バレンタイン


 2月14日。トキは心もち疲れた様子で帰路へ着いていた。
 最早毎年恒例となっている、トキから松野兄弟へのチョコレートのプレゼント。毎年「今年こそ切ろう」と決意しているのだが、何だかんだで結局今年も作ってしまった。いい加減二十歳も過ぎたのだから、毎度この手のイベントに乗る必要もないだろうに。……だが、渡すたびに飛び跳ねて喜んでくれる十四松や、喜んでいる様子が顔面から駄々漏れのカラ松とチョロ松。トド松は率直に言葉で嬉しさを伝えてくるし、一松も分かりづらいが表情が緩む。さらにバレンタイン当日までにやたらと「楽しみにしています」アピールをされれば、打ち切るのは至難の業だ。
 早く全員、彼女の一人や二人でも作ってくれないだろうか。切な願いだった。

 ──と、その時。背後からただならぬ気配…というか足音が鼓膜に届き、トキは反射的に振り返った。
 そこには、鬼気迫る表情を浮かべた松野家の男共。

「……!?」

 トキは咄嗟に走り出した。わけがわからなかったが、彼らの顔を前にある種の危険を本能が訴えたのだ。

「あっ! コラまてトキ!」

 おそ松を筆頭に、何やら叫んでいるが無視。捕まったら終わりだ、そう思えてしまうほどに身の危険しか感じなかった。
 ここ数年で一番速く走っている気がする。息が上がって辛い。心臓が痛い。高校を卒業してから体育がなくなって、運動する習慣がめっきり減ってしまったツケが回ってきたか。そうでなくとも、元々体力は少ないほうだった。学生の頃、上手いこと持久走を見学していた一松を何度羨んだことか。
 トキは走りながらちらりと振り返る。1、2……5人。何故か青いパーカーが見えないのが気になるが、そのトキと同じく持久走を苦手とする一松ですら自分を追いかけている。一体どういうことなのだろうか。話を聞けだの、このドライモンスター予備軍だの、色々聞こえてくるが未だ話が見えない。そろそろ喉から血の味がしてきて、足を止めたい衝動に駆られた時、トド松から聞き捨てならない叫びが聞こえた。

「トキー! カラ松兄さんが本命ってどういうことぉぉ!」
「……はぁぁ!?」

 トキはそこでようやく返事をした。せざるを得なかった。というより、どうしてそういう結論に陥ったのか事細かな説明を求めたい。そしてその全力で勘弁願いたい誤解を解かねばならない、そう悟った。

「…よし目標減速! 十四松、確保!!」
「あいあいさー!」
「は!? ちょっ……お前なんでこんな時に限って話の流れ読んでい゛っっっ!?」
「いヨイショオー!!」

 おそ松から指令を受けた十四松が、気の抜けた形相とは裏腹に恐ろしくスピードを上げて迫る。勿論それから逃れるほどの速さを持ち合わせているはずもなく、トキはそのまま背中から腕を回され締められた挙げ句、地面へとダイブする破目になった。

「ウワーッ! 十四松兄さんやりすぎ! トキ大丈夫!? 怪我してない!?」
「トキーーー! クルァァァ長男テメーなんて危険な命令下してんだボケェ!」
「えー!? 俺が悪いの!? これは十四松の責任じゃない!?」
「責任転嫁もほどほどにしなよ……」
「一松まで! 俺の味方はいないの!?」

 おそ松が拗ねるように声を上げるが、誰に耳にも届かない。そうこうしている内に、地面に伏したトキの背から十四松が飛び退き、彼女の安否を窺った。

「トキ!! ごめんね!! 大丈夫!?」

 大丈夫なわけがあるか。上手く回らない口でそう抗議しようとしたが、顔のそばにぼとりと落ちてきた黒い物体に、思わず視線が向いた。十四松の長い袖から落ちてきたのだろうか。トド松の台詞から窺うに、恐らく、この悲劇の発端。
 その、自分が先程渡したチョコレート──正確に言うと、炊飯器で作った至極簡単なチョコレートケーキ。今回トキは、一つの円を目測で七つに切り分けた。それを一つずつ袋に入れ、残りの一切れは味見と称して己で美味しく頂いたのだが、その六つの内の一つ……カラ松の分を意図的に、倍くらいの大きさにしていたのだ。
 勿論そこには理由があるのだが、彼らがそれを黙って聞くはずもない。こちらにようやく追いついた彼らが、一斉に口を開いた。

