11


 ひと気のない夜道は、ぽつりぽつりと古びた街灯に照らされている。友人と言うには遠く、しかし他人と言うには些か近すぎる距離を保ちながら、俺はあいつと並んで歩いた。

(……お前さ、今何考えてんの)

 声にならない言葉を口の中でもて余す。元々こいつはどこかに用事があったらしく、しっかり冬の装いで家から出てきたところだったようだ。暖かそうなコートやマフラーが羨ましかった。けれど俺のこの寒さは、それらを纏ったところで改善されなさそうだなとも思った。
 またちらりと隣を盗み見た。雪まで降る寒さのせいか鼻先が赤い。こいつはまるで俺なんか見えてないように、まっすぐ前を見て歩いている。

『……おそ松?』

 こいつが喋ったのは、それだけだった。それから俺をじっと見て、少し考えるような顔をしたあと、表情を変えずに小さくため息を吐いた。それから、俺の方へ向かってきて、俺の手を指先の小さな力で軽く掴むと、『ほら、行くよ』とでも言いたげに引っ張って歩き出した。こいつの手はあたたかくて、凍った手を溶かすみたいに温度が滲む。困惑しながらも隣に並んで俺も歩き出せば、すぐに手は放されて、なんか勿体ねぇことをした気持ちになった。別にもっと掴んでてほしいなんて女々しいこと思ったわけでもねぇ、と思うけど。

 それからずっと、無言で、俺たちは隣同士を歩いている。こいつの言う通りにしてやるのもなんかちょっと癪だったけど、他に行く宛てもなくて、あんなところで独り突っ立ってるのも虚しくて、俺はこいつについていくことにした。
 こいつは俺が見えてないんじゃなくて、俺を見ないようにしていた。本当に見えてなかったら、こんな風にずっと隣に並び続けることもないとわかっていた。こいつは女だし俺より足が短ぇのに、昔から結構歩くのが早いやつだったから。

(……甘すぎんだよなぁ)

 俺はやっぱりどう足掻いたって、どんなに反発したって、逆立ちしてひっくり返ったって長男だから、弟たちのことを弟たちの誰よりもよく見てきた。そのおかげで人を見るのが得意だった。だからこいつは本当にめちゃくちゃ俺たちに甘くて、やさしい奴だってわかってる。俺たちにはもったいないくらいの甘さだ。むしろ俺たちなんて、男六人、粗暴で粗野で粗雑な日々だからよ、こいつの甘さは砂糖の飽和状態なんだわ。俺たちをこじゃれたコーヒーなんかに例えたとしても、まるで溶かしきれない。受け止めきれない。
 そんなやさしい奴を傷つけるのも、やさしい奴に傷つけられるのも、すげーつらい。わかってんだ、本当は。

(……どこ、向かってんだろ)

 口から吐き出した息が真っ白に染まっていく。それが宙に薄れて、跡形もなく消えていった頃、鼻がむずり出して「へぇっくし!」と大きなくしゃみが出た。ぶるりと体が震え、ぞわぞわする。両腕を抱くようにさすりながらも、本格的に冷えてきたなこれは、なんてどこか他人事のように考えていると、視界の端で白い何かが動くのが見えた。

「うぶっ、」

 と、思えば突然顔面にふわふわしたものが叩きつけられる。それを手で引っ付かんで確認する前に、首の後ろにもぐるりと何かが巻かれた。何度か首とか顔回りでぐるぐるされ、ふと気がつけば俺の首には少し不器用にマフラーが巻きつけられていた。
 隣に視線を向ける。先程まで布に埋もれてた細い首が、コートの襟から覗いていた。そして今の動きで距離が縮まったのか、さっきよりも俺の近くを歩いている。前はまっすぐ見たままだった。
 人の温もりが残ったマフラーたったひとつが、存外冷えきっていた体を仄かに暖めていく。体だけじゃなくて、腹の底や喉の奥のほうも熱を持った。このへんが熱くなるのは今までもあったが、それはその時のやつとはまるで違って、不愉快な感じでは全然なかった。全然悪くなかった。
 俺がなにも言葉にできないまま、また、少し間が空く。隣から、静かな声がした。

