと、吐き捨てるように。
「離して! 離せっ!」
頭から足先まで、全身を酷く冷たいものが駆け抜けていく。命が危険に晒されたかのように、すべての器官が暴走して、苦しい。呼吸が、上手く出来ない。
「離せ、離せ離せ離せ離せ!!!」
わかってんの? これ押したら、紋土くん死んじゃうんだよ?
わかってるよ。これ押さないと、皆死んじゃうんでしょ。
紋土くんは、何も、喋らない。
「離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せえええええ!!!」
ぽん、と。
今までの抵抗がまるで嘘みたいに。
私の手は、いとも容易く、それを押した。
「……あ…………ああ……」
脳裏に蘇るのは、桑田くんの処刑。
よりにもよって紋土くんを、あんな非人道的な、残虐な方法で、ぐちゃぐちゃにしてしまうための最終スイッチを、私が、この手で押してしまったのだ。
壁の上部のスロットがくるくる回り出し、やがてそれは安っぽいBGMと共に、かしゃん、かしゃん、かしゃん、とうごきを止める。
横に三つならんだ紋土くんのかおが、ぴかぴかと点灯し、どこからかものくまの、明るく、ぶきみな笑いごえが、ひびいた。
「だいせ〜かい〜!! 今回不二咲クンを殺したのは、超高校級の暴走族、大和田紋土クンでした〜!!」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
うそ、うそだ。
紋土くんが、ずっと昔から、当たり前に隣にいた紋土くんが、死ぬ?
狂ったように肩が上下する。喉が熱くて、血の味がする。ぼたぼたと、涙か汗か、涎か鼻水かも分からない滴が足元を濡らしていく。自分の醜い呼吸音が聴覚を支配する。私の腕を掴んでいた、紋土くんの手がゆっくり離れていく。
「……な、あ……蘭」
「………」
「お前が、ここから出た後…チームを頼んでいいか」
「……は……な、に……ってんのさ」
「……冗談だよ」
すっと、私の頭に伸びてきた手は、隠しようもなく震えていて。そもそも、声だって震えていて。
「お前は、お前だけは、絶対にここから出ろ」
諭すように、それだけ言われた。何だよそれ。紋土くんは。紋土くんはどうすんのさ。一緒に出るんじゃないの? なんで、紋土くんは、どうして。
一、二度頭を撫ぜて、紋土くんの大きな手が離れていく。
それから、暮威慈畏大亜紋土の、彼の誇りである長ランを翻し、私に、私が大好きなその背中を向けた。
「い……やだよ……」
紋土くんは、自ら処刑場に向かって歩き出す。遠退く背中に、私は、とてつもない恐怖が、私を殺しにかかってくるのを感じた。
ほとんど無理矢理、動こうとしない足を強引に動かして、もつれながら、その背中に飛び付く。
「い、やだ、行かないでよ! 紋土くん! ねえ! ねえってば!!」
お腹に腕を回し、どんなにきつく抱き付いたって、紋土くんが振りほどけないわけないのに。律儀に足止めたりなんか、してんじゃねえよって、殴ってやりたくすらなって。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!! おいてかないで!! 一人にしないでよ!!」
法廷に、私以外の声はない。もしかしたら私が聞こえてないだけかもしれないけど、この場において、私だけ明らかに「してはいけない」動きをしているようだった。まるで黙ってじっとしているのが、正解であるみたいに。
「もっ────」
突然、目の前の大きな背中がぶれて、全身に衝撃が走った。
振り解かれた。かと思えば、今度は視界が真っ暗になり、背中に腕を回され、支えられた。抱き締めるなんてことはしないで、まるで壊れ物に触れるかのように、弱々しい力だった。
「な……、」
混乱する私をよそに、紋土くんは、何かを言いかけてやめた。馬鹿だなあ。馬鹿だよ。紋土くんが何を言おうとしてたかなんて、私に分からないはずないじゃないか。
でも、無理だよ。そんなの、とてもじゃないが聞けそうになんてない。涙腺なんて、とっくのとうに壊れちゃって、止めたくても止まらないんだよ。こんなんじゃあ、紋土くんの顔だって、よく見えないと言うのに。
哀しくなるくらいに、咽び泣きたいくらいに、紋土くんの体温が伝わり、私の体温も紋土くんに伝わる。狂った鼓動も、伝わらなくていいのに、伝わってしまう。
「ごめんな」
謝ってんじゃねえよ。私なんかに、謝んないでよ。ほんとうに、馬鹿じゃないの。ごめんな、なんて、そんな優しい言い方、泣きそうな声で言うなんて、暴走族じゃないよ。紋土くんじゃない。謝るんだったら、ひとりにしないでよ。
「……い」
私をおいていかないでよ。
「……紋土くんなんか、」
「世界でいちばん、大嫌い」
紋土くんだけに届いた、そっとひそめた声が、彼と私自身の心臓を貫いて抉る。いっそ、そのまま、ぐちゃぐちゃに抉り潰してほしいなんて、馬鹿みたいに思った。
私が、紋土くんの思うことを手に取るようにわかり、またそれと同じように、紋土くんだって、私の思うことを手に取るようにわかっていて。
見抜くべきでない嘘を、結局彼は見抜くのだから。私が死にそうな思いで絞り出した声は何の意味も持たなくなって。ただ、心臓を刺すだけの最低な言葉にしかならなくて。それなのに、見抜かれてることに、安心なんて感じているのだから。私なんて、紋土くんじゃなくて、私が、しんでしまえばいいのにと。
「そうか、」
紋土くんのかすれた返事が、耳の奥で木霊する。それから、彼は、ほんとうに私から手を離し、その身を最期の場所へと向かわせた。遠ざかる背中に、届くはずもない手を、とうとう伸ばすことさえできなくなって。立っていることすらままならなくなって。何も聞こえなくなった。ただ頭の中で、紋土くんの声だけが何度も何度も響いていた。
悪あがきのような、どうしようもない最期の嘘に。ほんの少しでも紋土くんが私を断ち切るための、あるいは、ほんの少しでも私が紋土くんを断ち切るための、どうしようもない嘘に。
何もできずに紋土くんをころしてしまう自分に、反吐が、出そうだった。
シャツも下着も、汗で肌にまとわり付いて気持ち悪い。ただひたすらに、気持ちが悪い。寒くて寒くて堪らない。溺れたように、肺が苦しい。声がでないのに、嗚咽で喉が痙攣して、吐いてしまいそうで。
お前だけは、なんて、お願いでも約束でもない。ただの、呪いだ。
***
最後の嘘をつきました/診断メーカーより
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