「トキ! 冗談だろ!? カラ松が本命なんてそんなお兄ちゃんそんなん信じねーぞ! 絶対!!」
「いや、ちが」
「そそそそんなわけないよねまさかトキがカラ松に本命なんてそんな! そんなわけないって!」
「ちょ、聞い」
「よりにもよってクソ松とか……トキ一回精密検査受けた方がいいよ目と頭」
「だからちが」
「トキ! カラ松兄さんのこと好きだったの!? いつから!?」
「いいかげ」
「違うよね!? トキ違うって言って! お願い!」
「だーから聞けっての馬鹿!!」

 一際大きく張り上げた声に、辺りは静まり返った。鶴の一声……というほど発言力を持っているわけではないが、少々混乱していたトキの一声は、ピンマイクでも付いているのかと疑うほどには耳の奥に響いた。自分でもそう感じたらしく、煩わしそうに目をすがめた後うるせっ、とぼやいた。
 それから、ここが外であり、周囲には少なからず通行人がいることを思い出す。彼らに好き勝手言われたことに、熱でも出てしまいそうだった。街中で大声を上げてしまったこともそうだが、何より誰が本命だの、好きだの、例えそれが盛大な誤解であったとしても響き渡るようなボリュームで叫ばれたのだから堪ったものじゃない。周りからのクスクスといった声が、微笑ましいと言いたいのか嘲笑なのかも判らないほどには、思考が回せなかった。死んでしまいそうだ。むしろ死んだほうが楽だ、絶対。
 体勢を直し、フラフラと立ち上がるトキ。襲い来る感情を苛立ちに昇華してなんとか誤魔化しながら、彼女は厭そうに口を開いた。

「……多分、チョコの大きさのこと言ってるんでしょ。あれは本命だとかそうじゃないとか、そういう話じゃないから」
「じゃあどういう話だよ! カラ松ばっか贔屓しやがって! お兄ちゃんにもでっかいチョコくれよー!」
「駄々っ子かお前は」

 べたべたと人目憚らず纏わりついてくるおそ松をどうにかひっぺがし、ぼそぼそと弁明を続ける。よりにもよって兄弟の彼らに、自分がカラ松に恋愛感情を向けているなどという誤解を受けていることに、なおのこと死にそうだった。もはや殺してくれ。

「去年のお返し……あんな材料費やっすいチョコに、カラ松だけ馬鹿みたいに異様に金かけてたから、流石に全員統一は悪いと思って見合うようにしたっていうか……そもそも毎年結構そういう風にやってんだけど、何、気付いてなかった?」
「は!? 何だそれ!」

 トキの発言を受けて彼らは手元のチョコに視線を落とす。

「…あっ! 俺のだけ粉砂糖掛かってないじゃん! ケチかよ!」
「はい回収」
「ちょっちょっちょっ待っ、ごめんって今年はちゃんとお返しするから!」

 袋を奪い去ろうとするトキに、おそ松は必死で抵抗する。その様子に、こちとらボランティアで作ってるわけじゃないんだよとトキは視線で訴えた。年々おそ松の、トキのチョコに対する有難みが薄れていたが、そろそろここらが潮時だ。来年は五人にだけ配ろう。一年後には風化するであろう決意を固めた。

「えー! トキ、僕のお返しはお気に召さなかったの!? なんか僕のチョコ、チョロ松兄さんのと大差ないんだけど!」
「オイどういう意味だトド松」
「そういうわけじゃないって……あとどっちかっていうと値段で決めてるし」
「えー残念……じゃあ今年は去年より素敵なお返しするね!」
「オイ、無視か」
「あー期待してるわ。そういえばカラ松は?」
「カラ松にーさんならトキからのチョコが本命って聞いて固まってたよ!」
「嘘だろ」

 先程から姿が見えないカラ松の所在を尋ねると、十四松から薄々予想はしていた答えが返ってきた。本当になんて面倒くさい奴なんだ。これからまた松野家へとんぼ返りして誤解を解かねばならないのかと思うと、気が重かった。なぜなら相手は厨二病全開の勘違い野郎なのだ。どれだけ弁解すれば伝わるだろう。考えるだけで嫌になった。

「……あ、トキ。カラ松兄さん」

 え、とトキはトド松の視線の先を振り返る。彼の言う通り、遠くからカラ松が走ってくるのが見えた。遠目でも分かるほど、顔どころか耳や首まで真っ赤に染め上げているのは、決して体力を消耗しているからではないだろう。カラ松は兄弟の中でも、身体能力はかなり高い方だ。

