可愛いネコの手懐け方


「離してってば」

 大きくも小さくもない、その凛とした声が真一郎の耳に届いたのは偶然だった。

 高校時代から連んでいる仲間達と連れ立ち、夕飯を食べるために夜の渋谷の街中を歩いていた時のこと。
 居酒屋や夜の店が建ち並ぶ繁華街の中で、ほんの少しだけ暗がりになっている路地裏の入り口。聞こえてきた声に反応した真一郎が歩みを止めて視線を向けると、そこにはスーツ姿のサラリーマンと、その男に腕を掴まれている一人の女の姿があった。

 真一郎が足を止めたことに気付いた武臣、若狭、慶三の三人も、同様に足を止める。

「どうした、真」
「飯行かねぇの?」
「悪ぃ、ちょっと待ってて」

 元来、佐野真一郎という男は困っている人間を放っておけないお人好しの気質であった。そんな彼が、明らかに男に言い寄られている女の姿を見てしまえば、止めに行くのは必然というもの。

 連れの三人に声をかけてから、男女の元へと足を向けた。

「おい、おっさん」
「は? ……な、なんだよ」
「嫌がってんじゃんその子。離してやれよ」

 第三者に声をかけられたことがお気に召さなかったのか、反抗的な態度で振り返る男。しかし、真一郎の姿を目にとめると最初の威勢はどうしたのか、少し狼狽えた様子で言葉を続ける。

 だが、それでもなお女の腕を離さずにいるところを見ると、そう簡単には彼女を逃がしたくないのだろう。その見え透いた下心を感じ取り、不快そうに眉間に皺を寄せた真一郎は、男の手首を勢いよく掴んだ。

「なっ…!」
「離してやれって言ったの、聞こえなかったか? 女には優しくしろって教わらなかったのかよ」
「なんなんだよ、…お前に関係ないだろ!」
「関係ねーけど知るか。嫌がってる女に手ぇ出してるところ、見過ごせるわけねぇだろ」

 男と言い争っていると、先程まで真一郎と一緒にいた三人が彼の後ろから歩いてきた。

 上背が高く顔に傷のある者、小柄だが隙のない雰囲気のある者、見るからに力が強そうなガタイのいい者。真一郎自身、細身とはいえかなりの長身であるから、一般男性からも多少の威圧感はあるだろう。

 その彼の後ろから、さらにそんな様相の男達がゾロゾロと歩いてくれば、凡庸なサラリーマンの男が尻込みするのも仕方がないことだと言える。こちらへ向かってくる男達の姿を視界に入れた途端、「ヒッ…! 」と喉から搾り出したような声を出して、あっさりと女の腕を離し一目散に走り去っていった。

「何やってんだよ真、ナンパか?」

「違うって、この子がさっきのおっさんに絡まれてたんだよ」
「ふーん、俺らが声かける前に勝手に逃げてったな」
「数的に不利だとでも思ったんだろ。情けねぇヤツ」

 後ろで好き勝手に喋り出す三人を放っておいて、真一郎は女の方へ向き直った。先程までは女の外見は特に気にしていなかったが、改めて見ると随分小柄で、頭の高さが彼の胸の辺りまでしかない。

「大丈夫か?」
「…」

 怖がらせまいと控えめに声をかけてみた真一郎だったが、女からの返答はない。俯いていることで表情も見えないため、女が怖がっているのか、はたまた泣いているのかも、うかがうことができない状態だ。

 真一郎は、女は好きだが女の扱いは滅法下手だ。単純に、経験値が足りないともいう。悪友達曰く、オンナゴコロがわからないのが原因らしい。男なのだから女の心がわかってたまるかというのが彼の本音であるが、つまりそういうところが女にモテない所以だった。

 黙ったままの女に痺れを切らし、せめて表情だけでも伺えればと思った真一郎は、目線を合わせようと腰を少しだけ屈める。誰彼構わず、こうやって相手の顔を見て話をしようとするのは、幼い弟妹を持つ彼の兄貴気質が故の行動だった。

 すると、今までピクリとも動かなかった女が顔を上げた。

 女の顔は、珍しい黄色の瞳をした大きな目。目尻は少し上がっていて、まつ毛が長い。すっと通った鼻筋に小さめの唇。真一郎から見ても、女の顔は一般的に整っている部類の顔と言えた。その女の顔には表情らしきものは浮かんでおらず、何を考えているのかは顔を見ただけでは判断しにくい。しかし、震えているわけでも涙を浮かべているわけでもない様子なので、怖がって黙っていたわけではなさそうだった。

 もう一度声をかけようと口を開いた真一郎だったが、声を発する前に女はくるりと踵を返すと、彼の視線から逃れるように路地裏の暗がりへ入っていってしまった。目の前から逃げるものを咄嗟に捕まえようとするように腕を伸ばしたが、その手は虚しく空を切り、何も掴むことはできなかった。

 賑やかで明るすぎるくらいの繁華街とは打って変わって、路地裏は一歩そこに踏み込めば真っ暗な闇が広がっている。真一郎が慌てて路地の奥へ目をこらすも、その中へ潜っていった女の姿は既に見えなくなっていた。

「あーぁ、逃げられてやんの」

「お礼も言わねぇなんて、愛想のねー女だな」

「行こうぜ、真ちゃん」

「…おー」

 既に女の姿は見えないというのに、暗がりの方を見続ける真一郎。その彼に声をかけた他の三人は最初から女への興味はないようで、さっさとこの場から立ち去ろうとしている。

 その時の真一郎にとって、助けたのにお礼を言われなかったことも、話す前に逃げられてしまったことも、どうでもよいことだった。

 ただひとつ。

 立ち去る前に目が合った女の、暗闇にぽっかりと浮かぶ綺麗な月みたいな瞳が、頭から離れなかった。

「あ、」

 真一郎が次にその女を見かけたのは、三日後のことだった。
 バイクショップの仕事で、メンテナンスが完了したバイクを納車した帰りのこと。ストックしていた煙草が切れていたことを思い出した真一郎は、駅前のコンビニに立ち寄ることにした。
 買い物を終えて店の外に出た時、右側から歩いてきた華奢な女。頭のてっぺんから真っ黒な服でコーディネートし、脚元の赤色のハイヒールが差し色となって目立っている。たまたまそちらへ視線を向けた真一郎は、あの日見た月みたいな瞳を見て先日の女であることを思い出し、声を上げた。
 携帯を操作しながら歩いていた女は、真一郎の声に気付いて顔を上げる。ほんの少しだけ目を見開いて立ち止まり、視線を逸らさずじっと彼の方を見つめた。その様子はなんだか、敵に遭遇して視線を逸らさずに固まる猫のようだった。明らかに警戒心を滲み出している彼女の様子に、真一郎はやや気まずそうになりながらも、偶然めぐり合わせたこのタイミングを逃してはならないと声をかけることにした。

