長男の日直手伝い


「……んが?」

 薄ぼんやりとした不明瞭な視界。上手く思考が回せず、ハテナばかりがぽんぽんと脳内を飛び交う。
 おそ松、と聞き慣れた声が呼んだ気がした。寝坊して母さんや兄弟に叩き起こされるのも、授業中の居眠りを先生に妨げられるのも好きじゃなかったが、この時ばかりは不思議と嫌な心地はしなかった。
 その心地よい静けさに、再び眠気が襲いかかり、またこくこくと舟を漕ぎ始める。すると今度は、弱い力で頬をぺしぺしはたかれた。

「おいこらおそ松ー」
「んぐ……」

 小さな妨害が煩わしくて、それを退けようと力の入らない手を無理矢理動かす。すかすかと何度か空を切ったが、数回繰り返した所で俺の手は漸く何かを掴んだ。だが予想外の感触が指先に伝わり、え? と声を上げようとしたが、

「……っでえ!?」

 頭にガツン! と強い衝撃が加えられ、出そうとした言葉は悲鳴に変わった。横を向いて寝ていたせいで、頭の両サイドが机と、恐らく拳の板挟みになり、その痛みでついでに目も冴えていく。

「いっ……てぇー……! 何すんだよ……」
「こっちの台詞だ馬鹿野郎死ね」

 殴られた頭を労わるようにさすりながら、眉間に深く皺を刻んだトキを睨みつける。何お前そんなに怒ってんだ? と疑問が浮かんだが、すぐにそれは掻き消えた。自分たち二人しかいないすっからかんの教室が、すでにオレンジに染まり切っていたことに気付き、慌てて枕にしていた日誌に目を落とす。やべえ、真っ白。続けて正面に視線を向ける。教師が書き綴った文字が丸々残った黒板が、当たり前のようにでかい顔で鎮座。うわ、うわー……面倒くせ!
 俺はトキに向き直すと、トド松よろしく両手を合わせて小首をかしげて見せた。ついでに必然的になる上目遣いも利用して、あざとさを全面に押し出す。はあ? とでも言いたげに表情を歪められたが、めげない気にしない。

「ね、トキ日直手伝ってよ」
「はあー? どの口が言うか」
「頼むよー! な、終わったら一緒に帰ろうぜ! 部活勢以外はあいつら帰っちゃってるだろうしさぁ一人じゃつまんねーじゃんか」
「それ全部何から何までおそ松の都合じゃん……ペアは? いないの?」
「いやーそれがさぁ、今日休みなんだよ。あり得なくね? そりゃ体調不良は仕方ねーけどさあ、わざわざ日直の日にピンポイントで休まなくてもいいじゃんかあの野郎〜」
「へーへ」

 トキは相方の所在を問いつつも教室前方に向かい、俺がぶーぶーと文句垂れながら答え終える頃には、黒板を消し始めていた。なんだかんだ、面倒くさそうな反応を見せつつもトキはいつも手を貸してくれる。とくに、俺達にお願いされるのには弱い。本当にちょろくて面倒見の良い奴だと思う。そう、何を隠そう俺は面倒を見られているという自覚がちゃんとある。偉いだろ。
 だけど勿論、すべてをやって貰えるわけじゃないしそこまで俺もクズじゃない。早いとこ終わらせてしまおうと、出しっぱなしだったシャーペンに手を伸ばした。
 さかさかと軽い筆圧でテキトーに日誌を埋めていきながら、トキに目線を向ける。特別身長が高いわけでもないトキは、背伸びをして黒板の上部を消していた。バランス感覚があまりないのか、若干足元が覚束ない様子だ。その後ろ姿が妙にいじらしく感じて、つつくなり膝かっくんするなり、何かしら悪戯してからかってやりたくなったが、手伝ってもらっている手前ぐっと堪える。代わりに、手は休めないまま「なあー聞いてよトキ」と声を掛ければ、無愛想なことに振り返りもせず「何」とだけ返ってきた。それでも聞いてくれるあたり本当にちょろい……じゃなくて、優しい。あ、今さら言い替えても意味ないか。