「……トキ!」

 大分遅れて到着した六人目は、軽く息を切らしていたがそれもすぐに収まった。カラ松はトキの目の前へ立ち、しばし視線を合わせたあと、彼女の自分より一回り小さな手を取った。トキの肩がびくりと揺れる。カラ松の熱い手から、じんわりと体温が伝わってきた。

「トキ……お前は俺のことが好っ」
「叫ぶな馬鹿野郎!」
「あだっ!」

 掴まれた手を振りほどき頭を思い切りはたく。馬鹿にはこれくらいしないと通じないことは今までの長い付き合いで学んでいた。
 妙に火照った顔をどうにか冷まそうと首に手を当てていると、チョロ松やトド松に諌められ、一松に脛を蹴られていたカラ松が、今度は弱々しくこちらを向いた。

「じ……じゃあ嫌いなのか……?」
「え……いや……」

 あからさまにしょんぼりと眉を下げるカラ松に、トキはぐ、と喉を詰まらせた。彼女はこういう顔に、どうしたって弱い。そういったところが、おそ松に"ちょろい"と揶揄される所以なのだろうが、直せるものならとっくにそうしている。周囲の目線が「あらあら若いっていいわねえ」みたいな好奇の目から「あらフラれたのかしら」といった同情の意に切り替わった気がする。気のせいかもしれないが。

「べ……つに嫌いとは言ってないけど、だからって」
「じ、じゃあ好きなんだな! やはりこれは本命チョコ……お前からのloveが痛っ!」
「だから声がでかいってんだよ! なんていうかさあ、本命とかの好きじゃなくてもっとこう、ほら……分かるでしょ? 分かんない? そんなに馬鹿だったっけ?」

 頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。おそ松やトド松が時折カラ松をサイコパスと称しているが、まさにその通りだと彼らに心からの拍手を送りたいと思った。そんなことを考えていると、今度は十四松がトキとカラ松の間に割り入って、長い袖をぶんぶんと振り回す。

「ねートキ! カラ松兄さんに去年何貰ったの?」
「えっ……いや、とくに、大したものじゃない」
「でもさっきすっげー金かけてたって言った!」
「フッ……薔薇だ」

 言い淀むトキの代わりに、カラ松が自分の顔に手を翳しながら自慢げに答えると、五人はピシリと固まった。ついでにトキの呼吸が一瞬止まった。

「本数にも意味を込めた。21本で心からの愛を……」
「ああああ痛い痛い寒い重い、カラ松重い、本当重い」
「フッ、そりゃ、天使の羽を持つトキに比べたら俺はヘビーだろうさ……」
「誰もそんな話してねえ!」

 再び彼の頭を殴る。たび重なる公開処刑に、声にならない唸りが喉から漏れた。

「カラ松ぅ……無い、薔薇はないわ」
「えっ」
「僕にもわかるー」
「えっ」
「ほんっとイッタイよねぇ……トキカラ松兄さんとそろそろ縁切ったほうがいいよ」
「えっ」
「死ねクソ松」
「え」
「ってかトキ律儀すぎない?」

 トキは視線を逸らす。確かに、チョロ松の言う通りだった。そもそもチョコレートのお返しなのだから、それをさらに次の年まで引き継ぐ必要はないのだ。だが薔薇一本300円と仮定しても、掛ける20で六千円。カラ松は少なくとも、あの少量の手作り素人チョコに対し樋口一葉を懐から一人旅立たせているのだ。それを踏まえたうえで、チョコの量を全員一律にするのは若干の罪悪感があったというわけだ。無論また勘違いされたらたまったものではないので、去年バラの花束を受け取った際に、値段と常識を考えろとしつこいくらいに訴えた上で、さらに今年のブツに『お返しは実用的なもので』とメモをぶち込んではおいたけれど。

「……とにかく、もう薔薇はやめてよ。いや、本当にマジで」
「そうか、トキがそう言うならやめよう。俺だってお前の嫌がることはしたくない」

 本当にそう思ってんのか? と疑念を抱きつつ、さりげなく掬われた手を速攻で振りほどく。幾度となく人前でそういうのやめろと言っても聞いてくれないのが、ある意味彼の凄いところだった。ちなみに人前でなければいいというわけでは勿論ないが、それすら理解してくれているのかすら定かではない。ああ、もう、これだからこいつは嫌なんだ。
 カラ松は未だ熱の冷めない顔をしたトキを見ると、珍しく気が抜けたようにへにゃりと顔を綻ばせた。

「それで、お前は何の花が好きなんだ?」
「わかってねえ!!」


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