財布事件

「瞬木さんじゃないと思いまっせ」
 
 その声は唐突に、凛然と発せられた。
 日和ひよることを知らずにまっすぐ届いたそれは、呼吸さえ億劫にさせるほど重かった控室の空気をひっくり返す。この期に及んで自分を庇う者が出てくるなど思ってもみなかった瞬木は、不覚にも後手に回った。

「……おや、アナタが彼を庇うとは意外でしたよ。鬼城さん」

 彼より先に反応した真名部は、先ほどから瞬木に自身の財布を盗まれたのだと訴える張本人だった。知的な印象を与えるアンダーリムを、細い指先でそっと押し上げながら日和を見やる。そこには訝しげな色が込められていたが、対する日和は糸目にして眉根を寄せ、「ん〜庇うっていうかぁ……」とどこか面倒くさそうだ。

「だって、瞬木さん『そんなこと』する人じゃないし」

 ──なんだ、こいつ。俺と同類だと思っていたのに。
 瞬木は内心悪態を吐いた。鬼城日和……常に枠の外から事態を俯瞰しているような、あるいは一人だけ違う土俵で踊っているような、どこか変わった雰囲気を纏う少女。しかし物事を見極める目は持っており、少なくともどこかのお人好しのキャプテンのように、手放しに人を信用する奴ではない。と、思っていたのに。
 拍子抜けもいいところだ。残念だ。失望した。胸がざわつく。心に名状しがたい澱が溜まっていく。──そう思ったところで、瞬木は彼女に、それがどんな種類であろうと、少なからず「希望」というものを持ってしまっていたことを、ようやく自覚した。

「彼が過去に盗みを働いた、と……先ほどの話を聞いてなお、随分と彼のことを信用しているようですね。フフ、もしかして、彼のことが好きなんでしょうか?」
「幼稚な煽り方しますな。小学生みたい」
「んなっ……!?」
「瞬木さんは和を乱さない人」

 ──は?

 いつも通りやる気のなさそうな、抑揚のない喋り口調。瞬木をはじめ、周囲のメンバーは、誰もがその発言の意味を掬いかねていた。しかし彼女の生来の鋭い眼光に圧され、誰も口を挟むことができない。

「別に盗みするとかしないとかいう善性の話はしてなくて〜。瞬木さんは誰とでも分け隔てなく付き合う人。嫌なことをわざわざ直接言ったりしないし、仲間内で円滑に回るように気を遣う人。瞬木さんなら、ここにきて和を乱すようなことはしないと思うな〜ひよりんは」

 考えるように顎に当てていた手をひらりと振って、日和は淡々と意見を連ねていく。メンバーは皆、彼女の発言に覚えがあるようなそぶりを見せていく。瞬木は一人、あどけなさの残る大きな瞳をしばたたかせた。

「会ったばかりで一面しか見えてないし、盗みを働くような人かどうかなんて知りゃしません。でも瞬木さんが見せる『一面』は、とにかくぜーんぶ『和を乱さない』人だった。だからわざわざこんな、確実に犯人捜しが始まったり、それで皆が疑心暗鬼になったり、自分が疑われることに繋がるような愚かな真似、まあ〜瞬木さんはしないでしょ」

 それは鬼城日和から瞬木隼人に向けた、一種の信用だった。彼女の言い分の全てが周囲に伝播し、この場の全員を押し黙らせる。
 反論が出ないということ。瞬木という人間が「盗みをしない」と説得させることはできずとも、「和を乱すことはしない」ということを納得させたということ。それは言い換えれば、実質的に、瞬木に掛けられた疑いを日和が晴らしたということだった。

(この、奇怪な女が)

 瞬木はちらりと日和に視線を投げた。彼女は依然として飄々とした態度で、控室中央に設置されているテーブルに気だるそうに凭れ掛かる。元々大人びた外見ではあるが、彼女が今しがた見せた聡明さは、その挙動の一つ一つをますますミステリアスなものに思わせた。

「まそういうわけなんで〜お財布のことは一旦置いときまっしょい。どっかに落としたとか誰かの鞄に間違えて入れちゃったのかも」
「ぼっ僕がそんな過失をするとでも……!?」
「真名部氏、人間誰しも過ちは犯すもんや」
「誰ですか!?」
「まあそうカッカすんなよ真名部っち」
「本当に誰ですか!!!」

 瞬木は心の中で前言撤回した。

「でもそうよね。こんなバカな真似、する意味がわかんないっていうかぁ」
「確かに鬼城の言うことは一理あるぜ」
「ハイリスク・ローリターンだよね」

 野咲が、鉄角が、皆帆が、日和に賛同を示していく。先ほどまで疑うような視線で刺しておきながら、はなはだ手前勝手だとは思わないこともないが、自分が逆の立場であってもきっと同じようにするだろうと、瞬木は僅かに目を伏せた。もとより信頼関係など、寄せ集めのこのチームの中で生まれているはずもないのだ。一時的とはいえ、自分に信用を勝ち得させた日和の存在が、あまりにも特異であっただけ。

「鬼城さんの言う通りだよ。仲間を疑うのはやめよう。皆、今日はもう休んで、明日の試合に備えよう。いいね!」

 場を切り替えるように、天馬がトーンを上げた声で指示をする。それを受けたメンバーは、先ほどよりも気を緩めた顔で出入り口へ向かい、真名部も渋々といった様子ではあったがそこに続いた。
 部屋の端に避けて視線を下げている神童は、恐らく自分たちの素人技術に加え、チーム内で勃発した不和への怒りや失望で打ち震えているのだろう。瞬木は神童に油を注いでしまわないよう、こちらにフォローを入れに来てくれた天馬との会話もそこそこに、しかし先に出ていったメンバーに合流はしないように、多方面に気を遣いながら退室した。

「おつでーす」

 その彼の隣を颯爽と、爪の先ほどの気遣いもなく横切ったのは、やはり日和だった。緩やかに歩を進めていた瞬木は、そのまま普段通りの歩調で進む彼女にどんどん引き離されていく。いよいよ日和に声が届かなくなるだろうという寸前で、彼は足を止めて「鬼城さん」と引き留めた。

「あのさ、」
「瞬木さん」

 何かを言いかけた瞬木に、立ち止まった日和が声をかぶせる。そこには大した温度も、それこそ一切の気遣いもない。至って平生と変わらぬ平坦な声色。窺いにくい。窺えない。うわべだけ取り繕う瞬木とはまた違う、彼女自身の内に入らせないような、不可視の膜があるようだった。
 揺れた髪が照明に煌めく。くるりと振り返った彼女は、まっすぐ瞬木を見つめていた。射抜かれるような、あるいはえぐられるようなそれを、瞬木は目眩めくるめく鮮烈な日射しのように感じた。

「私、根拠のない盲信はしないタイプですよ」

 日和はそれだけ言い残すと、再び踵を返して宿舎までの道のりを歩き出す。瞬木は一人、その場に残された。
 証拠もなしに、お前の仕業だろうと糾弾した真名部。事態を把握して、「瞬木はそんなことしない」とノータイムで切り返した天馬。そのどちらとも異なる彼女の根底は、複雑怪奇で、手に余る。

「……」

 瞬木は小さく息を吐いてから、少し遠回りするため他のメンバーとは逆方向に歩き出した。

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