「あー、…俺のこと、覚えてる?」
「…」
「あれから気になってたんだ。腕、結構強く掴まれてたろ。その、大丈夫か?」
「…」

 真一郎の問いに女が口を開くことはなく、全て頷くだけだった。

「そっか、ならいいや。悪かったな、呼び止めて」

 言葉は一度も発さなかったものの、先日聞けなかった問いの答えを聞けた真一郎は、長居する必要もないだろうとすぐに立ち去ろうとした。これで気がかりもなくなったため、もうその女と関わることはないだろう。そしてそのまま、足早に女の横を通り過ぎる。
 すると、後ろから服を引っ張られるような感覚がして前に進めなくなり、足が止まった。歩みを止めさせるそれに驚いて後ろを振り返ると、真一郎の胸の高さくらいしかない身長のその女が、先程よりも近い距離で彼を見上げていた。女の身体から伸びた腕の先を辿れば、彼のTシャツを指先で掴んでいて。歩みを止めさせたのは、間違いなくこの女だということがわかる。
 ジッと向けられるその視線にたじろいだ真一郎は、声も発さず女を見返す。ほんの数秒、二人の間には沈黙が落ちた。そしてその沈黙を破ったのは、真一郎を引き止めた女の声だった。

「ねぇ」

 小さな唇から発せられた音は、三日前に一度だけ聞いた凛とした声。にぎやかな喧噪の中、真一郎の耳にやたらとよく馴染むソプラノボイスだ。

「この間。助けてくれて、アリガト」

 これまで喋らなかった女からの突然の礼に、真一郎は驚いた。このタイミングで言われるとは思っていなかったからだ。彼女が何かを喋ったりあまり反応を返してこないのは、元々愛想のない子か、人見知りか。はたまた自分を怖がってのことだろうと考えていたからだ。
 だが、お礼を言われて悪い気がする人間はいないだろう。彼女の礼に応えるように、真一郎も口を開く。

「おう。どういたしまして」
「名前、なんていうの?
「俺?」
「うん」
「佐野真一郎、だけど」
「サノ…シンイチロウ…、くん」

 女の唇から自分の名が紡がれたことに、真一郎はむず痒さを感じた。そのたどたどしくも聞こえる呼び方が、妙に耳に残る。

「サノくん、ありがとう」
「…うん。お前は?」
「ん?」
「名前、教えてよ」

 真一郎は、気が付けば女に名前を尋ねていた。小さく首を傾げた女は、何かを考えるように視線を左から上へとゆっくり向けて、最後に目を合わせてこう言った。

「ネコ」
「……ねこ?」

 女…もとい、ネコに教えられた名前は明らかに本名ではなさそうで、今度は真一郎が首を傾げることになった。

「ネコって呼んで。サノくん」
「…本名じゃねーよな?」
「似たようなものだから。サノくんから呼ばれるなら、ネコがいいな」

 一応問い返しはしてみたものの、そう呼んでほしいと言われてしまえば彼には何も言うことはできず。真一郎は彼女の意図が掴めないまま、無理やり納得するように数回頷いた。

「わかった、ネコな」
「うん」

 それから二人は何か会話を続けるでもなく、どちらからともなく別れの声をかけあって、互いに反対方向へと歩き出した。
 これが、真一郎とネコがお互いを認識した瞬間だった。

 それから二人は、特に約束もしていないのに街中で会うことが増えた。元々生活圏が同じだったのだろう。今まではすれ違ったとしても互いに気に留めることもなかった。しかし、顔見知りになれば話は違ってくる。

 二度目にコンビニの前で会った時、真一郎は彼女の雰囲気や仕草を猫のようだと思った。しかしまさかほんとに、ネコと呼ぶように言われるとは露ほどにも思っていなかったが。

 ネコは気まぐれな女だった。

 平日の昼間から街中をふらついている時もあれば、しばらく見かけない日もある。かと思えば夜中のコンビニで雑誌を立ち読みしている時もあるし、その辺の道端でアイスを食べていることもあった。そうしてネコを何度も見かけるうちに、真一郎は次第に彼女に興味を持ち始めた。自由気ままに過ごしている様子に、なんとなく惹かれたのだ。ネコを見かけない日が続けば、彼女は今どこで何をしているだろうと、ぼんやり考える日も増えた。

 彼女は元々警戒心が強いようで、自己紹介をしたあの日から何度か会った後も、一定のラインを引いて接しているように真一郎には見えていた。名前もいまだに「サノくん」のままである。

 真一郎は、相手の年齢や立場を問わず、誰であろうと名前で呼ばれることの方が多かった。呼び方は「真一郎」であったり「真」だったり、くん付けやちゃん付けだったりと様々ではあるが、みんな気さくに彼の名を呼んでいたし、真一郎自身も呼び方について訂正を求めたことは一度もなかった。逆に、ネコの「サノくん」という呼び方が稀なのだ。

 彼は、ネコにも名前を呼んでほしかった。あの凛とした耳に馴染む綺麗な声で自分の名前を呼ばれたら、どんな気持ちになるだろう。「サノくん」も新鮮でいいけれど、できれば「真一郎くん」とか、そんな風に呼ばれてみたいと思っていた。だがそのためにはまず、もっとネコとの交流を深めて警戒心を解かなければならない。

 そこで真一郎は、ネコを見かける度に挨拶を交わしたり、餌付けという名のお菓子を与えたりして、なんとか彼女とお近づきになろうとした。彼女を見かければどんなに忙しくても必ず話しかけに行ったし、コンビニ帰りに遭遇すれば、会えるかもしれないと期待して買っておいたチョコを与えた。いきなり距離を詰めすぎずに細心の注意を払い、彼女の反応や様子をうかがいながらちょっとずつ距離を縮めていく。

 それを繰り返していくうちにネコの警戒心は次第に緩和されていき、彼と彼女が出会ってから三ヶ月が経過した頃には、二人は街中で会えば親しげに話せるような間柄になることができた。

 努力が嫌いな真一郎が、珍しくも頑張った結果だった。

 いまだに呼び方は名字のままだが、ネコの方から真一郎に近寄ってくることも増えた。

 ふらりと近付いてきては、「サノくん」と声をかけて服の裾を引っ張り、自分の存在を主張する。あんなに警戒心の強かったネコが、自ら近寄ってきてこちらを見ろと催促してくる。その、相手の関心を引こうとするネコの仕草に、真一郎はいつもドキドキしていた。ネコは慣れてくるとスキンシップが増えるようで、裾を引いてみたり腕に触れてみたり。機嫌が良い時は、横並びでぴったりとくっついて座ることもあった。

 女の扱いが下手な真一郎は、女との接点も少ない上に、彼女ができたこともない。告白二十連敗という不名誉な実績を持ち、喧嘩も恋も最弱王だなんて呼ばれている始末。そんな、自分に懐いていると明らかにわかる彼女のその態度の変化に、恋愛偏差値ゼロの真一郎はたじたじだった。

 「気になる」と思っていた彼女に対するその気持ちは、いつしか「惚れている」に姿を変えていた。

 元々惚れっぽい気質であった真一郎は、好きだと思った子にはすぐ告白するような男だった。惚れて、告白して、フラれ、それが何度も続いて。残念ながら、彼の恋が実ったことは一度もなかったけれど。

 自分の胸の辺りにしかない可愛らしい身長も、擦り寄ってくる仕草も、お菓子をおねだりしてくるところも、全部が可愛いと思った。横に並んでくっついて座ることは当たり前になってきて、挙句、時には肩に頭を預けてくることだってあった。控えめな声で「サノくん」と呼ばれるのも良い。