「……おそ松は、長男だけどさ」

 その声によるその言葉は、耳と心臓を強く揺らした。
 突然まともに喋り出した、という驚きより、こいつは人様の地雷ワードをよくもまあ二度も踏み抜いたものだ、という感想が浮かんだ。でも込み上げてくるのは怒りでも呆れでもショックでもなくて、言い知れない何か。だけどこいつが言うのは、俺が思ってたのとはまた違っていたのだ。

「そんな枠に縛られることは、ないよね」

 ──きっと、こいつはわかっていたのだろう。俺があいつらと喧嘩して、どうしようもなくなって家を飛び出したこと。こんなボロボロの汚ぇ姿で、こんな遅くに人ん家に寄ってんだ。勘づいたって可笑しかねーけど。だから、見放さないでいてくれたのだろうか。だって、わざわざ手なんて引いたりしてよ。あの場ですぐに家に引っ込んだって、俺を無視して行ったって、良かったのに。
 今になって、ふと思い出した。中学生の頃、同じようなことがあったんだ。あいつらが、今まで横並びだったあいつらが、突然俺のことを「兄さん」なんて呼び出した時だった。俺はそれが本当に嫌で、腹が立って、どうしようもなく泣き出したくなって、あいつらと喧嘩してから独りで家を飛び出した。宛てもなく走ったつもりだったけど、気がつけばこいつの家の前にいた。幼馴染みで、なんでも話せる、馬鹿でお人好しでとろけるくらい俺たちに甘いこいつに。俺がカッコつけずに、長男でもなく、ただ一人の人間として飾らずにいられるこいつに。

「その立場は、変えられるもんじゃないけど。アンタはいつも、義務で長男やってるようには見えなかった。そうじゃなくて……あいつらのことが大事だからなんだろうって。私にはそう見えたよ」

 こいつの声が頭の中でこだまする。それは俺のモヤまみれの頭に、風を吹き込ませた。
 腑に、落ちた。
 そっか。俺やっぱ、あいつらのこと大事なんだ。
 言われてから「そうかもしれない」って思ったんじゃない。これはもっと、ずっと昔から、たぶん生まれた時からあった感情だ。それをこいつが掘り返しただけだ。
 好き勝手でうざくてうるさいあいつらでも、いたら鬱陶しくても、長男押し付けられたとしても、すげー腹立ったとしても。いなかったら寂しいし、一緒にいるからすげー楽しいし、心配だってする。あいつらがいる日常は俺の「当たり前」だった。
 それに、俺は長男だけど。損してばっかりだけど、あいつらよりも多くもらってるものだってある。それは、あいつらが本当に困った末に頼るのが俺であることだったり。この色んなことがよく見える目だったり。お前は長男だしなと言ってコッソリ貰った、たったひとつのお客様用高級菓子の残りだったり。それから……馬鹿で間抜けで憎めない、可愛い弟たち。

 あいつらに会いてぇな。

 隣の足が不意に止まった。俺もつられて足を止め、しっかり顔を上げれば見慣れた近所の道だった。この角を曲がって、まっすぐ歩けばすぐ俺たちの家だ。
 こいつは曲がらず直進しようとしているらしい。その先にあるコンビニにでも用事があったのだろうか。それにしたって、こいつの家からはもっと近いコンビニがあったはずだ。
 やっぱりこの女、俺たちに甘すぎる。思わず笑いすらしそうになったが、それじゃあ俺の意図は可笑しな方向に伝わりそうだったから堪えた。堪えて、あいつらの次くらいに見飽きているこいつの顔を見た。こいつは俺の目を見返して、そっと口を開いた。

「……馬鹿でも風邪引くんだから、気を付けなよ」

 それだけ言って、俺に背を向ける。その華奢な背中が数歩分離れていったところで、閉ざされていた俺の口からぶわりと空気が溢れた。

「なぁ、トキ」

 ぴたり。トキのブーツが止まった。それから、信じられないことにぶち当たったみたいに、恐る恐る振り返る。
 トキはこれ以上ないほどに驚いているようだった。当たり前だ。ちゃんとトキの名前を呼んだのは、俺ですらいつぶりかもわからない。

「俺、やめるわ」
「……なにを?」

 変に顎が震えて上ずった俺の声に、吐息のようなトキの声が返される。それは不安と、消えそうにもない小さな期待が入り交じったような細い声だった。俺はまっすぐに、じっとトキの目を見て、動かしにくかった舌と喉を強く動かして、言葉を音に乗せた。

