02


「トキー! やきゅーしよ!!」
「いきなり訊ねて来たと思ったらどういうことなんだろうか……部活行けばいいじゃん」
「今日休み! ねーしよ!」
「いや……野球なんてルールもわからんし、そもそも二人じゃできないでしょ」
「できるよー! ぼくトキと野球がしたい!」
「ええ……なんで……」
「なんで?」
「まさかの聞き返し」
「トキ! 野球楽しーよ!」
「……仕方ないなぁ」
「やったー!!!」
「ちょっとだけ、キャッチボールするだけだからね」







 今のクラスに、友人と呼べる人物はいない。辛うじて話せるような相手はいるが、例えば教室移動を共にしたり、昼食を食べたり、途中まで一緒に帰るほどの仲にはなれなかった。
 そんな自分の教室を出て、左に三つ。ちょうど部屋から出てきた見知らぬ男子を捕まえて、ひとつ頼み事をした。そこに「兄貴が呼んでるって伝えて」とも補足して。
 気の良い彼が快諾し、再び教室へ戻ってくれている間に私はそっと扉から離れる。私の姿を見たら、逃げてしまうかもしれないと思ったから。
 少しして、学ランの下に黄色いパーカーを着込んだ彼は、教室から出てきた。

「十四松」
「……!」

 名前を呼んで、同時に彼に近付きその腕を掴む。絶対に逃がさないという意思を込めて力を強めれば、黒い袖から垂れる延びきった袖が揺れた。

「ご飯中だった? 悪いね、ちょっと聞きたいことがあって」

 十四松は酷く慌てたように、大きな目を泳がせている。こんな手、彼と私の腕力の差を考えれば、簡単に振りほどけるはずなのに。それをしないこいつは本当に優しくて、同時にだからこそ「話を聞き出す相手」に彼を選んだ私の意地の悪さが浮き彫りになる。

「え、あ、えと、トキ、じゃなくて時池さん、はなして」
「なんで」
「ぼ、ぼく急いでるから」
「それ、こっち見て言って」

 いつもの大口を随分と小さくして、だらだらと止めどなく冷や汗を流している。ぴょこりと生えた一本のアホ毛も、今はどこか力なくしなっているように見えた。
 十四松は優しくて素直で嘘が吐けないから、上手く言い訳してかわすこともできない。その優しさに付け入るように、私は今の今まで研ぎ澄ませておいた言の葉を彼に突きつける。

「なんで、避けるの」

 おそ松の悪戯でないことくらい、わかっていた。確かにおそ松は自他共に認めるクズだけど、おふざけで理由もなくあんなことを言うような人間じゃない。だから私は、その理由が知りたかった。こんな風に距離を置かれるなんて、どうしたって納得できなかった。もっとはっきり言えば、心底嫌だった。

「みんな私のことが、きらい、になったの?」

 きらい、の三文字を出す声が、少し上擦った。震えてもいたかもしれない。それを気にする余裕が彼にないらしかったのは、救いだったのかもしれない。
 周りから切り離されたみたいに、空間が重く押し潰されそうだった。周りからの好奇の目が、さらにそれを加速させる。その居心地の悪さに耐えて、ひたすら十四松が喋るのを待った。
 彼は開いていた口をきゅっと閉じ、そして意を決したように開く。

「あれー、松野五男なに、修羅場?」

 十四松の声ではなかった。
 通り掛かった男子二人が、厭に笑ってこちらを見る。それに伴って、周囲の目がさらにこちらに向くのがわかった。「彼女いたの?」「いや、その子前にも松野赤といたような」「え、二股?」野次るような、揶揄するような変に軽い声色だ。手に汗がにじむ。ああ、嫌だ。この場から逃げ出したい。でも、まだ十四松の答えを聞いてない。だけど、声は止まらない。最悪私は何を言われたっていいけど、優しいこいつにまでその悪意が及ぶのは、嫌だ。駄目だ。どうしよう。どうすれば。
 ざわり、と空気が変わるのを感じた。

