夏の日差しは早朝からすでに暑い。 蝉の声が五月蝿いくらいに響き渡っている廃れた参道を、おぼつかない足取りで登る女性とそれを支える少女がゆっくりと進んでいる。 「あねさま、今日はもう暑いですからまた涼しい時に来ませんか」 日に焼けていない白い肌に玉のような汗を滲ませている女性を心配そうに見上げて、少女は袖を引く。 「大丈夫よ、心配しないで。それにこれはお参りなんだから。 少しぐらいきつい方がご利益あるかもしれないでしょう?」 額に滲んだ汗を手ぬぐいで拭いながら女性は微笑んだ。 汗をかいているわりに女性の顔色は青白く、気分が良さそうにはどうにも見えない。 「お参りに行って具合を悪くされては困りますよっ」 「もう、心配性ねぇ。私だってこれくらい大丈夫ですよぅ」 えっちらおっちらと階段を登っていく女性の背中を見上げて、少女はーー直江は小さく息を付いた。 直江は兄の妻である彼女の身の回りの世話を任されている。 義姉であるこの人は元々の体の弱さに加え心が弱く、離れで日がな一日ぼんやりと過ごしていることが多い。 そんな彼女が不意に思い出したように言ったのだ。「お参りに行きましょう」と。 「本当に神社があるんですか? 随分と人が来てないようですけど…」 参道である石階段は随分と古く、人の出入りもないのか足元を擽るように草が茂っている。 「えぇ。私のお祖父様がご存命の頃はね、一緒にお参りしていたのよ」 「そうなんですか」 一旦立ち止まって荒くなった呼吸を整えるように深呼吸をして義姉は直江を振り返った。 「その神社には、曽祖父が蚕産業の守り神としてお迎えした“猫神様”が御奉りされているんですよ」 「ネコガミサマ…?」 きょとりと直江は義姉の言葉を鸚鵡返しに呟いた。お狐さまなら聞いたことはあるが猫を祀った神様は今まで聞いたことがない。 「良い蚕が出来ますようにってことなんですけどね。ほら、 猫は蚕を狙うネズミを捕ってくれるでしょう? それにあやかって、ということなんですって」 義姉の説明に直江は「はぁ」をなんとも気の抜けた声を漏らす。 「あねさま…健康を祈願するなら東町にある神社をお参りしたほうがいいんじゃ…」 「あら?でも曽祖父が建てた神社なら、ひ孫の私に何かご利益があるかもしれないじゃないですか」 「そうですかねぇ」 直江の渋い顔に義姉は鈴を転がすように笑う。 「それにね、私ここを思い出した時。直ちゃんに教えてあげたいなって思ったの」 義姉の優しい声色に直江ははっとしたように目を見開いた。 「直ちゃん、猫っぽいからかしらね」 「あねさま!」 「ふふふ、」 一際楽しそうに笑って義姉はまた石階段を昇り始め直江もその後に続いた。 「あぁ、ありましたよ。…ちょっと草臥れてしまってはいますけど」 先に上に到着した義姉がお社の有様に苦笑を浮かべて直江を振り返る。 直江も後に続いてその様子を見て「あぁ…」と思わず情けない声を漏らした。 小屋ほど大きさの社自体には、大きな痛みはないように見えるが、おそらく参拝者はほとんどいないのであろう。 手入れのされてないそこは、夏草が随分と生い茂っている。奥へと進んだら蛇でもいるんじゃないかと言う荒れ具合だ。 「お父様の代でうちはお蚕から手を引いたから……その後はほったらかしだったのね。 必要な時にだけ縋ってお役目を終えればこんなことでは、バチでも当たるんじゃないかしら」 悲しさ半分呆れ半分で義姉は呟くと、お社に向かって足を進める。 「一寸待ってください、あねさま」 蜘蛛の巣がかかりほこりが白く詰まっている社に手を伸ばそうとした義姉の手を止めて、直江は懐から手ぬぐいを出すと端が欠けて転がった茶碗を脇に避けて、ほこりと蜘蛛の巣を払った。 とりあえず今出来る事をしてから、手ぬぐいについてほこりをとると汚れた面を内側にたたむと懐に戻す。 終わりましたよ、という意味を込めて振り返れば義姉はにっこりと笑って「ありがとう」と言った。 それから前に出た義姉と並んで立つと、義姉が鈴をガラガラと鳴らした。