「お前と友達やめんの、やめる」

 吐き出した声が、暗闇に霧散していく。その余韻が消え失せてしまわないうちに、俺は続けざまに口を動かした。

「明日あいつら引っ張ってちゃんと話しに行くから、一日ちょーだい。俺あいつらと喧嘩したままなのよ」

 目を丸くしたトキは、そのまま動かない。ああ、ドキドキする。こんなに、痛いくらい、人間の心臓は跳ねるのかってくらいに。でもこれは、トト子ちゃんが可愛すぎてドキドキするのと同じドキドキではなかった。
 きっと俺は、トキの答えを聞くのが怖いのだろう。それでも、真っ直ぐ目は逸らさない。ここで逸らしたら駄目だ。トキにばっかり嫌な思いさせておいて、俺だけ逃げようなんてずりィだろ。ああ、トキはこんなに不安だったのだろうか。いや、こんな痛みじゃ足りないくらい、傷ついたかもしれない。一方的に俺らの事情に振り回され続けてさ、もうずっと昔からそうだもん。いい加減うんざりしてるかも。それでも、それでもトキは俺たちのこと大好きで、俺たちはそんなトキと縁を切ることなんてできやしなかったのだ。だってそんなん、俺たちだってそうだから。

 トキは返事を返さない。手持ち無沙汰にマフラーを触ろうとしたのか、首元で変に手が空振っていた。トキはそれから顔を俯かせると、何も言わずに踵を返した。
 ざくり。
 心臓をひと突きされたような、嫌な痛み。向けられた背が、すぐそこなのにやけに遠く感じられた。地震でも起きたみたいに、頭と足元がぐらぐらする。鼻と喉の奥が酷く痛んだ。
 拒まれた、のだろうか。
 そりゃそうだ。今さら、ムシが良すぎた。自分勝手にもほどがあるってんだ。散々振り回して突き放しておいて、俺の感情でまた「ヨリ」を戻そうったって。聖人じゃあるまいし、腹を立てて当然だ。いや、腹を立ててすらもらえてないかもしれない。そこにあるのは、ただただ色のない拒絶だけかもしれなかった。

「……それ、」

 しかし、俺にまとわりつく周りの空気は、一転した。
 喉が変にひくついて、声が出せない。けれど耳はちゃんと機能していて、トキの小さな声をしっかり拾った。

「明日ちゃんと返してよ」

 夜道は暗いのに、光が射し込んだみたいに突然開けて、明るく感じる。トキの声が耳の奥に溶けて、全身に巡り、冷えた体に熱をもたらす。
 俺はトキの言ったマフラーを無意識に握りしめながら、腹の底で力を溜めて思いきりその背中に向けて叫んだ。

「また!! 明日な!!」

 トキは歩いたまま振り返らずに、ひらひらと手を振る。遠ざかる背中を見つめながら、口元が勝手にむずむずとにやけた。約束。これはトキと明日会う、約束だ。
 俺はスキップで帰った。なんならマフラーの下で鼻唄混じりだったから、通りすがりのOLに一瞬構えられたけどまるで気にならなかった。心臓が跳ねて仕方がない。これはまたさっきとは違う、心地よい跳ね方だ。こんなにも「明日」が楽しみなのは、久しぶりだった。本当に久しぶりで、そして昔は毎日がそうで、懐かしさと愛しさが込み上げる。
 あいつらと面と向かって話すのは億劫だったが、そんなことも今じゃ大して気にならなくなっていた。俺はやっぱり長男だから、あいつらは俺に纏めてもらわなきゃ駄目な弟たちばっかりだから。だから俺は帰ったらすぐ「お前ら〜銭湯閉まる前に行くぞ!」ってちょっと間の抜けた大声を家中に響き渡らせてやろう。まとめ役なんて、先頭に立つ役なんて本当は本当に面倒だけど、してやってもいいと、そう思えるようになったのは。俺が大人になったから、なんてつまらない理由ではなく、俺が長男もまあ、悪くはないと、そう思えるようになったから。そして、そのきっかけを作ってくれた友人に、明日また会う。それが何より楽しみで仕方がなかった。

 ──しかしその翌日、トキが学校に姿を現すことはなかったのだ。


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