「今日さーあいつら全然構ってくんなかったんだよー酷くねぇ? お兄ちゃん寂しがってるよー」
「そんな日もあるでしょ」
「えー! だって五人もいんのに!? 五人もいんのに!」
「……その構ってちゃんがいい加減鬱陶しいんじゃないの? おそ松あんた、人のやってることの邪魔ばっかするし」
「何だよそれー俺は常に良かれと思って行動してるってのに!」
「その発言がすでに邪魔してる自覚あるじゃん……」
「まーでも、その点トキはなんだかんだいつも俺に構ってくれるよな」

 にやり、と口角を上げれば、最後の一行を消しに掛かっていたトキの手が、ぴたっと停止した。今の言葉通り、不思議なことにとにかくトキは俺に構ってくれる。とくにしつこくすれば、ほぼ必ず。
 硬直した様が面白くて、俺は追い討ちをかけるようにさらに言葉を連ねていく。

「最初のうちはまあ適当にあしらおうとしてるけど、いつも折れて相手してくれるじゃん。そんなに俺のこと好きなの?」
「……はあ? 馬鹿じゃないの」
「だってよくあるパターンとしちゃ、カラ松は俺にばっか塩対応だし、チョロ松も雑に扱ってくるし、一松には一蹴されるし、十四松はそもそも捕まんないし、トド松にはスルーされるしさ。でもトキは絶対に俺に構ってくれるじゃん」
「……いやそれは、兄弟同士遠慮がなさすぎるだけでしょ。私の場合は、親しき仲にも礼儀ありってやつだから。社交辞令社交辞令」
「いやいや! お前絶対『お前たちにくれてやる礼儀などない』ってタイプじゃん! 社交辞令云々は関係ねーだろって!」
「失礼だな最低限の礼儀は持ち合わせてるわ」

 なかなか手強いな。だがここまで来たら、意地でもこの淡々とした、いかにもなんでもないです風を装った対応を崩してやりたくなった。

「だってさー、じゃあなんでトキ俺のこと起こしたの? 無視して帰りゃよかったじゃん」
「それは……いや、だって、私が起こさなかったら眠りこけたままだったじゃん絶対。感謝してよ」
「それだけじゃなく手伝いまでしてくれちゃってさー、もしこれお前以外の女だったら絶対脈アリだって俺は思うね、うん」
「は、いや、だから……馬鹿じゃないの。っていうか馬鹿でしょ。何なのさっきから」

 強まる語調。早口が加速していく。トキが焦っている時の証拠だ。俺はしたり顔で、もう一押しというようにはっきりと、大きく、言葉を紡ぐ。

「面倒くさがりつつも構ってくれる、心配もしてくれる、俺たちが本当に困ってたら捨て置けない。はいこれ確定でしょ! トキお前、なんだかんだ言ってやっぱ俺たちのこと大好きだろ!」

 ばん!
 不意打ちの音に、思わず大袈裟なくらい肩が跳ねた。トキによって乱暴に置かれた黒板消し。もわりと舞う粉から逃れるようにトキはそこから退き、流れるような動作で足元に置いていた鞄を拾った。それからばたばたと忙しなく扉の方へ向かうが、その横顔を見た俺は、あまりの驚きに心臓が一度止まりかけた。
 見たこともないくらいに真っ赤に染まった、トキの顔と耳。きゅっと結んだ口は震えていて、混乱したように強く眉が寄せられていた。その朱は、みるみるうちに俺にも移っていき、自分でも分かるほどに顔が熱くなっていく。……あ、あれ? なんだこれ!? 自分でけしかけておいて、うわ、やべえ、馬鹿か! 馬鹿なのか!? なんだこれは! 死ね!!!

「……帰る!」
「は!? え、ちょっちょっちょっ待っ、いやっ、てか俺、まだ日誌書き終わってねーんだけど!」
「知るか馬鹿!」
「えー!? い、一緒に帰るんならもれなくアイス奢られてやるよ!?」
「それ私が奢ってんじゃん! 死ね!!」


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