捨てられない剣城
「来ちゃった」
「…………」
語尾に星でもつきそうな語調で、しかし普段と変わらぬ平淡な声色で、加えて言うなら背中のランドセルとはあまりに不釣り合いな真顔で、日和は目の前の少年、剣城にピ─スサインを見せた。
「あららん元気そうだね。何より」
「帰れ」
「京ちゃんのいけず〜せっかく遠路はるばるやってきたんだからもうちょっと歓迎の色を見せてくれても良いではないか」
「うるせぇ徒歩5分圏内だろ─が。招かれざる客は帰れ」
「そんな小難しい言葉使っちゃって本当は日和たんが来て嬉しいくせに」
心底嫌そうに顔を歪める剣城。そんな彼の気を知ってか知らでか──否、日和の場合確実に知っている上でやっているのだろう──彼女は肘でうりうりとわざとらしく彼をつつく。
「ほらこれプリンとプリント持ってきてあげたぞよ」
「いらねぇよ」
「エッ、プリンだよ。皆大好きプリンだよ。もっとちっちゃい時は皆で取り合ったくらいじゃないか」
「もうお前本当帰れ。プリントだけ置いて帰れ」
「プリンとプリントセット販売だから駄目駄目。単品じゃないから」
「うるっせ─よじゃあプリンとプリント置いてお前は帰れ! しつこいんだよ! 誰も頼んでなんかないだろ!」
声を荒げた剣城。後ろの玄関は閉めているから家族には聞こえていないだろうが、通りがかった主婦が思わずこちらに視線を向けた。剣城は決まり悪そうに目線を落とす。すると、日和の空いている左手が、強く握りながらも不自然に震えているのが見えた。
まさか、泣かせてしまったのだろうか。さっと血の気が引いた剣城は慌てて顔をあげた。確かに年がら年中ふざけた幼馴染みではあるが、嫌いなんてことは絶対に無かったし、まして泣かせてやろうと思ったことなんて一度も───
「ぶっ……くくっ……」
「…………」
「き、京ちゃんがプリンとプリントっつった……超ナチュラルにリズミカルに韻踏んだよ、や、やば……ぶふっ」
「…………」
口角や目尻こそ上がっていないが、口いっぱいに空気を溜めたように笑いを堪えるその姿に、剣城の中で何かがすっと冷めていくのを感じた。
「いはははははいいはいいはい、痛いってば京ちゃん」
むぎゅっと両頬をつねられ、日和は降参の声を上げる。ぱっと離された白い頬は、赤く跡が残っていた。
「まったく力に物言わせる男子はモテないよ京たん」
「わかったもう一回やってほしいんだな」
「めんごめんご、わかったって帰るって」
日和は半ば無理矢理剣城に見舞いの品を持たせると、ランドセルを背負い直した。
「そんじゃらほい〜明日会えたら学校で」
ひらひらと手を振りながらゆったりとした足取りで剣城邸を後にする日和。さきほどまで妙にしつこかったくせに、そのあまりにあっさりとした対応は剣城に困惑をもたらした。
「……聞かねえのかよ」
ぽつりと呟かれた言葉。それは風にかき消されてしまうほどの小さな独り言だった。それでも、やはり彼女は、それを逃さない。
ばっと振り返った日和は、髪を揺らしながら剣城を見据えた。
「京ちゃんが言いたくないなら、私は聞かないよ」
それは到底小学生とは思えぬほど大人びた顔で、彼は思わずまごつく。だがどうしてか、彼女に何も伝えないことに、酷く押し潰されるような気持ちを覚えた。そしてそれは、兄に隠し事を始めたその日から、ずっと蓄積され続けていたものだった。
「……俺は、」
それを誰にも曝け出さずに、上手に上手に溜め込む術を。幼い剣城はまだ知らないのだ。
「俺は……ゴッドエデンに行く」
「えっ、何死ぬ的な?」
───だからこそ、誰よりも自分の理解者である幼馴染の彼女に、多くの想いを抱えながら打ち明けたというのに。間髪を入れずにラケットで打ち返された挙げ句、阿呆のようなボ─ルにすり替えられた。この仕打ちは一体なんなんだ。
「……あちょ痛い痛い痛い真面目に聞くから勘弁しとくれぇぇぇえええんッ」
その頬を執拗につねってやると、やはりすぐに降参した。こんな簡単な空気を読むことが、彼女にとってそれほどまでに難しいというのか。思わず溜め息が出た。にも関わらず、胸のつかえすら彼女はこうも簡単にかっさらっていくのだから、癪なことこの上なかった。彼は半ば自棄になって、がしがしと頭を掻くと日和に"ゴッドエデン"──少年サッカ─選手強化施設について、軽く説明をしてやった。
「その準備で、しばらく休んでたんだよ」
「な─る」
ぽん、とわざとしく、開いた手のひらにもう片手の拳をのせた日和。さして驚いた様子も戸惑った顔も見せないあたり、さすがと感心すればいいのか、脱力すればいいのか。
「どのくらい行ってくるの? 二日? 三日?」
「そんなに短いわけないだろ」
「まじかよぉ〜そんなん京ちゃんが心配すぎて食事しか喉を通らんやつではないか」
「食事通ってんならいいだろ」
「いやぁ京ちゃんが構ってくれなくなる上至福のおやつタイムがなくなるとなるとか無理無理〜拙僧死んでしまうでござる」
相変わらずふざけた様子の日和。けれども、その態度に少なからず救われているのだって、紛れもない事実だった。そう、つまり、剣城はずっとそんな彼女に甘えていたのだと。だからこそ、次の瞬間、彼は思わず言葉を失ったのだ。
「京ちゃんは頑張り屋さんだから、私みたいなガス抜き役がいないと、頑張りすぎちゃう」
いつもみたいに、誰が頑張り屋だとか、余計なお世話だとか、言い切れなかったのは、どうしてか彼女の顔が辛そうに、悲しそうに見えたから。妙に表情が固くて、内心と顔がリンクしていないことばかりの彼女が、自分には関係ないことなのに、それなのに悲しいという感情を孕んだような、心底心配しているような瞳をしていたから。
「……悪いが、もう決めたことだ」
だがそれでも、剣城の決心が揺らぐことはなかった。揺らいではいけなかった。自分にはこの道しかないと、言い聞かせるように選んだのだから。
「……そお」
ほんの少しト─ンが低くなる。彼女のその目を見ていられなくて、逃げるように剣城は踵を返しドアノブに手を掛けた。そして家の敷居を跨ごうとした直前、京ちゃん、と呼び止められる。その声はいつも通りはっきりと、迷いなく、まっすぐにこちらへ届いた。
「京ちゃんの味方はいるからね。京ちゃんのそばに、ちゃんといるからね」
「……ああ」
それだけ返すので、精一杯だった。日和の無償の優しさが、心配をかけさせてしまったことが、剣城の心を酷く痛ませた。どうしてこんな自分に、こんなにも優しさを与えてくれるのか、こんな自分を大切に思ってくれているのか、剣城には理解しかねた。
がちゃんと閉じた扉に寄りかかり、目を伏せる。
彼女が今まで与えてくれたたくさんの愛情を、彼が抱え切るにはあまりに多すぎる愛情を。捨てていく術を、彼はもうずっと探し続けているのだ。
───この後島に着いた剣城が彼らしからぬ驚愕の声を上げ、彼女の台詞が丸々伏線だったことを知るのも、そして彼女にはやはり一生敵わないのだと悟るのも、また別の話だ。
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