始まりの風が吹く

「ひょ〜やってるやってる」

 春の匂いが溶ける晴天は見る影もなく、空はすっかり薄暗い雲に覆われている。自前の双眼鏡越しに見た景色に、鬼城日和は至極平坦な声色で呟いた。彼女は複数のギャラリーとは離れた位置からグラウンドを眺めており、周囲には誰一人としていない。それが、彼女の言葉が純然たる独り言であることを裏付けていた。

「初日からトバしてますなぁ」

 日和は一人、木陰からその光景を見つめていた。彼女の視界の中心には一人の男子の後ろ姿。長身の彼は特徴的な藍色の髪を揺らし、長い脚でサッカーボールを転がしていた。
 彼の並外れて精緻なボールコントロールと桁違いのキック力により、相対している茶髪の少年は何度も何度も体にシュートを食らっている。その少年がとうとう尻もちをついて立て直せないでいるうちに、藍色の男子は特殊な動きでボールを蹴り出した。それは圧倒的な覇気を纏い、圧さえ感じるほどの力強さで少年に迫っていく。
 ここまでかなあ。
 日和は興味をなくしたように、双眼鏡から顔を離す。──その刹那、野生の勘にも近いような何かが彼女に訴えかけ、日和はすぐさまレンズを覗き直した。

「んー?」

 遠くから眺めてきたグラウンドの、空気が変わった。その要因は、藍色の男子と対峙していた茶髪の少年。これまた特徴的な、ふんわりとそよ風に撫でられたような癖毛を揺らし、彼は力強く立ち上がっている。
 数秒前まで、彼には何のオーラもなく、量産型の凡庸なサッカー少年であると日和は感じていた。だがどうやら、認識を改める必要があるらしい。そういえば彼は幾度となくボールを食らううちに、その軌道を少しずつ読めるようになっていったと見える。シュートを受けた際の反動が次第に小さくなっていったのが、その証拠だ。
 グラウンドを、強い風が吹き抜けた。
 少年から滲む闘気は可視化され、黒いオーラとしてその背を覆う。その力を発揮するように、自身に真っ直ぐ飛んでくる強烈なシュートを、彼はヘディングで受け止めた。
 藍色の男子が放ったシュートは、力を失いグラウンドに落ちる。茶髪の少年はそれを無意識に足で捉えると、しばし呆然とした後に大声でガッツポーズをとった。

「あらま……意外な結末だなあ」

 日和は再び双眼鏡から目を離し、深く頷いた。藍色の男子が予め提示していた、茶髪の少年の勝利条件は「自分からボールを奪うこと」。つまり、この時点で藍色の男子の負けが確定した。日和にとってそれは大いに予想外であったが、それ以上に彼女を驚かせたのは、茶髪の少年の潜在能力だった。

「まさかあの子がスタンド使い予備軍だったとは……なぁんてこった」

 と、顎に手を添えながら呟く姿はふざけているようにしか思えない。彼女は肩に掛けた真新しい鞄に双眼鏡をしまうと、襟首にひっ掛けていたダテ眼鏡を掛け直した。涼しげな顔立ちに、利発な印象が加わる。
 曇っていた空はいつの間にか光が差し込み始め、茶髪の少年の勝利を祝っているようだった。周囲のギャラリーも、彼の勝利に喜びの声を上げている。

「京ちゃん、逆ギレしなきゃいいけど」

 孤高を極めた藍色の男子──『京ちゃん』にそっと視線を向けるも、日和はあっさりと踵を返した。「さてと、先に行ってよっかな」今日からこの雷門中学校に入学する身の彼女であったが、どこか明確な目的地があるようなしっかりした足取りで校舎の方へと向かっていく。その直後、背後から衝撃音と悲鳴、誰かの叱責の声が飛んできたが、日和は桜の花びらが舞う中で足を止めることはなかった。


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