 結構早い段階でネコが好きだと自覚していた真一郎だったが、すぐに告白はしなかった。もう少しこのままでいたいと思ってしまったからだ。

 なぜなら、彼はこれまで若者が学生時代に経験するような甘酸っぱい恋愛が未経験だったので。今のこの、“友達以上恋人未満”のような関係も存外悪くないと思っていた。

 つまり、この甘酸っぱくて程よい距離感の関係性に、もうちょっとだけ酔っていたかったのだ。

***

「真、まだあの女に会ってんのか? 」

 今日も真一郎は、武臣、若狭、慶三の三人と一緒に、夕飯という名の飲み会のために店に集まっていた。

四人がよく利用するこの大衆酒場は、いつも多くのサラリーマン達で賑わっている。財布に優しい価格設定でありながら、料理の味も美味い。しかも食事系のメニューも豊富なため、夕飯がてら利用する客も多い。既に四人とも自立している大人とはいえ、社会人になりたての者ばかりだ。財布に優しく腹がいっぱいになる美味い居酒屋となれば、御用達になるのも当然のことだろう。

 この会が始まり小一時間ほど経った頃、ネコの話を持ち出したのは武臣だった。真一郎とネコが街中で会うようになってから、そのことを彼には一度だけ話したことがあったからだ。

「あの女って誰。俺ら知ってる?」
「最近関わりのあった女なんかいたかぁ?」

 誰のことだかわからない若狭と慶三は、その女の話題に食いつく。なんせ、学生時代に女の尻を追いかけては玉砕し続けていた真一郎からは、ここ最近その手の話をとんと聞く機会がなかったからだ。要は、面白い話に飢えていたともいう。

 焼き鳥の串を銜えながら尋ねてきた若狭に対し、真一郎は答えずにまずビールを喉へ流し込んだ。別に意味はない。なんとなく、ネコのことをすんなり教えるのを渋っただけの無意味な行動だ。

「アイツだよ、ちょっと前に街で絡まれてるとこ助けた」

「…あぁ、礼も言わずに逃げた女か」

 真一郎が答える気がないとわかったからか、二人からの問いかけには何故か武臣が答えた。すると、思いがけずすぐ返ってきた反応に、三ヶ月も前のことなのによく覚えていることだと真一郎は感心する。三人にとっては、大して印象深くもない女だろうに。

「んで? まだ会ってんのか」
「おう。街でよく会う」

 再度尋ねてきた武臣に対して、真一郎が頷いた。

「へー。…真ちゃん、ソイツのこと好きなんだろ。告白しないワケ?」

 若狭は、ストレートな物言いをする男だ。物事の本質を捉えるのが早いというかなんというか。今も「会っている」と言っただけなのに、好きと断定して告白の有無まで聞いてくる。

 ただ、質問を投げかけておいて返答を待たず、通りかかった店員に「皮二本、追加で」と注文している様子を見るに、そこまで真剣に話を聞こうという態度ではなさそうだ。話の種に、多少興味があるくらいだろうか。

 そんな若狭の態度に気を悪くした様子もなく、真一郎は今度こそ素直に答えた。

「いや、うん。好きだケド……長期戦覚悟っていうか」
「めずらしいな。女には玉砕覚悟で猪突猛進の真が!」
「うるせーぞ武臣、まだ砕けてねぇわ。俺だって色々考えんの!」
「お前も待てができたんだなぁ」
「おいコラ、人を犬みてぇに言うんじゃねぇ。俺だって待てるわ、そんくらい」

 待て、と言うと語弊があるだろうが、実質今の真一郎の状態は待てに近いだろう。恐らくネコの方もそれなりに好意を抱いていることは確かだし、今のこの距離感を甘んじて楽しんでいるのは彼自身でもある。

 しかしそれと同時に、確証がないと真一郎は思っていた。つまり、単に彼女に気に入られているだけで、恋愛的な意味あいでの好きではなかったらどうしよう、という不安もあるのだ。

「真ちゃんがそこまで我慢するなんて、そんなにいい女なワケ?」

 若狭の問いに対して、真一郎は改めてネコの姿を思い浮かべる。
 いい女かと聞かれれば、ネコはまぁいい女だろうと彼は思っていた。見た目も可愛いし、小柄で華奢な身体はどうしたってか弱く見えて、男の庇護欲を唆る。特にあの折れてしまいそうな手首。真一郎の大きな手で掴めば、片手でぐるりと一周してしまえるほどの細さだ。そしてあの性格。

 初めは警戒心が強いのに、慣れてくると自分から近付いてきて懐く様は、猫を手懐けていくソレに酷似していて。気が付けば真一郎は、ネコに夢中になっていたのだ。

 でもそうでなくても、初めから真一郎はネコに惹かれていた。初めて会ったあの日、あの瞳に魅入られてから。

「おう、いい女だぜ」

 いつも女を追いかけている時の真一郎は、ニヤニヤデレデレと表情に締まりがなく、お世辞にもカッコイイとは言えない。だが、いつになく真剣な様子の真一郎に、他の三人は思わず顔を見合わせた。

「絶対、俺のもんにする」

 賑やかすぎるほどの大衆酒場の中で、真一郎のその一言は三人の耳によく届いた。

***

 今日、真一郎がネコと会った場所は、彼のバイクショップとよく利用しているコンビニの間にある小さな公園だった。

 ブランコとジャングルジムくらいしかないその小さな公園は、遊具の少なさからか近所の子供には不人気なようで、もっぱら利用しているのは散歩をしている高齢者や、ベビーカーを押した新米ママがほとんど。お昼時は、外回りをしているであろうサラリーマンが、ベンチで昼食を済ませていることもある。そんな場所だ。

 仕事が立て込み、少し遅くなってしまった昼食を済ませるためコンビニに向かった真一郎は、その帰り道で公園のブランコを漕いでいるネコを見つけた。漕いでいると言っても地面に足はついていて、前後に少し揺らしている程度だったけれど。

 公園の入口辺りで足を止めると、彼に気が付いたネコが手招きをする。おいでおいでと動く手に導かれるように公園の敷地内へ向かい、真一郎はネコの前に立った。

「サノくん」
「おう。こんなとこで何してんの?」
「散歩の帰り。静かなところ見つけたから、休憩してた」
「ははっ、ホント猫みてぇだな」

 猫みたいだと言うと、たいてい彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。名乗りあった時に「呼ばれるならネコがいい」と言ったくらいだから、大の猫好きか、猫に思い入れでもあるんだろうと真一郎は考えている。

「サノくんお仕事は?」
「俺も休憩、ってか昼飯。さっきまで仕事立て込んでてさ」
「ふぅん。ここで食べてったら?」

 隣のブランコを指差しながら、ネコは真一郎に尋ねる。彼女からの思わぬお誘いに、彼はいちにもなく頷いた。弁当を買わず、片手で持てるおにぎりにして良かったと真一郎は思った。弁当だったらブランコに座って食べるには些か不便だっただろう。十分前の俺グッジョブと、彼は心の中で自画自賛する。

