敵わない剣城
「京ちゃん」
その声に、剣城は答えなかった。背中でその存在を確認しつつも、口を開こうとはしない。無表情を貫きながら、足元の土で汚れたサッカーボールをつまらなそうに弄ぶ。
「京たん」
──彼のポーカーフェイスは、日和のたった二言目によっていとも容易く崩れ去った。おもむろに振り返った剣城は、口を曲げ、仰々しく犬歯をちらつかせている。まるで漫画のようにこめかみに薄く浮かび立つ血管が、彼の激昂具合をまざまざと表していた。齢十三……誕生日が来ていなければ、僅か十二でしかない、少し前までランドセルを背負っていた少年とは思えない形相だ、と日和は悪びれることもなく真顔でうんうん頷く。
「そんなにイライラしてっとお肌荒れるぜ、先取り中二ボーイ京たそ」
否、彼女の辞書に悪びれるなどという文字はないのだろう。代わりに、おちょくるの文字が蛍光ペンで強調されているに違いない。堪忍袋の緒をハサミでちょん切られた剣城は、流れるような動作でボールを宙に蹴り上げ、日和目掛けて渾身のシュートを放った。俗に呼ばれる"必殺技"ではないノーマルシュートだが、風を切る激しい音が鮮明に聞こえることからその威力が窺える。
日和は怯むこともなく、やれやれ……と言いたげに、しかし真顔のまま息をつく。それからスカートであることも気にせずひょいと片足を上げると、靴底で見事にボールを止めて見せた。ぎゅるぎゅると現実離れした音を立て、その高速シュートはみるみるうちに減速していく。やがて完全に回転を止めると、力を失ったようにポトリと地面に落ちた。
「……誰のせいだと思ってんだ、日和」
「そんな死屍累々な光景作り出してた京ちゃんが、私が来る前は心穏やかだったとは、にわかに考えがたいですなぁ」
「……チッ」
図星だったように、剣城は彼女から顔を背けた。前方数メートルには、先程まで元気にサッカーを楽しんでいた少年たちがボロボロの姿で地面に伏していた。無論彼等に罪はない。ないのだが、フィフスセクターがサッカー界を支配する今、自由にサッカーを楽しむことすら反逆することと同じようなものだった。それに加えて、この少年たちと重ねて、あの純粋で愚直な存在を思い出してしまったのだ。それと一緒に彼の言動が次々と剣城の脳内を埋め、彼の胸中を大きくざわつかせ、そこからは見ての通りだ。
日和の鋭く的確な、かつ苛立たせる突っ込みに対抗する術を、彼は未だ知らない。それどころか、これから死ぬまでのうちですら、彼女に敵う気すらしない。だから勿論、気付いたら目の前に立っていた日和には悲鳴を飲み込むので精一杯で、ましてや顔目掛けて伸びてきた手を払うことなどできるはずもなかった。
咄嗟に動くことができなかった剣城は、反射的にきつく目を瞑った。
「よーしよしよしよし」
だが剣城を襲ったのは反撃ではなく、犬に対するそれのような、雑で豪快でやさしい手だった。ぐしゃぐしゃに頭を撫でられ、セットした髪型が崩壊していく。やめろ、と訴えても止まる気配すらない。ならばその手を掴んで強制的にやめさせればいいと思うが、どうしてかそれもできない。魔法にでも掛かったように、剣城はその手を享受することしかできなかった。そんな彼が、日和に撫でられることを実はそんなに嫌に思っていないことに、気付くわけもなく。
「京ちゃんはそんなに自分に自信がないわけだ」
「……あ? なんだと?」
「私が京ちゃんを殴るわけないじゃんか」
ぐ、と息をつまらせる。殴られる、と怯えて目を瞑ったと彼女に思われていることが腹立たしく、しかしまったくそんなこともないかと言われたら頷けないと気付いてしまったことが悔しかった。この、何を考えているのか分からないようで、突き詰めれば本当に単純で簡単なことを考えている彼女は、そのくせ人の考えを読むのが昔から得意だった。
「私はね、私にできることで、京ちゃんの幸せに繋がることならなんでもしてあげられるくらいには、京ちゃんが大好きなんだよ」
「知ってた?」と恥ずかしげもなく話す日和は、相変わらず顔色一つ変えてすらいない。どうしてこいつはいつもこうなんだ。だから嫌なんだと、剣城は見なくてもわかる赤く染まった頬を、背を向けることで隠した。しかしきっとそれすらも、後ろの彼女にはお見通しに違いない。だから嫌なんだ、彼は今度は声に出して呟いた。
back
topへ