「……なに?」

 十四松の声だ。いつもより、数段低い。そんな声、一体どこから出しているんだろう。子どもっぽくて、突拍子な言動も多いが、いつも底抜けに明るい彼の、滅多に聞かない声。それは、その声と、気が立っていて今にも噛み付きそうな獣みたいな表情は、私たちを野次ってきた彼らに向けられていた。
 彼らはびくりと肩を震わせると、そそくさと去って行った。彼らに続くように、好奇の目を向けていた人たちも怯えたように静かに遠ざかっていく。不思議と私は、怖いと思わなかった。自惚れかもしれないけど、彼は私を護ってくれたのかもしれなかった。

「十四松」

 もう一度だけ、名前を呼ぶ。彼の、大袈裟に言えば殺気だったような雰囲気はいつのまにか鳴りを潜めていた。代わりに、とても静かだった。落ち着いていて、しっかりと私と話してくれるような様子に見えた。
 でも、結局はそんなことなくて。彼は私が欲しかった答えを絶対に持っているはずなのに、それをくれることはなかったのだ。

「時池さんに言うことは、ないよ」

 彼の大きな口が小さく紡いだのは、遠回しな拒絶だった。
 教室からの喧騒に紛れて届いた彼の一言には、「貴方には関係ありませんよ」と「この手を早く離してください」と「もう干渉してこないでください」と。たくさんの拒絶の意が含まれているように感じられた。
 背中を冷たい何かが走り抜けていき、手から力が抜けていく。その隙をついて、十四松はぎゅっと目を瞑ると私の手を振りほどいた。そしてそのまま、何も言わずに廊下を走り去っていった。
 彼は最後まで、私と目を合わせることはなかった。

 遠ざかる黒と黄色の背中を見ながら、ただ呆然と立ち尽くしていた。どうすればいいのか分からなかった。教室に戻って、お昼を食べる気も湧かなかったし、そもそもお腹なんて、全然空いてなかった。むしろ、キリキリと痛んで、いらないくらいだった。

 ──嫌な出来事は、嫌な記憶を呼び起こす。ふいに、今朝の記憶が蘇ってきた。学ラン下に緑のパーカーを着込んだ彼に、おはようと声を掛けた。返事も、軽い笑顔も返ってこなかった。ただ、それだけなのに。周りの喧騒でたまたま聞こえなかっただけかもしれないのに。
 ピンクの携帯電話を、兄弟内で唯一持った彼に、昨日メールを送った。返信は未だにない。もしかしたら、たまたま気付いていないだけかもしれないのに。

(あ、駄目……落ちつけ)

 苦しい。喉と肺が、苦しくて痛い。すごく、物凄く、吐きそうなくらいに痛い。

 私はたまらず、弾けるように駆け出した。何度か誰かに肩をぶつけながらも、走って走って、階段を一気に駆け降りて。途中すれ違った先生が何か注意を叫んでいたが、聞いてる余裕もなくて。
 髪を振り乱して全力で駆けた先は、この寒い季節は人通りの少なくなる中庭だった。花壇の側でやっと足を止め、背中を丸めて乱れた呼吸を必死に整える。ああ、走ったせいで、久々に全力疾走なんてしたから、心臓が痛い。じわりと浮かんだ汗が、気持ち悪い。
 でも結局は、誤魔化しなんて効かないのもわかっていて。まだ、まだだって。今折れてどうすんのって。心の中で叱責して、それで止まるものならどんなに楽か。どんなに唇を噛み締めても、拳を握っても、じわじわとせり上がるそれはもう止まることはない。
 私の抵抗も空しく、視界はゆらゆらと揺れる。とうとう、足元がぐしゃりと醜く歪んだ時。強い力が、私の肩を引いた。

「……トキ?」

 今。一番聞きたくなかった声の一つが、呼ばれたかった私の名前を呼んだ。その声は耳にじんわり溶けて、手の温度は、肩から全身に伝わって。振り返りたくなんてないのに、勝手に動いた視線の先。そこにあった顔は、見たくなかった6分の1で。
 そいつは太い眉を下げ、いっそ面白いくらいに驚愕と、狼狽を滲ませながら、少しだけ屈んで私と目線を合わせた。そして、絞り出すように、吐息のような声で問う。

「なんで、おまえが、泣いてるんだ……」

 おまえらのせいに決まってんだろ、ばか。


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