 ネコの隣のブランコに腰かけて、持っていたビニール袋からおにぎりを取り出しフィルムを剥がす。真一郎はそのままおにぎりを口に咥えると、また袋の中を漁り出した。取り出したのは、コンビニのレジ前で見かけたチロルチョコ。会計前に目につくところに置いてあるそれは、ちょい足し感覚で商品を買ってもらおうという店側の戦略らしい。それにまんまと引っかかった彼は、隣にいる彼女にチョコを差し出す。

「あげる」
「チョコ!ありがとう」

 既に三ヶ月という期間をもってして真一郎からの餌付けに慣れているネコは、素直にお礼を言ってチョコを受け取る。

 真一郎がおにぎりを咀嚼し始めると、二人の間には静かな時間が流れた。今日の天気は雲まじりの晴れで、外で食事をとるのにもピッタリの気候だ。時折聞こえる鳥のさえずりや、遠くから聞こえる街中の車が走る音だけが二人のいる空間のBGMとなっている。よく、会話が止まってしまうと気まずい空気になる人達もいるというが、真一郎とネコの間にそのような空気はなかった。二人の間に流れる時はひどく穏やかで、真一郎はこの二人きりの静かな時間を特に気に入っていた。

 一つ目のおにぎりを食べ終え二つ目に取り掛かる時、ふと思い出したかのように真一郎が口を開く。

「ネコはさぁ、いつになったら名前で呼んでくれんの?」

 それはずっと真一郎が気にしていたことだった。彼女に名前を呼んでほしくて、距離を縮められるよう努力してきたのだから。自惚れでもなんでもなく、彼女からの好感度は出会った当初より格段に上がっているのは確かなはずなのに、ネコが真一郎を呼ぶ時は変わらず「サノくん」だ。

 ネコに名前で呼んでほしい、佐野くんじゃなくて。そう思っての発言だったのだが、彼女に真意は伝わっていないようで首を傾げている。

「呼んでるよ?」
「…名字じゃん。じゃなくて、下の名前」

「名前で呼んで」なんて些細な一言が、好きな女に言うとなると途端に緊張するものなんだということを、真一郎はこの時初めて実感した。

 大人になってくると、子供の頃は特に意識せずできていたことが、妙に意識してしまってできなくなるなんてことが増える。名前の呼び方もその一つだ。例えば、仲の良い友達をずっとあだ名で呼んでいたのに、大人になった途端気恥ずかしくなってしまうとか。あるいは、呼び方を名字から名前へ変更することのハードルが極端に高く感じるとかだ。

 真一郎の心境は、今まさにそんな感じだ。名字呼びから名前呼びへと、その間にある分厚くて高い壁を越えてもらえないのかとヤキモキしている真っ最中である。

「名前、呼んで欲しいの?」
「うん」
「えー、どうしよっかなぁ」
「呼んでよ、シンイチローって」
「うーん」

 先ほど真一郎から渡されたチロルチョコのパッケージを眺めながら答えるネコの返事は、お世辞にも色良いものではなさそうだ。どちらかというと、渋っているようにも聞こえる。

 しかし、ここで諦める真一郎ではない。彼女からの名前呼びはもちろん、彼にはもう一つ目的があった。

「そんで、ネコの名前も教えて」
「私?」
「うん。俺もネコの名前、ちゃんと呼びてぇ」

 真一郎とネコが出会ってから早三ヶ月。最初に教えてもらった呼び名しかわからないまま月日が経っていた。名前というのは特別なものだ。その人を表す固有名詞であり、その人だけの特別なもの。いつかネコの特別な存在になりたいと思っている真一郎にとって、彼女の本当の名前を教えてもらうことは、大きな意味があった。

「そうだなぁ…」

 するとネコは、何かを考える素振りをしながらチロルチョコのパッケージを開ける。期間限定のいちご味だというそのチョコは、合成着色料で染められたパステルピンクで。そのいかにも女子が好きそうな色合いをしたチョコは、ネコの小さな口の中にあっという間に放り込まれた。

 口の中に収めてもぐもぐと咀嚼しながら、彼女は腰掛けていたブランコから降りる。公園の中を見渡すと、隅っこに落ちていた枯れ木を手に取り、真一郎が座るブランコのところまで戻ってきた。

 そのまま横一列になるよう近くにしゃがみ込んだネコは、手に持った枝を土の地面に突き立て、ガリガリと文字を書き始める。ネコの意思に従って動くその枝の動きを、真一郎はじっと見つめていた。

 地面に描かれた文字は、いつも見慣れた日本語が二文字。

「これが、ネコの名前?」
「そう」

 ネコの名前だというその漢字は、正直なところ平凡な名前だった。猫と呼んでほしいと言われた時に「似たようなものだから」と言われた理由は、この名前を見ただけでは真一郎には理解できない。けれど、ありふれた文字の羅列であるはずなのに、彼女の名前だというだけで、なんだかそれがとてもキラキラしたものに見えた。

 たった今知ることができた彼女の名前を見て、彼女の顔を見て、もう一度地面に書かれた名前を見る。

 そうして、ようやく呼べる時が来たと真一郎が口を開いた、その瞬間。
 真一郎が声を発するために中途半端に開いた唇は、ネコの唇で塞がれていた。

 彼が喋ることを止めるためだけに行われたようなその行為。
 2人の唇が合わさってから、たった数秒で離れたソレ。
 突然のことに固まっている真一郎に向かって、ネコはとびきりいい笑顔を浮かべてこう言った。

「ダーメ」

 真一郎の視界に映るネコの顔は、少しだけぼやけていた。あまりにも距離が近すぎるからだ。その証拠に、ネコが声を発した時の吐息が真一郎の唇にかかる。直前に食べていたイチゴチョコの香りを感じるほどの距離感と、吐息が当たったこそばゆさがより羞恥心を感じさせ、彼は途端に顔を赤くした。あと二口程度で彼の胃袋に全て収まる予定だった食べかけのおにぎりは、驚いた拍子に手のひらから零れ落ち、無惨にも地面に転がっている。

「名前は、いざって時に呼んで欲しいな」

 真一郎の反応を見て機嫌を良くしたネコは、笑みを深めるとおねだりするような言い方で言葉を続けた。その態度は今さっき彼とキスを交わした者には見えないくらいいつも通りの様子で、対照的に赤面して固まっている真一郎がいっそ滑稽に見えるほどだ。

 微動だにしない真一郎を放置して、おにぎり落ちちゃったねぇ、と呑気にネコは言う。話題にあげるわりには興味のなさそうな言い方でそれを拾い上げると、彼の傍にあったゴミ入れのビニール袋へ収めた。

「今日は帰るね」

 そのまま立ち上がったネコは、地面に書いた自分の名前を履いていたスニーカーの底でこすって、乱雑に消す。なんの躊躇もなく公園の出口に向かっていってしまうネコの後ろ姿を見て、真一郎はようやく我に返った。今の今まで思考停止していた脳みそが、やっと動き出したのを自覚する。

「またねー、サノくん」

 出口付近で振り返ったネコは真一郎に向かって大きく手を振ると、スキップしそうなほど上機嫌な様子で歩いて行った。公園の周りは高さが切り揃えられた植木に囲まれているため、彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまう。

 ネコにキスをされてから一言も発さず、あまつさえ間抜けにも口をぽかんと開けたまま彼女を見送るしかできなかった恋愛偏差値ゼロのポンコツ真一郎は、口の中に少しだけ溜まった唾をごくりと飲み込んでこう呟いた。