パラパラと鈴から落ちてくる錆に思わず顔を見合わせ苦笑してから、柏手を打って直江はそっと手を合わせた。 自分に関する願いは特になく、義姉の健康を祈って目を開けた。ちらりと見た隣では義姉がまだ手を合わせている。 邪魔をしてはいけないので、直江はその場にたったまま社を見上げた。おそらく漆が塗られていただろう柱も全てはげ落ちて白木の木目をあらわにしている。この手の技術に知識はないが、前に義姉達と参拝した町の大きな神社の細工に負けず劣らずの彫り物がされていることから、義姉の祖父がどれほどのお金をかけてこの神社を作ったのかがわかる。それを放置するとは、なんとも。金持ちが考えることは直江にはわからない。 「直ちゃん」 義姉に呼ばれた声にぼんやりと考え込んでいた直江は視線を隣に戻した。 はい、と応えた直江に微笑んで義姉は「帰りましょうか」と寂しげに口にした。 「そうですね、もう帰らないと……誰にも言わずに来てしまいましたから」 「まだ朝餉にも早いから、大丈夫よ。 それに私が起きてくるのが遅くても、家の人たちは気にしたりしないわ」 ゆっくりと足を進める義姉の横顔には諦めたような冷たい色がにじんでいる。 直江は、何か言葉にしようと唇と僅かに開いてから、きゅっと唇を噛んだ。気の利いた言葉がぽんと出てこない自分に情けなさを痛感する。 義姉はそんな直江に気にした様子もなく、前を見つめたままゆっくりと石畳を進んでいく。 日が昇っていくにつれ、足元の木漏れ日の光が煌めきを増していた。きらきらと白い光を受ける義姉の後ろ姿を見つめてから、直江は廃れた神社を振り返った。 「あねさま」 「うん? なぁに、直ちゃん」 「また、ここにお参りに来ますか?」 立ち止まった義姉が直江を振り返る。 「……うん、来たい、来たいわ。あそこにばかりいたら息がつまるもの」 ゆるりと暗く微笑んだ義姉に、直江は「なら」と声をあげた。 「秋まで待ってくれますか?」 直江の言葉に義姉は不思議そうに目を瞬いて首を傾げる。 「どうして秋なの?」 「この荒れ具合ですから、掃除や手入れにそれぐらいかかるかと思って」 それに夏は暑くて体に悪いですから、と言った直江に義姉はぱちぱちと目を瞬くとそれから嬉しさを滲ませた笑顔を浮かべた。 「うん、うん。直ちゃん、ありがとう」 義姉の隣まで足を歩み寄って手を差し出す。 「だから一緒にお参りに行きましょうね」 幸せそうに笑みほころぶ義姉は直江の手に自分の手を重ねて「えぇ、一緒に」と呟いた。 義姉のその様子に直江はようやく安心したように頬を緩めた。 足元に気をつけながら、手を繋いだまま二人で石段を降りていく。 ゆっくりな足取りではきっといつもの朝餉の時間を大幅に過ぎてしまうだろうが、一緒に怒られてねって困ったように眉を下げた義姉に「はい」と頷いたのだから、直江は急ごうとは思わなかった。 「ねぇ、直ちゃん?」 「はい」 柔らかく呼び声に視線を隣に向けて答える。 「お掃除、私も手伝うといったら怒る?」 「………あねさまは、私が大旦那さま達に怒られてもいいんですか?」 意地悪な質問をすれば義姉はむぅっと難しい顔をして「それはダメよ」と呟いた。 「直ちゃんが、お父様達に怒られてしまうのはいけないわ。 …わかりました。大人して待っています」 「はい、ありがとうございます。あねさま」 握り合う手に力を込めて二人は並んで参道をゆっくりと下っていく。 その時、後ろでチリンと小さな鈴の音が聞こえた気がして直江は神社を振り返った。 「直ちゃん?」 立ち止まった直江を義姉は不思議そうに呼ぶ。 「……いえ、今鈴の音が聞こえた気がして…」 「鈴? 鈴…。どこかの飼い猫が朝の散歩でもしてるのかしらね?」 義姉の言葉になんとなく納得できない部分もあったが、直江は「そうですね」と同意を呟くと止めてしまっていた足を進める。 振り返ることなく進む二人の背中を鳥居の上から見下ろす者がいたことに、気づくことはなかった。 りん、とまた鈴が鳴る。