10
それが起こったのは、十二月も終盤に差し掛かり、来週には二学期の終業式を控えていた頃だった。
「カラ松兄さん助けて!」
放課後寄ったCDショップから帰ってきて、自宅のインターホンを鳴らそうとしていたまさにその瞬間。向こうから勝手に扉が開くや否や、飛び出してきた末の弟が上擦った声で叫びながらすがってきた。「ッフゥ〜ンどうした、また怖い話でも……」言いかけて、トド松の様子がいつもの「怖がり」によるものではないことにすぐ気がつき、カラ松の纏う空気が一転する。原因など、概ね「あれ」しか思い付かない。
カラ松は普段の穏やかなたれ目を別人のようにつり上げて、家の中に駆け込んだ。彼の後ろ裾を握りながら、トド松も慌ててついてくる。
「予想はつくが誰と誰だ!?」
「おそ松兄さんとチョロ松兄さんだよぅ!」
「一松と十四松は!」
「二人とも鼻血出して避難してる!」
「何ィ!? あいつら弟まで巻き込んで……!」
「いや、一松兄さんが止めに掛かろうとして勝手に転んで鼻血吹いて、それに躓いた十四松兄さんも転んで鼻血吹いた」
「バカなのか!?」
「緊張感はどうした!?」思わず素で突っ込むカラ松。いやしかし、こんなところでコントを繰り広げている場合ではないのだ。階段を一気に駆け上がったカラ松は、兄弟の部屋に繋がるその襖を一気に開いた。
その有り様は、一口で言えば酷いものだった。事情の知らぬ者が目撃すれば、警察沙汰かと思われたに違いない。
地面にはあらゆるものが無秩序に散乱しており、割れたCDケースや破けたノートや投げ捨てられた本などで足の踏み場がとことん埋め尽くされていた。何かを投げた拍子に当たったのか、それとも拳が当たったのか、窓ガラスには二筋ほど大きなヒビが入っている。
そんな部屋の真ん中で、互いに取っ組み合いを続ける二人の男。内チョロ松のほうは、垂れた鼻血が制服のワイシャツに染み付いており、普段はきちんと整えてる髪も紫の弟のようにボサボサに乱れている。胸ぐらを掴まれたのか、日頃は一番上までしっかり留めているボタンが上から二つ、ちぎり取られているのが見えた。
そして、おそ松だ。チョロ松と同じく頭髪は荒れ、鼻血を乱暴に拭った後がある。すでに制服から着替えていたらしい、赤いパーカーは肩口の縫い目が破れているのがわかった。何より、その鬼を思わせるような、身震いさえしそうな形相が、おそ松の怒りをまざまざと表しているのだった。
──なんでこんなことに。
いや、理由なんてどうでも良い。男六人がこの小さい家で日々を過ごしていれば、些細なきっかけで喧嘩に発展することなどざらにあるのだ。こんなことは、今日が初めてではない。
けれど、第六感というやつだろうか。カラ松には、この事態のどこかに、「彼女」が関わっているだろうということがわかっていた。
「だいったいクソ長男テメーがいつまでたっても派手に暴れてんのが一番の原因だったんだろーが!」
「ああ!? そんなん言ったら、おめーらはまったく何もしてこなかったってのかァ!? 俺以外全員いい子ちゃんやってきたのか!? 違ェだろ! 責任全部俺になすりつけようとしてんじゃねェぞ!!」
「テメーもちったァ長男の自覚持てって言ってんだよ! 今でも誰より暴れ倒してるテメーが偉っそうにしてんじゃねェ!!」
「おめーらだって自分のこと棚に上げてんだろーが!!」
カラ松が帰ってきたことにも気がついていないのか、二人の応酬は一向に終わる気配がない。それどころか、ますますヒートアップしているようにさえ思えた。背中に隠れているトド松の、カラ松の裾を掴む力が強くなる。
「だいたい長男長男長男長男、いい加減うるせーんだよ! 聞き飽きたわ!!」
兄弟の中でもっとも喧嘩が強いのはおそ松だった。チョロ松の胸ぐらを再び捕らえた彼は、反撃の間も与えることなく強く揺さぶり、一言一言で相手を殴りつけるように、喉も枯れてしまいそうな大声で怒鳴る。
「都合よく長男様盾にして、いざとなったら全部皺寄せして!! 俺だって好きで長男になったわけじゃねーよ!!」
その鬼気迫る、相手に有無を言わさぬ、呼吸すら許されぬと錯覚するほどの恐ろしい迫力に、先程まで対等な位置にたっていたはずのチョロ松は口が動かなくなった。チョロ松はただただ、されるがまま乱暴に揺さぶられていた。
「……俺だってなぁ、」