「今が…、いざって時じゃねぇの…?」

 あっという間に過ぎ去っていった出来事は、真一郎の心を掻き乱すには十分だった。なぜなら、彼にとってはこれがファーストキスだったからだ。好きな女とのファーストキスに浮かれてもいいところだが、あまりの超展開に真一郎の心が追いつくはずもなく。

 すっかりネコのペースにはめられた真一郎は、当の本人が既にいないのをいいことに、大きく唸り声を上げながら頭を抱えた。

 ***

 あの「甘酸っぱいイチゴ味のファーストキス事件」の日から一週間。

 人間というのは、なんて自由の利かない生き物なんだろうと真一郎はしみじみ思っていた。

 彼は、あの日のことを整理したり考えたりする時間が欲しかった。なんせ、名前を呼ばせないようにするためだけにネコがあんなことをした理由を、しっかりと考えたかったからだ。

 しかし、そんな時に限って仕事がわんさか入ってきたりするもので。いっそのこと投げ出してしまいたいと考えた日もあったが、生きていく上で仕事は切っても切り離せないもの。

 店を開いたばかりで、まだ売り上げもカツカツ状態の真一郎にとって、私情で仕事を休むなどあってはならないことだった。もとより、バイク好きの彼にとって今の仕事はもはや天職と言っても過言ではない。自分の精神状態がどうであろうと、バイクと向き合う仕事を放り投げるなんて、彼にとってはあり得ないことだった。

 だからこそ、請け負った仕事を投げ出さずになんとかこなしているわけだが、ふとした瞬間に、真一郎はあの日のことを思い出す。

 たった数秒間、触れ合っただけの唇。キスと言うには甘くなく、しかし唇を触れ合わせる行為すら初めての真一郎にとっては衝撃的な出来事であったことに違いはない。彼の頭の中では、あの時のネコの唇の感触がいつまでたっても離れなくて。ある意味、考える時間も取れないほど忙殺される量の仕事が舞い込んできたのは、彼にとっては幸運だったのかもしれない。

 その仕事もひと段落した頃。

 見計らったように店へと訪れたのは、この一週間真一郎の頭の片隅を占拠し続けた件の人物、ネコだった。コンコンッと店のガラス扉を軽くノックして、彼女が店内に入ってくる。

 これまでに彼女が真一郎の店に遊びに来たのは、片手で数えられる程度だ。わざわざ店に来なくても、二人の街でのエンカウント率は割と高く、会うのに不便さを感じていなかったからだ。そのため、特に連絡先も交換していない。

 本当に気が向いた時にだけ店へと訪れるネコは、真一郎の仕事を眺めたり、カウンター脇に設置している椅子に腰掛けて雑誌をパラパラめくっていたり、奥の休憩スペースでうたた寝をしていたりと、かなり自由気ままに過ごす。元々そういった性格の彼女のことを彼は理解していたので、特に咎めることもなく好きにさせていた。

 今日、久しぶりに店に来て作業中の真一郎の傍にやってきたネコは、「こんにちは、サノくん」と言って、バイクの前に腰掛ける真一郎の視線の高さにしゃがみこんだ。作業の手を止めそれを目で追っていた真一郎は、「おう」と一言だけ言葉を返すと作業へと戻っていく。

 その後二人の間に会話はなかったが、ネコの方は先週のことを引きずっていたり気にしていたりするような様子は一切なく、いつもと変わらない雰囲気だった。一方真一郎は、目の前の作業に没頭している風を装い、意識しまいと必死に振る舞っているように見える。しかし先日のことを思い出すと恥ずかしさが勝るのか、少しだけ目尻のあたりが赤く染まっていた。

 ただ黙って作業をする彼と、それを眺める彼女。二人の間には店内にかけられている有線からの曲だけが、うっすらと耳に入る程度に流れていた。

 それから数十分経った頃だろうか。じっと真一郎の顔を見ていたかと思うと、ネコがおもむろに口を開いてこう言った。

「サノくん、たばこちょーだい」

 初めてネコの口から出た単語に、真一郎は瞬時に理解することができず何度か瞬きを繰り返した。

 真一郎はかなりのヘビースモーカーだ。暇さえあれば煙草を吸うし、作業の合間の一服にも吸う。ことあるごとに吸うので、店の中の灰皿はいつも吸い殻で山盛りになってしまうし、彼のバイクショップも常時換気しているとはいえ、多少煙草臭いだろう。

 そんな真一郎だが、ネコの前でも変わらず煙草を吸っていた。特にネコから何か言ってくることもなかったので。けれど、彼女が煙草を吸っているところを、真一郎はついぞ見たことがない。だからこそその発言に驚いたのだ。だが彼女本人がちょうだいと言うのであれば問題ないだろうと、尻ポケットに入れっぱなしだった煙草を取り出し、そのまま彼女に向けて差し出す。

「…なんか意外」
「なにが?」
「煙草吸うんだな。知らなかった」
「たまにね。…あ、これすごく重いやつじゃん」

 真一郎から受け取った煙草の銘柄を確認すると、ネコは「軽いのしか吸ったことないや…」と呟きながらちょっとだけ顔を顰めた。別に悪いことをしたわけでもないのに、それだけで真一郎はなんだか申し訳ない気持ちになる。

 トントン、と喫煙経験がある人間の手付きでソフトの箱を叩くと、煙草を一本取り出し口に咥えた。そのまま手のひらを差し出してくるので、使い捨てのライターを手渡してやる。流れるような動作で火がつけられた煙草を、ネコの細い指が挟んで口元から離す。吸った後にすぐ煙を吐き出しているところを見るとフカシているだけのようで、彼女の先ほどの言葉通り、たまにしか吸っていないことがうかがえた。

 真一郎にとって、ネコは可愛い対象だった。

 女の子として可愛らしく、男である自分とは違った体格差や身体つき。折れてしまいそうな細い指や華奢な手首、身体のラインを強調させるような服装からうかがえるくびれ。どれ一つとっても、彼女を構成する全ては彼にとって女であることを意識させるもので、かつ魅力的だった。

 そのネコが今、自分と同じ煙草を吸っている。なんだかミスマッチな組み合わせだと思っていた真一郎だったが、いざその様子を目の当たりにすると妙にしっくりくることに驚きを隠せなかった。

「ネコ、煙草吸ってるの似合うな」
「そうかな?」
「おう、なんかかっけぇ」

 煙草を吸うネコの様子は気怠げで、いつもとは違った表情を見せた。三ヶ月以上も一緒に過ごしているのに、こうして新たに発見できた彼女の表情。真一郎は嬉しくなる半面、ほんのり漂う色香にどぎまぎした。彼女の小さな唇に、煙草の吸い口が吸い寄せられては離れていくその様子から、目が離せなかった。

 人が煙草を吸う理由は様々だ。きっかけはカッコつけたいだったり、大人っぽく見られたいだったり。真一郎もそんなしょうもない理由で始めた内の一人だったが、今はすっかり自分の一部とも言えるものになってしまい、なかなか手放すことができない。

 禁煙に挑戦したことがある知り合いから聞いた話だが、いつも喫煙していた人間がパッタリと喫煙を止めようとすると、妙に口寂しく感じるものらしい。そのせいで禁煙リタイアになる者もいれば、煙草の代わりに飴やガム、お菓子を口にするようになって、太ってしまう者もいると聞く。

