虚数iは対になる虚数iによって
「分かんないよぉ・・・」
ポツリと呟いたその言葉は空に吸われたのか、薄れてどこかへ行ってしまった。行方など知るはずも無く、当の本人も知ろうとなどしていない。
一つ一つの小さなことに全ての気を向けていたら、それこそすべての事に突っ掛らなければならず、生きてなどいけない。だから、生きるためには自分が気になることも目をそらして生きてゆかなければならないこともある。何故と思う心が大切などと理科などでよく言われるが、時と場合によっては、気になってもそれが世の中の摂理であるのだ、と流さないといけないこともある。
けれど、やっぱり、気になって仕方がないこともある。
一つ目は、さっきの数学の授業で習った、虚数i 。実際には存在しないはずなのに、頭の中、数学上では存在するという、何とも不思議な存在である。しかもそれを二乗すれば実際に存在できる数になれると言うのだから全く意味が分からない。
実際に存在しないものを二乗できるのだろうか?
実際に存在するものを平方すれば実際には存在しないものになることもあるのだろうか?
頭の中、数学上では存在しているのならそれは実際に存在ししているのではないのか?
だんだんと哲学者のような問いだけが浮かんで、考えてもきりがないのでもう止めた。
「ひとりじゃぁ・・・分かんないって・・・・・・・」
嘆きにも聞こえたそれは再び空に吸われる。
二つ目は雲雀恭弥という人物。
風紀委員に入っているらしく、腕には風紀の文字が縫われた赤いワッペンを付けている。遠くから見物しているだけなら、かっこいいーとか、軽い気持ちで目の保養として見ていられるけど、実際に本人の近くに行ってみると(自分で近付いたのではない)人を寄せ付けないオーラが明らか漂っていた。何とも近寄りがたい存在であることには違いなかった。・・・はずなのに、気のせいなのかもしれないが、やたらと視線が交わったりする。というか、何かと最近は風紀委員がいる部屋に行くことが増えたような気がして、何故なのか風紀委員と関わりを感じ始めている自分がいる。そして、それと同時に一匹狼の雲雀恭弥に親近感にも似た感情を持ち始めている自分がいた。話してみれば、予想と違って意外に話しやすかったりする。
いつも完全無欠な無表情な雲雀なので、笑った顔や怒った顔を見てみたいと時々無意識に思っていたりする。
雲雀に会うたび、雲雀のことを考えるたび、何とも言えない感情がもやもやと自分の中に感じる。それは何か名前を欲しているようだったが、自分でそれに名前を付けるのは何だか気が引けた。
名付ければ認めることになる。
名付ければ自分が苦しむことになる。
名付ければ今の関係を壊しかねない。
名付ければすべてが変わってしまう。
「ねぇ、君、こんなところで何してるの?」
噂をすれば・・・・ということで、雲雀恭弥が屋上に現れた。あまりに突然の事で、私は一瞬、瞬きするのを忘れたような気がする。
黒い学ランが風に揺られるとともに雲雀の漆黒の髪が揺れる。
「え、あ、え・・・・・」
「喋れないの?」
呆れているのかそうでないのかあまり推測の出来ない表情を向けて雲雀はこちらに歩みを進めてきた。
「もしかして・・・聞かれてた・・・?」
「ひとりじゃ、何が分からないの?」
雲雀の性格と自分の性格上、隠し事など通用しない。隠そうとしても私の場合は上手くできずにすぐに雲雀にばれてしまうのだった。だから私は隠すことなどせず、そのまま話した。とはいえ勿論、二つ目のことなど話せるはずがない。
「・・・・今日、数学で虚数iっていうのを習ったんだけど、いまいちよく分からないんだよねー。実際に存在していないっていうのに式の中に存在して、計算できるって・・・訳分かんなくて・・・矛盾してない?って思ったんだよ」
「・・・数学者になりたいの?」
「違うよ。気になって・・・・でも、考えただけじゃ、自分だけじゃ、答えって出ないだよね」
「よく分かってるのに、どうして自分だけで答えだそうとしてる?君ってもしかしてバカ?」
「うわー、ひど」
そうやって冗談半分に頬を膨らませてみると、雲雀は何も言わないで私に近付いてきた。それも異常なほどに。
「ひ、雲雀!?」
「じっとしてて」
声が上ずって心臓が飛び出そうな私とは違い、雲雀は至って平常な表情だった。
あまりにも至近距離に自分のものではない、吐息を、体温を、瞳を、声を感じた。
「虚数iは同じ虚数のiをかければ、実際に、現実に存在することができるんだよね」
「え・・・う、うん」
「その存在を疑われるものでも同じもの同士をかければそれは存在するんだよね」
問いなのかそれとも確認に近い者なのか分からない口調で言葉を放つ雲雀の心が全く読めない。今まで一度も読めたためしなど一度も無いのだが、今は特に訳が分からない。
この体勢も。
私に落ちる影は全てが雲雀によって作り出されたものだ。今、それが私の全体を覆っている。そしてうしろには逃げ場など無く、フェンスに背が当たっている。
「ねぇ、愛って存在してると思う?」
「・・・・存在してるんじゃないかな・・・・・?」
「でも、物理的にその存在が確かめられてるわけじゃない」
「うん。でも、私はあると思うよ」
「僕も思う。だけど、愛も一つだじゃ駄目なんだよね。それじゃ一方的で不安定でその存在も危ぶまれる」
「でも、それが二つになれば安定して現実に存在できるってこと?」
その問いに雲雀は首を縦に振って見せた。いつになく真剣な雲雀の瞳は私を射止めて離さない。
けれど、雲雀が一体何が言いたいのか、さっぱり分からない。そんな私の心の中が分かったのか、小さく呆れのため息を吐いた。しかし、至近距離だったので、そのため息もすぐ近くに感じて、心臓が口から出そうになる。どうせ、そうさせてる目の前の本人は知る由も無いのだろうけど・・・。そう思うと自分も思わずため息を吐きたくなってしまう。
「僕と君は運命共同体」
「うん」
「だから同じような存在」
「うん」
「なら、一方的で不安定な愛も、僕と君がいれば存在できるよね」
「うん。・・・・・て、ええ!?」
それってどういう意味?と聞き返そうとしたが、その術を雲雀に奪われてしまった。
静かに流れるほんのわずかな時間があまりにもくっきりと脳裏に焼き付けられて瞬間だった。
身体を包む自分ではない体温があまりにも愛おしく、優しかった。
愛は運命共同体の愛によって実在を確証される
私はその数か月後、守護者の力に目覚めた。
そして、溺れた愛に、吐息に、体温に、瞳に、声に、私は私の全てをかけて愛し、歩んだ。