彼がずっと、何年も何年も心の奥に閉じ込めていたナイフが。必死に隠していた、それでも決して消えてくれることなどなかったナイフが、顔を出す。おそ松はそれをほとんど無意識に掴み取ると、目の前の家族目掛けて振り下ろす──
「俺だって、できるんなら本当はひと──」
「おそ松」
頬に、拳がめり込んだ。
痛々しい音を立てて、おそ松の体は軽々しく宙に浮く。突然のことに受け身をとる間もなく、派手に畳に叩きつけられた。低いうめき声とともに畳へ転がるおそ松を、静かな瞳でカラ松は見下ろす。解放されたチョロ松も、傍らで一部始終を見ていたトド松も、ひたすらに硬直していた。拳を握り固めたままのカラ松と、頬を押さえることもなく彼をギラギラと睨み付けるおそ松に、二人の弟は交互に視線を向ける。
「か、カラ松兄さん……」
松野おそ松は、今しがた線を越えようとした。ずっと守っていたラインから、自覚なくはみ出そうとした。それをカラ松が、文字通り強引に押し戻したのだ。半ば混乱状態であったチョロ松とトド松が、次兄の意図を汲み取れたかはわからない。しかし、先程まで暴れ狂うような言動を振りかざしていたおそ松の勢いは、にわかに沈静化していったのだ。
「……チッ」
おそ松は手に力を籠めて、ゆっくりと立ち上がる。自分を見つめ続けるカラ松と、立ち尽くしたままのチョロ松とトド松、いつの間にか様子を見に来ていた一松、十四松の横を順に通りすぎて、その赤い背中は無言で家を出ていった。部屋の空気は酷く濁り、淀み、呼吸さえままならないほどで、残された五人の家族もしばし言葉を失ったままだった。

外は、ぶるりと底冷えするような寒さだった。重く暗い夜空から、ちらほらと白いものが降っている。今朝方珍しく見た天気予報では、くもりマークに雪だるまマークが見え隠れしていたことを思い出した。
咄嗟に飛び出してきたから、おそ松は酷く薄着だった。暴れた時に揃いの半纏を脱ぎ捨てていたため、今はパーカーたった一枚だ。その上、左の肩口が破けてしまっている。このままあてもなく寒空の下歩き続けていれば、風邪をひいてしまうかもしれない。けれど今はまだ、内に籠って爆発し損ねた熱が、彼の体温を保っていた。沸騰するような頭の熱さは、その外気によってようやく少しずつ落ち着いていく。
歩いて、ひたすら歩いた。距離の上では大して移動しておらず、まだまだご近所の範囲内ではあったが、おそ松には笑えてくるくらいに、ゴールの無い迷路のように長く感じられた。
冷えてきてかじかむ手をポケットに突っ込む。その布の中でさえ驚くほどに冷たくて、息を飲んだ。さらにその空気も喉を凍てつかせるほど冷え込んでいることに気がつき、おそ松は一人小さく笑った。
今になって、殴られた頬がようやくじんわりと痛んできた。かなり熱も持っている気さえする。ありがた迷惑なことに、それを冷ましてやるように冷たい風が吹いていた。笑うたびにそこに響いて痛いが、それでもおそ松は小さく笑い続けた。途中すれ違ったサラリーマンが、一瞬不審そうにこちらに目を向けていたが気にならなかった。
いくつかの街灯をやり過ごし、とある一軒家の前に来たところでおそ松の足は止まった。
どうして俺は、こんなところに来たんだ。
いくら自問してもわからなかった。どうして、あえて俺は、ここに。
それでも、その指はゆっくりとインターフォンに伸びていく。しかし、彼はそれを押しあぐねた。こんな時間だ。きっと不審に思われるだろう。彼女が一発で出てきてくれるかもわからないし。いや、それ以前に、どの面下げて会えばいいのかわからなかった。それでも、他に当てが無かった。
固く閉ざされた扉を見つめる。それは扉ではなく、決して開くことのない、途方もないくらいに分厚くて頑丈な壁に思えた。
────ガチャリ。
心臓が、喉を裂いて飛び出すかと思った。
その開かずの間が、ひとつの前触れもなく、音を立てて開いたのだ。咄嗟に隠れようにも、おそ松の足はぴくりとも動かない。彼にはどういうわけか、出てくる人物が彼女であることが、わかったのだ。
その女は自宅の玄関先に立つ男の姿を認めて、目を見張った。
「……おそ松?」
その声は、あの日以来のもので。それほど長い間、聞いていなかったわけではないはずなのに。おそ松は何故か涙が出そうなほどに、酷く懐かしく感じていた。
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