 ネコはたまに吸うと言っていたが、どういう気持ちで煙草を吸っているのだろうと真一郎は考えた。彼女もまた、口寂しさを覚えて煙草を吸っているのだろうか、と。

 そう考えた途端、真一郎は唐突に自分がその煙草の代わりになりたいと思った。彼女の感じている口寂しさを、自分が埋められたらいい、だなんて思ったわけだ。他人に話せば何を馬鹿なことをと笑われそうではあるが。

 けれどそう考えてしまった真一郎の動きは止まらなかった。彼女の口から煙が全部吐き出されたのを見計らって、顔を近づけた。先程まで煙草を咥えていた彼女の口に吸い寄せられるように。煙草を持っている彼女の細すぎるくらいの手首は、真一郎の手にすっぽりと収まっている。

 あとちょっと。あとちょっとだけ近付ければ、彼女の唇に触れる。

 そして押し付けた彼の唇に当たったもの。

 それは、唇よりは少しだけ硬い、彼女の手のひらだった。真一郎が掴んでいなかった、もう片方の手。それを理解した途端、彼は自然と眉を顰める。

「…今、キスしようとしたでしょ」

 手のひらで真一郎の唇をガードしながら、ネコは困ったような笑みを浮かべて言った。

「…ダメ?」
「うん」
「…この間は、ネコからしてくれたじゃん」
「この間はこの間。今日は今日」

 素気なく断られてしまったせいで、真一郎はあっさりと引き下がるほかない。その顔には「残念です」とわかりやすすぎるほどの悔しそうな表情が浮かべられていたが、無理強いをするような様子はなかった。

 ゆっくりと離れた二人の間に、ネコが持つ煙草の煙が揺蕩うように舞う。掴まれていた手首を解放された彼女は、半分ほど残った煙草を真一郎の方に差し出した。

「もういいや。サノくんにあげる」
「…ん、キツかった?」
「うん、強いの吸ってるね」
「もうこれで慣れちまってるからなぁ」

 彼女の指に挟まれた煙草を差し出された真一郎は、同じく指に挟んで受け取ると、一瞬吸い口に目を留めてから煙草を咥えた。いつものようにゆっくり吸い込み、煙を体内でたっぷりと循環させてから吐き出す。もうかれこれ何年も繰り返してきた一連の動作は、煙草の臭いが染み付くのと同じように、真一郎の体に染み付いていた。

 彼の口から煙が吐き出される様子を横目で見ていたネコは、その尖った唇から煙が吐き切れた頃を狙って口を開く。

「サノくんの煙草は、おすそわけくらいでちょうどいいかも」
「おすそわけぇ?…そんなの一体どうやっ……、」

 またもや真一郎の言葉を遮ったのは、さっきは手のひらでガードされて到達することができなかったネコの唇だった。先週と同じように唇同士が数秒だけ触れ合い、離れる。この間と違ったのは、その後何度も戯れのように同じ動作を繰り返されたことだった。

 先程の真一郎と全く同じやり方でキスをしてきたネコは、彼のタイミングなんてお構いなしと言わんばかりの行動だ。彼はそれにちょっとだけ腹を立てる。少しでも意趣返しになればと思い、今もなお自分にキスを繰り返す彼女に対して、唇を食むために少しだけ口を開けた。

 離れるのを名残惜しむように、わざとらしく立てられたリップ音を添えて、二人の唇が離れる。キスの合間に吐き出された吐息によって、二人がいる場所の気温だけがほんの少し上がったように感じられた。

「……キス、ダメって言ったじゃん」

 小さくため息を吐いた真一郎が、胡乱げな視線をネコに向ける。それにさえ意に介さない様子のネコは、悪戯が成功して喜ぶ子供のような笑みを浮かべた。

「しないとは言ってないよ?」
「…なにそれ、ずりぃ」
「ふふ」

 そのまま拗ねたように顔を背けた真一郎は、からかわれたような、騙されたような気恥ずかしさを誤魔化すように、だいぶ短くなった煙草を吸う。その様子を、ネコは嬉しそうな様子でただただ見つめていた。

「帰るね」
「え、もう?」
「うん」

 おもむろに立ち上がったネコ。それに驚いたのは真一郎だった。まさかこの雰囲気の中、また帰るのかコイツはと言わんばかりの顔である。だが自由気ままな彼女は、そんな反応もなんのその。座っていた時に少し皺がついてしまった服の裾を軽く叩いて、帰る気満々の様子だ。

「マジか、お前。……マジか」
「うん、帰る」

 唐突すぎるネコの行動に、ついに真一郎は頭痛がする思いだった。彼の頭の中は今、「この雰囲気でいきなり帰るってどういうこと?」、「俺のキスが下手だったってことか!?」なんて考えがぐるぐると回っているところで。前回よりも進展したような、けれど明確に言葉では言い表せない微妙な感覚に、真一郎は困惑していた。

 喜んでいいのか悲しむべきなのか、やっぱり女の気持ちなんてわからねぇ〜!といったところである。

 そんな真一郎の様子を見ながら、ネコはにこにこと笑みを浮かべるだけ。こうなってしまっては諦めるしかないかと悟った真一郎は、隠すこともせず今度こそ盛大に大きなため息を吐いた。

 出入口の方へと一歩足を踏み出したネコは、すれ違いざま真一郎の手の小指にスルッと自分の小指を絡めると、彼の顔を見て言う。

「またね、サノくん」

 その言葉を聞いて、結局真一郎はこう答えるしかないのだ。

「…またな、ネコ」

 ネコが去った、誰もいない店内にて。口元を片手で覆った真一郎は、やっぱりその顔を真っ赤に染め上げて唸り声を上げていた。

***

 今日はあいにくの雨だ。午前中は晴れていた天気も、午後から下り坂となり、夜にかけては警報が出る可能性もあるほどの大雨になるとの予報だった。

 そのため、真一郎は雨が降り始めそうな曇り空になった頃から早々にシャッターを下ろし、店じまいすることにした。雨が酷い中、バイクショップに足を運ぶ者も少ないのでという判断だ。

 店内の壁時計が十七時を指す頃。店の作業スペースにだけ電気をつけて仕事をしていた真一郎の耳に、ノック音が聞こえてきた。いつの間にか降り始め、次第に雨足が強くなってきたなかその音が聞こえたのは、彼がいる場所が音を発した裏口のドアに近いところだったからである。

 真一郎は今日の来訪者の予定をざっと頭に浮かべてみたが、思い当たる人物は誰もいなくて首を傾げた。しかも、わざわざ店の裏口を叩くということは知り合いの可能性が高い。雨男である武臣が来たのだろうか、などと考えながら裏口の鍵を外し、ドアを開ける。

 その先に頼りなさげに佇んでいたのは、ネコだった。

「………サノくん」
「ネコ!?ちょ、お前…びしょ濡れじゃねーか!」

 あまりにも酷い濡れ具合のネコを見て驚き声を上げた真一郎は、腕を引っ張って急いで中へと招き入れる。気温はさほど寒くないはずなのに、掴んだ彼女の腕からは震えが伝わってきた。どのくらい雨に降られていたのかはわからないが、濡れたせいで体温がかなり下がってしまっているのだろう。

