神童とセカンドコンタクト
「お疲れ様です」
どこからか声が聞こえ、神童はウェーブのかかった髪を踊らせながら振り返った。しかしそこには夕焼けに染まった通学路があるだけで、誰もいない。聞こえたそれも、知らない声だ──いや、違う。前に一度だけ、俺はこの声を聞いたことがある。
神童が記憶を手繰り寄せるより早く、三メートルほど先の曲がり角からひょこりと顔を出したのは、雷門の制服に身を包んだ女子生徒だった。リボンの色からして、新入生だろう。──そこで神童は、彼女が先日保健室であらぬ誤解をしたまま去っていった女子であることを思い出したのだった。
「お前は、」
「神童センパイですよね。私、鬼城日和です」
彼女の自己紹介も、辛うじて耳に入る程度。神童は動揺する自分にらしくないと思いつつ、手に握られた紙にさらに皺が寄るのを防ぐことができない。その様子を知ってか知らでか、日和と名乗る女子は「ああ、」と思い出したように話し出す。
「ピンクセンパイから説明頂いて、誤解はもう解けてますので。早とちり大変失礼致しました」
そうか霧野、説明してくれていたのか……どこかで胸を撫で下ろす思いだった。あんな誤解をされたまま、彼女とまともに話せるわけがなかった。
「それ」
と、日和が唐突に指差したのは、神童の手中にあるくしゃくしゃのチケット──今度練習試合を行う栄都学園の生徒とその母から、先ほど八百長の先払いとして強引に押し付けられたものだった。うちの息子が、シュートを決められるよう手を回してほしい、と。無論神童がそれを了承して受け取ったわけではないが、元より勝敗から点数、挙げ句点を決める選手まで細かく取り決められている、試合とも言えない見世物だ。こんな薄っぺらい鎖ですら、千切り捨てて不正を許さぬ正義を気取ることすら、神童には到底できることではなかったのである。
「これ、は……」
「落とし物ですね?」
「えっ?」
「帰り道に一人、商店街の福引なんかが近くでやってたわけでもなく、それなのにどこぞのチケットをわざわざむき出しで手に握ってるなんて、落とし物以外に無いでしょう」
困惑する神童をよそに、人差し指を立てた日和はぺらぺらと的はずれの推理を語って見せる。──ああ、本当に彼女の言う通りであれば、どれほどよかったことか。無意識に奥歯を噛み締める。それをそっと諌めるかのように、白い手がにゅっと此方へ伸びてきた。
「私交番に届けて差し上げます。ささ」
「いや、あの、」
「遠慮なさらず。どぉぞどぉぞ後輩を使ってくだせえ」
生真面目だった口調が砕ける。そちらが本当の素なのだろうか。いや、それよりも彼女は一体何なんだ。何がしたい。何故関わろうとする。声を掛けたわけは。使い走りのようなことを申し出る理由は。
日和は神童の返事を聞く間もなく、それをひょいと奪い取った。──あんなにがんじがらめに、自分に巻き付けられたと思っていた鎖が、ぱんと音を立てて簡単に砕けていく。窒息寸前だった箱の中に、一陣の風が吹き込んだ。
「ふんふん。セレブな御方々が集いそうなクラシックのコンサート。しかもVIP席ですな。こりゃあ相当お値段張ったでしょうに。きっと落とし主はさぞかし困っていることでしょうな。大丈〜夫、もし落とし主が現れずこのチケットが私の手元に渡ったらば、無論拾ったセンパイにお渡しします」
神童に返事をさせる隙を与えず、滔々と口を動かしていく日和。彼女は奪い取った皺まみれのチケットをひらつかせながら、夕陽色の溶けた髪を揺らして「それじゃあセンパイ、また」と去っていった。残された神童は、その台風が消えて見えなくなるまで、ただ唖然とその場に立ち尽くすしかなかった。
*
「まったく。妙な引っ掛かりを、あまつさえどうでもいい他人に増やされちゃ、たまったもんじゃないですからねえ」
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