「ちょっと待ってろ」、と声をかけて奥の休憩スペースへ走った真一郎は、収納ケースからタオルを何枚かわし掴むと急いで彼女の元へ戻る。裏口から入った場所で立ったままのネコの足下は、彼女の髪や服から滴り落ちた雨で水たまりができ始めていた。

 持ってきたタオルを彼女の頭と肩にかけてやり、もう一枚を本人に手渡す。「アリガト…」と小さく呟いたネコは、そのタオルを顔に押し当てて、ほぅ、と息を吐いた。

「なんでこんな日に傘持ってねーんだよ?」
「天気予報見てなくて。こんなに酷くなると思わなかった」
「ネコなんだから、天気の具合わかんねーの?」
「さすがにわかんないよぉ」

 全身ずぶ濡れのせいで震えているネコは、いつものような軽口のやりとりも頼りなさげな声で。真一郎は彼女の頭にかけたタオルで、水が滴り落ちる髪の毛から水分を減らそうとタオルで包んでやったが、あっという間にタオルの方がずっしりと重くなってしまった。

 その時、くしゅんっと小さく、ネコのくしゃみが響く。

「タオルじゃ全然意味ねぇな。寒いだろ」
「…うん」

 水分を吸って重くなり、使えなくなったタオルを腕に引っ掛けた真一郎は、心配そうに肩に触れる。するとやっぱり、ネコの身体の震えは止まる気配がなくて、見てるこちらが気の毒になるほどだ。心なしか、だんだん唇も血色が悪くなっているように見える。

 その姿を見下ろしていた真一郎は、一度目を瞑ってから意を決したように開くと、「あのさ、」と声を掛けて人差し指で天井を指す。指された指に従って、ネコの視線が上を仰いだ。

「ここのニ階、俺の部屋なんだけど」
「…うん」
「シャワーあるから、その、…上がってく?」
「……うん」

 この状況の二人にとって、それ以外の最善の選択肢はなかっただろう。こくりと頷いたネコの手を引いて、真一郎は店の横側についている外階段を使い、二階の自分の部屋へと向かった。

***

 部屋に入ったあと早々に風呂場にネコを突っ込んだ真一郎は、急ぎ店に戻り彼女が辿った道筋を描くように残された水たまりの処理をした。元々店内用のモップがあったので、粗方水分を取り除いて、あとは自然乾燥に任せる。それから先程使ったタオル類を全部回収すると、その足で自分の部屋へと戻った。

 よく温まるように伝えていたため、ネコが出てくるまでにはもう少し時間があると判断した真一郎。扉をノックして出てきていないことを確認してから脱衣所に入ると、濡れたタオルとネコの服を洗濯機に突っ込んだ。

 その際、彼女の身につけていたフリルのついた下着が目に入ってしまったが、「ただの布…ただの布…」と呪文のように呟きながらスルーする。次に、急いで自室から自分のスウェットとパーカー、バスタオルなどを用意すると、再び脱衣所に戻って浴室の扉の前に置いた。

 部屋に戻った真一郎は、シャワーの音が聞こえないようにテレビをつける。浴室の扉と脱衣所の扉があるとはいえ、耳をすませば聞こえてしまうネコがシャワーを浴びている音。

 真一郎は、そのリアルな音とともに自然と考えてしまう邪な妄想を頭から追い払うように、いつもより力を込めてリモコンのチャンネルボタンを何度も押した。

「俺の服じゃ、流石にぶかぶかだなぁ」

 しばらくして風呂から上がってきたネコは、ドアの前に置いておいた真一郎の服を身につけ部屋へとやってきた。パーカーは肩幅がまるで合ってなくて手が見えなくなっているし、彼女の片手はずっとウエスト周りを掴んで押さえている。おそらく、スウェットのウエストサイズが大きすぎて、押さえていないとずり落ちてしまうのだろう。

「肩、落ちちゃいそう」
「服に着られてるって感じだな」
「なにそれ。しつれーじゃない?」
「ハハッ、怒んなって」

 今の状態はいわゆる「彼シャツ」であるが、あまりにも大きなサイズ違いに真一郎は先に笑いが出てしまった。萌え袖以上の袖の長さと、押さえていなければ落ちてしまうスウェットにときめきを感じる方がどうかしているだろう。
 座らせてしまった方が、スウェットが下がる心配もないだろうと思った真一郎は、自分が腰掛ける床の隣に座布団を敷いてやり、ここに座れと叩く。それに倣ったネコはおずおずと近づくと、文字通りちょこんと座った。なんだか借りてきた猫のような大人しさで、それを見て真一郎はまた笑いが零れた。
 先程まで、ネコが自分の部屋にいることや、聞こえてくるシャワーの音でかき立てられた煩悩を追い払っていた真一郎だったが、そんな彼女の様子を見て変に肩肘張っていた緊張感がほぐれる感覚がした。
 部屋の中に響く、ニュースを読み上げるアナウンサーの声。時折、気象情報のテロップと一緒にピロピロンッと音が鳴り、日本各地で大雨が降っていることがわかる情報が流れていく。

「雨、明け方までやまないみたいだね」
「だな。…送ってってやりたいけど、バイクしかねぇし」
「……」
「あー、……ネコぉ」
「んー?」

 ネコを二階の部屋にまで入れたのは今日が初めてだった。前回、前々回とネコに振り回されてきた真一郎だったが、今日はなんとなく上手くいきそうな予感がしている。
 人を見る目と、人を観察する能力にやたらと長けている真一郎の勘が、彼自身に「今夜で決めろ」と囁いてくる。
 真一郎は自分の勘に従って、口を開いた。

「…今日、泊まってく?」
「…うん」

 ネコの返答は、真一郎が思い描いていたものそのままだった。

 こんな雨の日に本当に申し訳ないと心の中で謝りつつ、真一郎は夕飯にデリバリーでピザを頼んだ。自分とネコがそれぞれ好きなトッピングのメニューで選んだハーフ&ハーフ。

 届いたピザを熱いうちに二人で食べ、二十一時から始まった映画を見ながらゆったり過ごす。窓の外から聞こえる雨足は、一向に落ち着きを見せない。

「ねー、サノくん」
「ん?」
「サノくんって、どーてーでしょ」
「!?」

 少食のネコがもういらないと残したピザを、真一郎は一人で黙々と片付けて、全て胃袋の中に収めた。

 ネコが爆弾を投下したのは、喉を潤すために飲み物を飲んでいた最中のことである、予想外のとんでもない一言で、飲み物が気管に入ってしまった真一郎は、盛大に咳をしながら彼女を睨みつける。

「ゲホッゲホッ!ハッ、え…な、なななんだよ!急に!!」
「あはは、すっごい噎せてる。大丈夫?」
「ネコのせいだよ!」

 笑って背中を摩ってくれようとする彼女から逃れるように、身体を捻って手を避けた真一郎は、噎せた咳で滲んだ涙を袖で拭った。真一郎の咳が落ち着くまで待っている様子のネコは、ずいぶん楽しそうで。他人事だと思いやがってと、真一郎は悪態をつきたくなった。

「いつも通りにしようとしてるけど、知ってる?ちょっと挙動不審になってるの」
「…うそ」
「ほんと」

 テーブルに頬杖をついてにまにまと笑みを浮かべるネコ。平常心でいようと心がけていた真一郎の様子は彼女にはバレバレだったようで、気付かれたことへの羞恥で頬が熱くなるのを感じていた。

 追い打ちをかけるように「ほら、顔真っ赤」と言われると、ついに真一郎は項垂れて両手で顔を覆う。

「もー…、からかわねぇで…。俺、今いっぱいいっぱいだから」
「…我慢してる?」
「してる。ちょーしてる。まじで褒めて欲しいくらい」

 ネコが、好きな女がシャワーを浴びて、自分の服を着て、自分の部屋にいるのだ。しかも今日は、不可抗力とはいえお泊まり。そんな状態で平常心を保とうとしているのだから、真一郎の苦労も少しはわかってもらえるだろう。

 つまり、童貞にはキツい。

「ねぇサノくん」
「…なに」

 ネコに話しかけられても、真一郎はそちらを見ようとしなかった。視界に入れてしまえば、今我慢していることが全部無駄になるような気がしたからだ。真一郎は、男の理性ってこんなに脆いもんなんだなぁ、と今まさに実感している真っ最中である。

 自分の方を見ようともしない真一郎に対し、両手を伸ばしたネコはそのまま彼の頬を包んで自分の方へと顔を向けさせる。ちょっと抵抗した真一郎だったが、ネコが無理矢理こちらに向かせようと力を込めてくるので、仕方がなく視線を合わせた。

 真一郎と目を合わせたネコは、じっと彼の顔を見てこう言った。

「こういう時は、手出していいんだよ」
「は?」

 狼狽える真一郎を、ネコの月みたいな綺麗な目が射抜いた。

「さすがに男の人の部屋に泊まって、何もないなんて思ってるほど子供じゃないよ、私」
「いや、でも…それはお前…」
「…期待してるって言ってんの。わかんない?」

 彼女が挑発するような発言をして、瞬きを一度して目を開けた時。そのたった一瞬のうちにさっきまで見えていた部屋の風景はぐるりと変わって、天井を背にした真一郎が視界いっぱいに映っていた。

 近くにベッドがあるはずなのに、そこまで運べない余裕のなさ。でもそれだけ、性急に求めてくれている証拠なのだと感じて、ネコの心は嬉しさで満たされる。

「なんなのお前。もう、止まれないからな。煽ったの、ネコ。俺、我慢した」
「ふふ、カタコトになっちゃってるよ」
「マジで。なぁ、」
「うん。いいよ、合意の上ってやつ」

 そう言って優しく頬に触れてくるネコの手を、包み込むように自分の手のひらで掴んだ真一郎。そのまま、今日まで胸に抱いていた想いを吐露する。

「ネコ。…好きだ」

 告白をされて、そのままキスされるのかと思っていたネコの予想に反し、まず齎されたのは真一郎からの熱烈な抱擁だった。押し倒されたまま抱きしめられたことで、真一郎の体重がネコにかかる。ちょっと重くて、窮屈すぎるくらいのその抱擁は、全然スマートではないけれど。真一郎の腕の中で嬉しそうに目を細めたネコは、彼の背中に腕を回した。

「…私も。好きだよ、シンイチローくん」

 ぽつり、と零されたネコの気持ち。そして、彼の名前。

「え。」

 突如耳に入ったその名前に、真一郎は身体を離してネコを見下ろした。彼の目は驚きで見開かれていて、豆鉄砲をくらった鳩のようだ。

「ん?」
「今…え、名前…」

 真一郎が、ずっと呼んで欲しかった自分の名前。しかし、突然訪れたその時に頭が追いつかない彼は、ろくな言葉も紡げぬままネコを見下ろすことしかできない。そんな様子の彼を落ち着かせるように腕を伸ばしたネコは、ちょこっとだけ跳ねている彼の髪の毛の襟足を、そっと撫でる。

「…ねぇ、シンイチローくん。今が、いざって時だよ」

 ネコが言葉を言った瞬間、再び襲いかかる重いくらいの彼の体重。勢い余って床とサンドイッチにされて、「ぐぇ」なんて色気のない声を出してしまったネコは、一瞬固まって笑い声を上げた。

 それでもなおギュウギュウと抱きついてくる彼に対し、ネコは襟足から首、肩にかけてを宥めるようにゆっくりと撫でた。しばらく真一郎の好きなようにさせ、彼と床とのサンドイッチを味わっていた彼女の耳に、声が届く。

「マオ」

 初めて呼ばれたはずなのに、よぉく耳に馴染む彼の声。自分だけの名前を呼ばれるという幸福感に、マオは噛み締めるように目を瞑って返事をする。

「うん、」
「マオ。…マオ、マオ」
「うん、聞こえてるよ」
「お前が好き。マオのことが、好きだ」
「うん、私も好きだよ」

 名前をたくさん呼んでくれる彼に嬉しさを伝えるように、マオは真一郎の首に腕を回した。

「俺の名前、呼んで」
「シンイチローくん」
「もういっかい、」
「シンイチローくん。シンイチロー」
「もっと…」
「……真一郎」

 今まで互いに呼んでこなかった名前を、これでもかと口にする。その度に返事をして、抱きしめる腕に力を込めて、お互いの存在を確かめるように繰り返した。

 しばらく抱擁を堪能していた真一郎は、ようやく自分が床の上に彼女を押し倒していたことに気がついた。硬い床の上で自分の体重の一部を受け止めていた彼女は、痛いし重いはずなのになんの文句も言わず。その受け止めてくれる気持ちが歯がゆくて、一層愛おしく感じた。

 慌てて彼女を引っ張り起こすと、背中を痛めてないか手を添えて確認する。心配性すぎる彼の様子に笑って平気だと答えたマオは、真一郎の手を握って「ベッド行こ…?」と誘った。

 もうこの時点で、真一郎は自分のなけなしの理性を抑えるのに精一杯になりつつあった。

「で、できる限り……優しくする、します。頑張る」

 仕切り直しのように今度はベッドの上で彼女を横たわらせると、緊張した面持ちで宣言する。しかし、そんな彼の努力を蹴飛ばすような発言をするのが、マオだ。

「シンイチローくんなら、ちょっとくらい乱暴にしてもいいよ」

 その言葉に、イラッだかムラッだか、感情が昂った真一郎は、彼女の両手首をベッドに押さえつけて問うた。

「…ちょっとって、どれくらい?」
「え〜?それはぁ、」
「口で聞くのは、マナー違反じゃない?」

 いたずらっ子みたいな笑みを浮かべてマオがそう囁くので、真一郎はもう我慢する必要がなくなった。

 三回目のキスは、二人とも同じでほんのりピザの味がした。ロマンチックの欠片もないそれに、二人揃って笑ってしまったけれど。想いが通じあった真一郎とマオには、そんなことさえも嬉しくて愛おしいものでしかなかった。

 ようやく真一郎が手に入れた、目の前の存在。

 ─ やっと。やっとだ。

 ようやく手に入れた。
 今日からこの子が、俺だけの猫(マオ)だ。

 胸に広がる形容しがたい喜びを噛み締め、真一郎は小さな彼女の身体をかき抱いた。

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